Heeramandi

3.5
Heeramandi
「Heeramandi」

 サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督はヒンディー語映画界のトップヒットメーカーである。独特の審美眼を持った彼が作品を発表するたびに業界の美的レベルが引き上げられてきたことで知られる。彼の監督作は日本でも積極的に公開されており、今まで「Hum Dil De Chuke Sanam」(1999年/邦題:ミモラ)、「Devdas」(2002年)、「Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela」(2013年)、「Bajirao Mastani」(2015年)、「Padmaavat」(2018年/邦題:パドマーワト 女神の誕生)が何らかの形で上映された。

 バンサーリー監督がNetflixのドラマを手掛けると聞いたときは違和感を感じたものだった。インドでは映画の地位が絶対的に上であり、彼ほどの売れっ子監督がわざわざドラマに手を出すことは一昔前までは考えられないことだった。しかしながら、新型コロナウイルス感染拡大とOTTプラットフォームの普及をきっかけにだいぶ業界の構造にも変化が訪れ、確立された映画監督がネットドラマなどを手掛けることも増えてきた。しかもインドで競合他社の後塵を拝しているNetflixは巻き返しを図って多額の予算を投じインド人視聴者向けの作品を作っている。ヒンディー語映画界最高峰の映画監督の一人バンサーリー監督に白羽の矢が立ったのは当然の流れだったといえよう。

 2024年5月1日からNetflixで配信開始された「Heeramandi」は、バンサーリー監督初のネットドラマである。全8話構成で、印パ分離独立前夜、ラホールの有名な花街ヒーラーマンディーに生きるタワーイフ(芸妓)たちを主人公にしている。

 キャストは非常に豪華だ。主役級なのはマニーシャー・コーイラーラー、ソーナークシー・スィナー、アディティ・ラーオ・ハイダリー、シャルミーン・セーガル・メヘターだが、他に、リチャー・チャッダー、サンジーダー・シェーク、ファルディーン・カーン、ターハー・シャー・バドゥシャー、アッディヤヤン・スマン、シェーカル・スマン、ファリーダー・ジャラール、シュルティ・シャルマー、プラティバー・ラーンター、ジェイソン・シャー、ウッジワル・チョープラー、ラジャト・カウル、インドレーシュ・マリク、ジャヤティ・バーティヤー、ニヴェーディター・バールガヴァ、アヌジ・シャルマーなどが出演している。

 バンサーリー映画でヒロインを演じることはヒンディー語映画女優の誰しもが見る夢であり、間違いなく彼女たちのキャリアの最高到達点として後世長らく語り継がれることになる。バンサーリー監督ほど女優を美しく撮ってくれる監督はいない。自分の美しさがもっとも盛りのときに彼に主演作を撮ってもらえるのは女優冥利に尽きるというものだ。事実、今まで彼は時代を代表する美女をヒロインに据えて映画を撮ってきた。特にアイシュワリヤー・ラーイやディーピカー・パードゥコーンがお気に入りであった。

 今回、多くの女優たちが起用されているが、これは彼女たちの夢を一気に叶えるドリームプロジェクトだったといえる。この中ではマニーシャーがかつて「Khamoshi: The Musical」(1996年)でヒロインに抜擢されており、バンサーリー作品に出るのは2回目になる他、アディティが「Padmaavat」にてサブヒロイン起用の実績がある。その他の女優たちにとっては初の起用となる。ちなみに、現在はパーキスターン領となるラホールを舞台にした映画であり、「Raees」(2017年)のマーヒラー・カーンなど、パーキスターン人俳優の起用も計画されていたようだが、昨今の印パ関係の悪化からか、実現しなかった。

 若手の中では飛び級的にヒロインに大抜擢された印象の強いシャルミーン・セーガル・メヘターは、「Malaal」(2019年)や「Atithi Bhooto Bhava」(2022年)に出演していた女優だが、実は彼女はバンサーリー監督の姪である。まだブレイクしていない彼女をローンチする目的もこの映画にはあったと思われる。

 「Heeramandi」は日本語字幕付きで配信されており、邦題は「ヒーラマンディ:ダイヤの微笑み」になっている。「ヒーラーマンディー」とは直訳すれば「ダイヤ市場」になるが、副題として「ダイヤの微笑み」とあるのは内容と一致せず理解に苦しむ。ちなみに、「ダイヤ市場」と聞くと、「ダイヤ=タワーイフ」を連想すると思うが、実際には19世紀前半にラホールを支配したスィク王国の王ランジート・スィンの大臣の息子ヒーラー・スィン・ドーグラーの名前から取られているので、実はタワーイフやダイヤモンドそのものとは全く関係がない。

 「Heeramandi」の前半のあらすじは以下の通りである。

 時は1945年。場所はラホール。主な舞台になるのは「シャーヒーマハル」と呼ばれるコーティー(娼館)である。ヒーラーマンディーには多くのコーティーがあるが、「シャーヒーマハル」はその中でも随一のステータスを誇っている。その主は、かつてはリハーナー(ソーナークシー・スィナー)であったが、25年前に謎の死を遂げ、現在はその妹のマッリカー(マニーシャー・コーイラーラー)が主に居座っている。リハーナーは実はマッリカーに殺されていたが、世間には自殺したと知らされていた。

 マッリカーにはワヒーダー(サンジーダー・シェーク)という妹がいた他、ビッボー(アディティ・ラーオ・ハイダリー)とアーラムゼーブ(シャルミーン・セーガル・メヘター)という娘がいた。長女のビッボーは既にナトウトラーイー(お披露目)が終わっており、タワーイフとして仕事をしていた。まだタワーイフとしてデビューしていない次女のアーラムゼーブは詩作を好み、将来は詩人になることを夢見ていた。また、マッリカーはラッジョー(リチャー・チャッダー)を養女にしており、彼女も既にタワーイフになっていた。アーラムゼーブは詩会で出会った裕福なナワーブ(王族)の御曹司タージダール・バローチ(ターハー・シャー・バドゥシャー)と恋に落ちる。

 マッリカーはリハーナーからシャーヒーマハルとは別に、その隣のカーブガーというコーティーも受け継いでいた。ワヒーダーはカーブガーの主になることを望んでいたが、マッリカーは決してその鍵を与えようとしなかった。失恋して急死したラッジョーの葬儀に突然、リハーナーの娘ファリーダン(ソーナークシー・スィナー)が現れる。マッリカーはファリーダンを売り飛ばして厄介払いしていたが、彼女がヒーラーマンディーに戻ってきたのだった。シャーヒーマハルとカーブガーの正統な持ち主はファリーダンであった。ファリーダンは早速カーブガーを買い取って住み始め、アーラムゼーブの恋を応援しながら、マッリカーへの復讐の機会をうかがう。

 前半の中心となるのは、シャーヒーマハル(王の宮殿)の主マッリカーと、新たにカーブガー(夢の家)の主となった姪ファリーダンの間に繰り広げられる骨肉の争いだ。ファリーダンは母親を殺し自分を売り飛ばしたマッリカーを憎んでおり、彼女を没落させるためにあれこれ策略を巡らす。一方でシャーヒーマハルの女性たちを恐怖で支配し、英国人に対しても一歩も引かない女帝マッリカーも、シャーヒーマハルの正統な後継者であるファリーダンに脅威を感じ、潰そうとする。母と叔母のこの泥沼バトルに巻き込まれた若くて純粋なアーラムゼーブは翻弄されることになる。

 この辺りの人間ドラマは非常にゾクゾクするものだ。女性たちが中心のドラマであり、男性は添え物に過ぎない。アーラムゼーブが恋するタージダールにしても脇役の域を出ていない。あくまで主体はマッリカーやファリーダンといった、目的のためなら手段を選ばない剛腕の女性たちである。

 ところが、時代は印パ分離独立の2年前となる1945年だ。まだ英国による支配が続いていたが、反英運動も最高潮に達していた。ラホールでもハミード(アヌジ・シャルマー)という活動家を中心に独立運動が盛り上がりを見せていた。英国帰りで育ちのいいタージダールも愛国心を胸に秘めており、英国の忠実な支持者である父親の反対を押し切って、ハミードの主導する独立運動に関わるようになる。この活動にはビッボーも密かに加わっており、ムジュラー(舞踊)で稼いだ金をせっせと寄付していた。

 反英的な要素は単なるサイドストーリーに留まらず、物語が終盤に差し掛かると一気に前面に出て来る。あれほどマッリカーを憎んでおり、そのためには英国人警察官僚とも親密な関係を結んでいたファリーダンも、英国人を共通の敵と認識したことで迷わずマッリカーと手を結ぶようになる。マッリカーもアーラムゼーブの逮捕をきっかけに英国人に対して表立って反旗を翻し、急に独立運動に全面協力し出す。ビッボーは警察に逮捕、投獄され、最終的には死刑となるが、それをきっかけにヒーラーマンディーの女性たちが一致団結して英国人に反旗を翻し、最終話である第8話では愛国主義的なトーンが支配的になる。女同士の陰険な争いをドキドキしながら観ていたはずが、いつの間にか愛国ドラマを見せられることになる。

 もし「Heeramandi」が映画ならば、時間に上限があるため、一人もしくは少数の主人公を軸にして物語を組み立てていたことだろう。そうすることで芯の通ったまとまりのある作品になっていたと思われる。ところが全8話のネットドラマという形を採ったことで、主人公級の登場人物が複数用意され、彼女たちのエピソードがそれぞれ詳しく語られたため、焦点が分散されてしまった印象は否めない。拡散してしまった物語を何とかまとめるため、最後は取って付けたような反英愛国主義に走ったのではないかと邪推したくなる。

 タワーイフたちが主人公の映画ということで、彼女たちがムジュラーをするシーンがいくつもあった。1話につきひとつはダンスシーンが用意されていたのではなかろうか。芸妓が客の前で妖艶な踊りを踊るムジュラーはバンサーリー監督のトレードマークといってもいい要素であり、今までも「Devdas」や「Padmaavat」などで数々の名シーンを生んできた。「Heeramandi」のムジュラーもそれぞれ美しいものであったが、バンサーリー監督の過去の作品を超える出来だったかと問われると、首を縦に振るのは難しい。それでも、アディティ・ラーオ・ハイダリーやリチャー・チャッダーが熟練された踊りを披露していた。

 バンサーリー監督はマルチタレントな人物で、「Heeramandi」の音楽を作曲もしている。彼の初期の監督作ではイスマーイール・ダルバールなどの音楽監督に作曲を任せていたのだが、「Guzaarish」(2010年)の頃から自分で作曲をするようになった。ただ、「Heeramandi」の音楽は現代的すぎて、時代劇的な重厚さがなかったように感じた。それは歌詞にも感じたことだ。現代人にも理解しやすい単語を選んで歌詞が作られていたため分かりやすかったのだが、逆に分かりやすすぎて高尚さがなかった。この映画の歌詞やセリフに使われていたのは、一部パンジャービー語のものを除けば、いわゆるウルドゥー語だったのだが、ウルドゥー語の詩に特有な高尚なボキャブラリーはこの映画には見出せなかった。これはアイシュワリヤー・ラーイ主演の「Umrao Jaan」(2006年)からも感じたことだ。それがいいことか悪いことかの評価は敢えて避けたい。なぜなら現代人には高尚なウルドゥー語の語彙は理解困難だからである。

 第1話から第8話までを通して圧巻だったのはマッリカーを演じたマニーシャー・コーイラーラーの演技だ。姉を殺してシャーヒーマハルの主にのし上がり、その後は専制君主として君臨しながらナワーブや英国人たちを手玉に取る剛腕の女性を、間違いなくキャリアベストの演技で演じ切っていた。彼女のこんな姿をかつて見たことがあっただろうか。マニーシャーの並々ならぬ気迫が伝わってくる作品であった。ウルドゥー語の発音もきれいだった。

 マッリカーに対峙するファリーダンを演じたソーナークシー・スィナーも負けず劣らず気合いの入った演技をしていた。アディティ・ラーオ・ハイダリー、リチャー・チャッダー、サンジーダー・シェークなども好演していた。だが、このネットドラマを台無しにしていたのは他ならぬアーラムゼーブ役を演じていたシャルミーン・セーガル・メヘターだ。まず、彼女は時代劇向きの容姿や声をしていない。どこか現代の垢抜けた都会女性のイメージを引きずっており、ヒーラーマンディーで生まれ育ったタワーイフの卵には見えなかった。セリフのしゃべり方にもタワーイフらしい作法を感じなかった。バンサーリー監督の姪ということでオーディションなどなしに抜擢されたのだろうが、この縁故採用がこの野心的なネットドラマの大きな弱点になってしまっていた。

 男優陣の中で目が留まったのはファルディーン・カーンだ。かつては、トップスターとはいわないまでも、多くの映画に出演していた男優だった。だが、「Dulha Mil Gaya」(2010年)を最後に銀幕から遠ざかっていた。実に14年振りのカムバックとなる。

 「Heeramandi」は、ヒンディー語映画界最高峰の映画監督であるサンジャイ・リーラー・バンサーリーが多くの女優たちを一括して起用し作り上げた、タワーイフの物語だ。彼のこれまでの作品群の集大成的な位置づけで作られたともいえるが、彼の過去の映画を超える出来ではない。確かに豪華絢爛な映像美は健在であるし、マニーシャー・コーイラーラーやソーナークシー・スィナーといった主演女優たちの演技にも素晴らしいものがあったが、バンサーリー監督の姪シャルミーン・セーガル・メヘターをまだ未熟なまま主演に起用してしまったり、音楽や歌詞に深みがなかったりと、穴も多い。女同士のバトルを見ているはずが、気付くと独立運動の物語に切り替わっている。ちぐはぐさが散見される作品であり、バンサーリー監督の作品としては正直いって物足りないのだが、それでもインド本国と同じタイミングでバンサーリー監督の最新作を日本語字幕付きで視聴できるというのはこの上ない幸せだ。