ラダック・ツーリングで3週間ヒンディー語映画を観ることができなかった。その間にいくつか重要な映画が公開されており、今週はできるだけ多くの映画を観ようと思う。とりあえず今日は2本の映画を観た。最初に観たのは非常に評判の良い「English Vinglish」。2012年10月5日公開。1980年代から90年代初期に活躍した大女優シュリーデーヴィーのカムバック作品だが、決してその要素だけでヒットしている訳ではない。監督は新人のガウリー・シンデー。だが、彼女の夫は名作「Cheeni Kum」(2007年)や「Paa」(2009年)で知られるRバールキー監督であり、決して過小評価することはできない。ヒンディー語版と同時にタミル語版とテルグ語版も公開されている。ちなみに題名となっている「Vinglish」とは、南アジアの言語に特徴的なエコーワードというやつで、特に意味はない。前の名詞と似たような音の語を加えることで、「~や何か」という意味になる。「チャーイ・ワーイ(チャーイや何か)」などよく使われる。
監督:ガウリー・シンデー(新人)
制作:スニール・ルッラー、Rバールキー、ラーケーシュ・ジュンジュンワーラー、RKダマーニー
音楽:アミト・トリヴェーディー
歌詞:スワーナンド・キルキレー
衣装:アールティー・パトカル
出演:シュリーデーヴィー、メーディ・ネブー、アーディル・フサイン、プリヤー・アーナンド、スルバー・デーシュパーンデー、スジャーター・クマール、ナヴィカー・コーティヤー、シヴァーンシュ・コーティヤー、ニールー・ソーディー、ラージーヴ・ラヴィーンドラナータン、ルース・アギラ、スミート・ヴャース、マリア・ロマノ、ダミアン・トンプソン、コリー・ヒブス、アミターブ・バッチャン(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサントクンジで鑑賞、満席。
シャシ(シュリーデーヴィー)はプネーに住む中産階級の主婦であったが、得意のラッドゥー(インドのお菓子の一種)を知り合いに売って小遣いを稼いでいた。シャシと夫サティーシュ(アーディル・フサイン)の間には長女サプナー(ナヴィカー・コーティヤー)と長男サーガル(シヴァーンシュ・コーティヤー)が生まれ、何不自由ない生活を送っていた。唯一、シャシの悩みは英語が苦手なことだった。サティーシュは英語堪能であるし、2人の子供も学校で英語を習っている。同居する義母(スルバー・デーシュパーンデー)を除けば、家族で英語ができないのはシャシだけであった。シャシは劣等感に苛まれて暮らしていた。 あるときニューヨークに住む姉マヌー(スジャーター・クマール)から電話が掛かって来て、彼女の長女ミーラー(ニールー・ソーディー)の結婚が決まったと吉報が入る。シャシの家族もニューヨークに呼ばれた。だが、結婚式の準備のために人手が必要で、シャシは他の家族より一足先にニューヨークに行くことになった。英語ができないシャシは不安でいっぱいだったが、家族に説得され、渋々単身ニューヨークへ飛ぶことになった。 マヌーは、夫のアニルを亡くした後、女手一つで2人の娘たちを育て上げた。長女のミーラーはこの度結婚し、次女のラーダー(プリヤー・アーナンド)は大学で勉強していた。ニューヨークに着いたシャシはマヌーの家に滞在して結婚式の準備をすることになる。しかしマヌーは日中仕事で家におらず、シャシは昼間基本的に一人であった。思い切って外出したシャシは早速英語ができないばかりにカフェで屈辱的な体験をし、落ち込む。そんなとき彼女の目に入ったのが「4週間で英語をマスター」という英語学校の広告だった。シャシはラッドゥーを買って貯めたお金を資金とし、密かに英語学校に通い出す。英語学校にはメキシコ人、フランス人、パーキスターン人、インド人、韓国人、アフリカ人など、様々な国籍の生徒が英語を学びに来ていたが、彼らが共通して抱える問題は、英語ができないことから来る劣等感であった。 シャシは英語学校でめきめき英語を上達させる。また、英語学校に通うフランス人ローレン(メーディ・ネブー)と親しくなる。ローレンはフランス料理のシェフとしてニューヨークで働いていた。ところが、ローレンと一緒にいるところをラーダーに見られてしまい、英語学校に通っていることを彼女に明かすことになる。だが、ラーダーは英語を学ぼうとするシャシのガッツを応援し、二人だけの内緒とする。 英語のコースも3週間が過ぎ去り、残るは1週間となる。教師のデーヴィッド・フィッシャー(コリー・ヒブス)は、最終日にテストとして5分間のスピーチをしなければならないと生徒に通告する。それに合格して初めて生徒たちは証明書をもらえる。ところがその日はミーラーの結婚式であった。シャシは考え込んでしまう。 また、サティーシュ、サプナー、サーガルが予定よりも早くニューヨークに来てしまう。子供たちの世話をしなければならなくなったシャシは英語学校に通えなくなってしまう。しかしラーダーとローレンが協力し、ストリーミング・ビデオを使ってシャシが家にいながら授業に参加できるようにする。また、テストは午前中、結婚式は午後であったので、ラーダーが何とかシャシに、テストを受ける時間を作れるように計らう予定であった。 結婚式当日。シャシは手によりを掛けて作ったラッドゥーを会場に持って行こうとするが、そのときサーガルが悪戯をしたことで、ラッドゥーが全て台無しになってしまった。シャシはもう一度ラッドゥーを作り直すことを決意する。もちろんそうすることでテストは受けられなくなってしまうが、シャシにとっては英語よりもラッドゥーの方が大事だった。テストの時間は過ぎ去ってしまった。 結婚式が始まった。ラーダーは英語学校のクラスメイトやデーヴィッド先生を結婚式に招待していた。彼らは結婚式会場にやって来る。そこでマヌーや新郎の父親(白人)が英語でスピーチをする。それが終わるとラーダーはシャシにスピーチをするように促す。シャシが英語を学んだことを知らないサティーシュはそれを制止するが、シャシは立ち上がって英語でスピーチを始める。参列者はそのスピーチを聞いて拍手を送る。デーヴィッド先生もそのスピーチでもって合格とした。 苦手な英語を克服したシャシは、マヌーやラーダーに見送られ、自信を持ってニューヨークを去る。
英語話者人口の多さは国際的にはインドの大きな武器だと一般に認識されている。だが、国内をよく観察すると、英語は諸刃の剣となって一般庶民を抑圧し、社会を分断している。インドの教育は完全にエリート養成型で、英語による教育に付いて来られる人材をより磨き上げて行くことに主眼が置かれている。だが、その当然の帰結として、英語が得意でなかったり、英語教育が満足に受けられなかったりした人々には非常に不利な社会構造となっている。英語を自信を持ってしゃべれるインド人の数はパーセンテージにしたらまだまだそんなに多くないにも関わらず、いや、だからこそ英語が手っ取り早い選別基準となって、インドにおいて英語が満足にできない人は二等市民としての生活を余儀なくされ、社会の中でなかなか上昇できない。もっとも大きな問題は、英語ができない人物はどんなに知的に優れていても教養があると見なされないことである。そして教養があると見なされないということは、社会の中で最低限の尊敬が得られないということである。自分の母国において、とある外国語が苦手であるばかりに二等市民としての生きることを余儀なくされるこの理不尽さを理解できる日本人はそんなに多くないだろう。
「English Vinglish」は、インドのその歪んだ社会構造を部分的に捉えることに成功した作品だ。部分的、というのは、同作品は結局すぐに舞台がニューヨークに移ってしまい、インドの文脈からかなり離れてしまうからである。インドにおいて英語ができなくて困ることと、米国において英語ができなくて困ることでは、だいぶ受け止め方が異なる。米国では英語が事実上公用語として話されており(ただし英語は憲法で規定された米国の公用語ではない)、英語をマスターすることは米国で暮らす以上、必要不可欠と言っても語弊はないだろう。だが、インドにおいて英語をマスターする必要性は、特に主婦などにとっては、本当はないはずである。自国で外国語ができないことで直面する問題と、外国で外国語ができなくて困る問題は全く別だ。よって、舞台がニューヨークに移ったことで、せっかくインドの文脈の中でなされた重要な問題提起が曖昧になってしまっていた。だが、序盤において英語ができないインド人中産階級主婦の苦悩はよく描写されており、それだけでもかなりいい着眼点と共に映画が構想されたと評価できる。
ただ、映画の中で英語の問題は単なるショーケースであり、本当にこの映画が取り扱っていたのは女性の自尊心、特に主婦の自尊心の問題であった。仕事に忙しい旦那と生意気な2人の子供たちに囲まれ、主人公のシャシはいつしか自分に自信の持てない女性に成り下がっていた。英語ができないことも家族から下に見られていた原因ではあったが、それよりもシャシが自分から自分を無価値の存在としてしまっていたところがあった。その心境に変化が訪れるきっかけとなったのが、フランス人シェフのローレンとの出会いであった。ローレンはシャシの美しさを褒め、彼女に必死に言い寄る。シャシは久し振りに自分に価値を見出してくれる人物に出会ったのだった。
もちろんこれはインド映画であり、シャシは保守的なインド人主婦であるため、その後二人が不倫関係になったりすることはない。それで正解だった。この辺りの大人の恋愛の取り扱いの巧さは、「Cheeni Kum」などで見せたRバールキーの手法を思わせるものがあり、きっと彼の何らかの介入・助言・影響があったと思われる。絶妙なのは最後のシーンだ。シャシはただローレンの求愛をはねのけるだけでなく、「自分に自信を持たせてくれてありがとう」と告げる。この二人の関係は、優れた「English Vinglish」の中でも白眉と言っていいだろう。
また、英語が苦手な主婦が英語を何とかマスターするという内容であるにも関わらず、英語を盲目的に支持していたという訳でもなかった。この辺りのさじ加減も良かった。基本的にヒンディー語映画でありながら「英語さえしゃべれれば尊敬が得られる」、「みんな英語を学ぼう」という単純なメッセージを広める作品では決してなく、あくまで自尊心を持って生きることの大切さを主張していた。映画の最後、インドへ帰る飛行機の中でシャシは客室乗務員にヒンディー語の新聞はないか英語で聞く。ここでこれみよがしに英語の新聞を読み始めていたら、少し興醒めだった。英語をマスターし、自分に自信が持てた。ならばまた元の自分に戻ればいい。何も無理して英字新聞を読む必要はないのだ。
シャシがラッドゥーをはじめとした料理の名人との設定なだけあって、映画中では料理をするシーンや食事が出て来るシーンが多く、見ていてとても腹が減った。そういえば「Cheeni Kum」もインド料理レストランのオーナーが主人公の映画で、インド料理が随所に出て来た。これもRバールキーの影響であろうか?
シュリーデーヴィーの15年振りのカムバック作品とのことで、彼女の演技にも注目が集まった。僕ははっきり言って彼女のキャスティングは多少無理があったと感じた。英語のできない中産階級の主婦にとてもじゃないが見えないのである。絶対に英語ができる顔をしている。そういう外見上のギャップはあったものの、演技は見事にそれをカバーするものであった。また、このくらいの美貌がなければ、フランス人との淡い恋愛も成り立たないだろう。80年代に君臨したトップ女優のカムバックはひとまず大成功ということで、今後どんな暴れ方をしてくれるのか、楽しみである。
シャシの姪ラーダーを演じたプリヤー・アーナンドも非常にいい雰囲気だった。出身が南インドということもあり、2009年から南インド映画界で活躍しているようで、本作がヒンディー語映画デビュー作となる。夫サティーシュを演じたアーディル・フサイン、姉マヌーを演じたスジャーター・クマールなども良かった。また、序盤のアミターブ・バッチャンの特別出演はインパクトがある。
音楽はアミト・トリヴェーディー。彼の持ち味であるぶっ飛んだ曲作りは今回控え気味で、映画の雰囲気に合った上品な曲ばかりであった。タイトルソングの「English Vinglish」がグッド。
言語はヒンディー語と英語が半々くらい。苦手な英語の克服をテーマにした映画なので、このくらいの英語の台詞があっても変ではない。フランス語も少しだけ使われる。また、シャシがヒンディー語を理解しないローレンにヒンディー語で話し、それに対してローレンがフランス語を理解しないシャシにフランス語で話すというユニークなコミュニケーション場面もいくつか見られた。それでも心は通じ合うものだ。
ちなみに、映画中シャシがニューヨークのカフェで英語が分からないためにコーヒーも注文できず辱めを受けるシーンがあるが、これは海外でよくある経験なのではないだろうか?僕もロサンゼルスに行ったとき、ファストフード店で、フライドポテトを向こうではフレンチフライと言うのを知らず、一生懸命「フライドポテト!」「フライドパテーィトー!」と連呼しても店員に分かってもらえずに大恥をかいた経験がある。
「English Vinglish」は、「Cheeni Kum」などのRバールキーがプロデューサーとして名を連ねている他、監督は他でもない彼の妻ガウリー・シンデーである。よって、大人向けの上品な作品に仕上がっている。15年振りに銀幕に舞い戻ったシュリーデーヴィーの名演も当然この映画の成功に多大な貢献をしている。今年必見の映画の一本である。