英国の植民地になっていたインドを独立に導いた人物というとマハートマー・ガーンディーが有名である。ガーンディーは非暴力を武器にして英国植民地政府に立ち向かった点で特異であったが、インド独立は決してガーンディー一人の手柄ではなかった。当時、ガーンディーとは手段を異にする複数のフリーダムファイターたちが、インド独立という目的を達成するために活動をしていた。
日本ではあまり知られていないが、インド人の間ではガーンディー以上に人気のある独立活動家にバガト・スィンがいる。バガトも元々ガーンディーの信奉者であったが、ガーンディーがあまりに非暴力にこだわりすぎたためにその手法に疑問を感じ、より過激な方法で民衆の決起を呼びかけようとした。バガトが採った行動の中でもっとも有名なのが、1929年の中央議事堂爆破事件である。バガトは仲間と共に逮捕され、公判で裁かれる。バガトはそれ以前に英国人警察官を殺害しており、それらの罪によって絞首刑を宣告された。刑は1931年3月23日に執行されたが、バガトは殉死者として民衆に祭り上げられ、独立運動の拡大と推進に大きく寄与した。21世紀に入ってもバガト・スィンは依然として非常に人気のある歴史的人物である。
2002年6月7日公開の「The Legend of Bhagat Singh」は、題名が示すとおりバガト・スィンの伝記映画である。監督は「Lajja」(2001年)などのラージクマール・サントーシー。音楽はARレヘマーンが担当している。バガト・スィンを演じるのはアジャイ・デーヴガンである。他に、スシャーント・スィン、Dサントーシュ、アキレーンドラ・ミシュラー、ラージ・バッバル、ファリーダー・ジャラール、アムリター・ラーオ、ムケーシュ・ティワーリーなどが出演している。
ちなみに、同日にもう一本、バガト・スィンの伝記映画「23rd March 1931: Shaheed」(2002年)が公開されるという珍事が起こった。こちらの映画ではボビー・デーオールがバガトを演じている。
公開当時、映画館でこの映画を鑑賞したが、メモ程度のもので評論には程遠かった。そのため、2023年4月17日にもう一度見直してこのレビューを書き直した。
パンジャーブ地方のライヤルプルに生まれ育ったバガト・スィン(アジャイ・デーヴガン)は、幼少時から愛国心と反英精神の強い子供だった。バガトはスクデーヴ(スシャーント・スィン)、ラージグル(Dサントーシュ)、チャンドラシェーカル・アーザード(アキレーンドラ・ミシュラー)、ラームプラサード・ビスミルら若い革命家たちと出会い、ヒンドゥスターン社会主義共和国協会(HSRA)を設立して、インド独立を目指すようになる。HSRAはカーコーリー列車強盗事件などを起こすが、なかなか彼らの知名度は上がらなかった。やはりマハートマー・ガーンディーの人気が圧倒的だった。 独立活動家のラーラー・ラージパト・ラーイが警察官の暴行によって命を落としたことで、バガトたちは復讐を計画し、英国人警官を殺害する。バガトたちは逃亡し地下に潜るが、1929年には中央議事堂で爆弾を爆発させる。逮捕されたバガトは刑務所の中でハンガーストライキを行う。やがて仲間たちもそれに加わり、バガトの一挙手一投足がインド中の注目を集めるようになる。 バガトの人気がガーンディーに匹敵するようになったのを見て焦ったインド総督は、死刑宣告を受けたバガト、スクデーヴ、ラージグルの刑執行を急がせた。そして1931年3月23日、三人は絞首刑になる。
バガト・スィンの人生にまつわる事件をほぼ時系列に並べた、王道の伝記映画である。通常ならば映画としては退屈な作りになるはずであるが、バガトの人生そのものが強烈であることもあって、惹き付けられるものがある映画だ。アジャイ・デーヴガンもバガトを熱演していたし、ARレヘマーンの音楽も効果的に使われていた。
インドの近代史を知らない人がこの映画を観ると、ガーンディーが批判的に描かれていることに興味を持つのではなかろうか。ロンドンに留学して弁護士資格を取得したガーンディーは南アフリカ連邦に渡り、差別撤廃運動を主導して支持を集め、1915年にインドに帰国して独立運動に関わるようになった。ガーンディーが南アフリカ時代に確立した非暴力と非協力による抵抗運動はインドでも浸透したが、アムリトサル虐殺事件やチャウリー・チャウラー事件を経て、ガーンディーの非暴力主義に疑問を抱く者も出始めた。バガトもその一人だった。
非暴力主義は、相手の良心に訴えて改心を促す手法であった。だが、1919年にアムリトサルのジャリヤーンワーラー公園で多数の市民が英印軍によって虐殺されたことを受け、英国人に果たしてそんな良心があるのかという疑問が湧き起こった。さらに、1922年のチャウリー・チャウラー事件では、非協力運動に参加していた市民に警察が発砲して死者が出たことを受け、怒った群衆が警察署を襲い、警察官22人を殺害した。この痛ましい事件を聞いたガーンディーは、まだインドに独立は時期尚早と判断し、非協力運動の中止を宣言した。
バガト・スィンは、ガーンディーの手法ではなく、ロシア革命のような革命をインドでも起こして独立を勝ち取ろうとし、そのためには武器の使用も厭わなかった。「The Legend of Bhagat Singh」の中では、バガトが英国人に対して行った行動は暴力ではなく「正当防衛」と表現されていた。英国から抑圧され搾取され、生存の危機に瀕したインド人が反撃するのは当然の権利だと考えていた。
1925年のカーコーリー列車強盗事件にバガト・スィンは関わっていないが、映画の中では前半のハイライトのひとつとして取り上げられていた。ラームプラサード・ビスミルら独立活動家たちは、独立運動のための資金を調達するため、列車を強盗して英国植民地政府の金を盗み出した。その後、首謀者のラームプラサード・ビスミルらは逮捕され、革命の実現が遠のくことになった。
独立活動家ラーラー・ラージパト・ラーイは、インドの政治状況を調査しに訪印したサイモン委員会に対して平和的に抗議している最中に警察官に殴られ、そのときの傷が元で死亡する。1928年のことである。バガト・スィンはラージパト・ラーイが殴打された現場にいた。バガトは彼の仇を討つため、スクデーヴ、ラージグル、チャンドラシェーカル・アーザードたちと協力して英国人警察官を射殺する。実は人違いだったのだが、彼らは逃亡し、地下に潜ることになる。
バガトが再び表に現れたのは1929年4月だった。彼はデリーの中央議事堂に爆弾を放り込み、「インカラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)!」とシュプレヒコールを連呼して逮捕される。刑務所に入れられたバガトは待遇改善を訴えてハンガーストライキを始める。そして、殺人の容疑で裁判が行われるが、彼は公判の場を政治的主張をアピールする場に利用し、自分の考えをメディアを通じてインド全土に広めた。バガトが全国的な知名度を獲得するのはこの頃である。
映画によれば、インド総督はバガトの人気がガーンディーに匹敵するまでになったことを恐れ始めた。英国人警官の殺害に関わったバガト、スクデーヴ、ラージグルの3人には死刑が宣告されるが、インド総督はその執行を急がせた。こうしてこの3人は1931年3月23日に絞首刑になる。バガト・スィンは、絞首刑の前に首吊り用の縄にキスをしたといわれているが、映画ではそのシーンもバッチリ再現されていた。
バガト・スィンは、日本史に当てはめるならば坂本龍馬のような存在であり、彼の名誉に傷を付けるようなことは許されない雰囲気がある。「The Legend of Bhagat Singh」はバガトを完全な英雄として描いており、彼の行動には一点の瑕疵も見られない。彼が採った手段は、ガーンディーの非暴力主義とは正反対の暴力主義であり、批判も可能なのだが、映画の中ではそれは「正当防衛」として片づけられており、むしろガーンディーの方が批判にさらされていた。
バガト・スィンはパンジャーブ人であり、音楽監督のARレヘマーンはこの映画の挿入歌にパンジャーブ風味を存分に加えている。「Pagdi Sambhal Jatta」は完全なバングラー曲であるし、「Des Mere Des」や「Mera Rang De Basanti」もパンジャービー色たっぷりだ。「Sarfaroshi Ki Tamanna」の歌詞は、映画にも登場した独立活動家ラームプラサード・ビスミルの詩である。
「The Legend of Bhagat Singh」は、インドでもっとも人気の独立活動家バガト・スィンの伝記映画で、アジャイ・デーヴガンがバガトを熱演している。彼の人生を時系列に沿ってかなり忠実になぞっており、バガトを知るための教材にもなる。観て損はない映画である。