Berlin

4.0
Berlin
「Berlin」

 「Berlin」は、ロサンゼルス・インド映画祭で2023年10月14日にプレミア公開され、インドではZee5にて2024年9月13日から配信開始されたスパイ映画である。ただし、かなり異色の映画だ。まず、「ベルリン」を題しているにもかかわらず、ドイツの首都ベルリンは全く出て来ない。そして、スパイとして登場するのは聾唖者なのである。

 監督は「Class of ’83」(2020年)のアトゥル・サバルワール。主演はアパールシャクティ・クラーナー、イシュワーク・スィン、そしてラーフル・ボース。他に、アヌプリヤー・ゴーエンカー、カビール・ベーディー、ディーパク・カーズィル・ケージュリーワールなどが出演している。

 この映画には、ライバル関係にある2つの政府機関、「ビューロ」と「ウイング」が登場する。どちらも正確な名称は言及されていないが、明らかに前者は国内の犯罪捜査を担う中央捜査局(Central Bureau of Investigation)、後者は対外諜報を担う研究分析局(Research & Analysis Wing)のことである。

 1993年のデリー。もうすぐデリーにはロシア大統領が到着することになっていた。米国などは、インドとロシアがミサイル開発に関する取引を交わすことを警戒していた。

 デリーの聾唖学校で手話を教えていたプシュキン・ヴァルマー(アパールシャクティ・クラーナー)は、突然「ビューロ」に呼び出される。そこでジャグディーシュ・ソーンディー(ラーフル・ボース)から、拘束中のスパイ、アショーク・クマール(イシュワーク・スィン)の尋問への協力を頼まれる。アショーク・クマールは生まれたときから耳が聞こえず、言葉がしゃべれなかったため、手話で会話ができる人材が必要だったのである。

 プシュキンはソーンディーの指示通りにアショークに質問を繰り返す内に、ロシア大統領暗殺計画に何らかの関係があることに気付く。プシュキンは「ウイング」からも接触を受け、JVラマン(ディーパク・カーズィル・ケージュリーワール)から「ビューロ」とは別の質問をアショークにするように頼まれる。プシュキンは「ビューロ」と「ウイング」の間で板挟みになるが、彼の同情は徐々にアショークに向かうようになった。

 アショークは、生まれてすぐに親に捨てられ、孤児院で育ち、聾唖学校で学んだ。卒業後は、コンノートプレイスにあるカフェ・ベルリンに給仕の職を得た。カフェ・ベルリンは、「ビューロ」、「ウイング」、外務省、東ドイツ大使館、ソビエト連邦大使館から徒歩圏内にあり、各諜報員の情報売買拠点になっていた。機密情報が飛び交うため、聾唖者の給仕は都合が良かったのである。

 アショークは、カフェ・ベルリンで「ウイング」のエージェントであるマハージャンとメヘターが写真を見せて一人の女性を脅しているのを見る。アショークはマハージャンの家を突き止めて忍び込み、金庫の中からその女性がソーンディーと情事に耽っている写真などを入手する。だが、そのときマハージャンの家に「ビューロ」の捜査官が踏み込んできた。咄嗟にアショークは隠れる。マハージャンは捕まるが、銃を手にしていたアショークは「ビューロ」の捜査官を撃ち殺し、彼を助ける。アショークはマハージャンを連れて女性の家に行き、写真を返そうとする。だが、「ビューロ」の捜査官の反撃を受け、気を失ってしまう。女性は逃げ出し、以来行方不明とされていた。

 プシュキンは毎日少しずつアショークの尋問をしていた。あるとき、彼はソーンディーのジャケットから鍵を盗み出すことに成功する。彼は密かにソーンディーの部屋に入り、書類を物色する。すると、彼の部下ラームナーラーヤンが入ってきて、金庫を開けて書類の写真を撮り出す。実は彼は「ウイング」と密通していた。ソーンディーが部屋に戻ってきたためにプシュキンとラームナーラーヤンは一緒に逃げ出す。ラームナーラーヤンによると、「ビューロ」はマハージャンとメヘターを拉致しており、「ウイング」は彼らを解放しようと動いているとのことだった。一方、勘のいいソーンディーは、プシュキンが自分の部屋に忍び込んだことに気付く。

 プシュキンは、女性はISIのエージェントであること、ソーンディーは彼女のハニートラップにかかり機密情報を渡していたこと、そして彼女は既に死んでいることを知る。そしてソーンディーはアショークをスパイに仕立てあげて罪をかぶせようとしていた。プシュキンは何とかアショークを救おうとする。だが、ソーンディーはアショークに、もし嘘の自白をしなければプシュキンをスパイに仕立てあげると脅す。アショークはパーキスターンで訓練を受けたスパイだと認める。アショークは逮捕され、スパイ罪で有罪になり、絞首刑となる。

 プシュキンは、アショークの死刑が一面記事になっているのを見る。彼が教える聾唖学校では、アショークを英雄視する子供がいた。

 1990年代のデリーを舞台にした映画であるため、できる限り当時のデリーをスクリーン上で再現する努力が払われていた。とはいっても個人的には1990年代のデリーは「現代」の範疇で、そんなに昔ではない感覚である。それでも、改めてこうして映像で見せられると、確かに既にレトロの域に達している。たとえば、街中を走る公共バスは緑の車体に黄色のラインが入りディーゼルエンジンで駆動する懐かしのDTCバスだった。ダイヤル式の電話が当たり前のように使われていたし、建築も当時の垢抜けないデザインになっていた。

 1993年というと、財政破綻寸前に陥ったインドが経済自由化を決行した直後であり、また、インドが頼りにしていたソビエト連邦が崩壊し、ポスト冷戦に時代が移行しつつあったときでもあった。ソ連の後継国家としてロシアが誕生し、インドはロシアと引き続き友好関係を保とうとしていた。だが、その動きに米国が警戒を示していた。そんな中、ロシアの大統領がデリーを訪問しようとしていた。実際にロシアのエリツィン大統領が1993年1月にインドを訪問している。ただ、このときにエリツィン大統領の暗殺計画があったのかは不明だ。映画の中ではパーキスターンの諜報機関ISIがエリツィン大統領の暗殺を企てていたとされていた。もちろん、その裏には米国やCIAがいるだろう。インドとロシアの二国間関係崩壊を狙っていたのだ。

 ロシア大統領訪印とその暗殺計画を巡って、インド政府内では「ビューロ」と「ウイング」の内紛も起こっていた。「ビューロ」の捜査官であるソーンディーは、ISIのエージェントである女性のハニートラップにかかっていた。「ウイング」はその証拠写真を使って女性を脅し、ソーンディーを追い落とそうとしていた。それに対しソーンディーは、たまたま女性に関わることになった聾唖者のアショークをスパイに仕立てあげ、自身と「ビューロ」を守ろうと躍起になっていた。この争いに手話教師のプシュキンが巻き込まれることになってしまったのである。ちなみに彼の名前はロシアの詩人アレクサンドル・プシュキン(プーシキン)から取られているが、彼自身がロシアと関係を持っているわけではない。

 プシュキンは多くの聾唖者と会話してきたこともあり、彼らのことをよく知っていた。アショークを尋問する内に彼の人柄が分かってきて、次第に彼はスパイではなく、スパイに仕立てあげられようとしているのではないかと感じてくる。

 一方、アショークはアショークで別のことを考えていた。彼は承認欲求が強く、チャンスさえ与えられれば聾唖者でも何かを成し遂げられると信じていた。彼は、スパイ容疑で捕まったことをそのチャンスだと考えるようになった。さらに、アショークも尋問の過程でプシュキンを悪い人物だとは思わなくなり、彼と心を通わすようになっていた。プシュキンにスパイの濡れ衣が着せられようとしているのを知ったアショークは迷わずスパイだと嘘の自白をする。そのせいで彼は絞首刑になってしまうが、聾唖者でもスパイになれるという希望を聾唖の子供たちに与える効果があった。プシュキンはその奇妙な結末を複雑な思いで見つめる。

 大部分のセリフが手話で進むスパイ映画という異例の作りだった。しかも低予算で作られていることは想像に難くない。それでも、1990年代の国際政治を背景にしながら、そこに国内外の諜報機関同士の攻防を重ね、予算の少なさを覆い隠すスケールの大きさを実現し、さらに緊張感に満ちた緻密な人間ドラマを盛り込んでいる。

 アパールシャクティ・クラーナー、イシュワーク・スィン、ラーフル・ボースの競演も素晴らしかった。ラーフルはベテラン俳優であるが、若手の有望株であるアパールシャクティとイシュワークも負けてはなかった。

 「Berlin」は、低予算かつOTTリリースながら、侮ってはいけない作品だ。尋問室という密室の中で手話にて会話が交わされるシーンを基調としながらも、国家間のパワーゲームにまで話題を広げスケールを大きくすると同時に、丁寧にスパイ容疑の真偽を紐解いていく。その過程は非常にスリリングだ。1990年代のデリーをなるべく忠実に再現しようと努力が払われているのも個人的に好感が持てた。必見の映画である。