東野圭吾の推理小説「容疑者Xの献身」(2005年)を原作にしたインド映画が作られているという噂は随分前から流れていた。日本の小説が原作のインド映画というのは珍しく、とても楽しみにしていたのだが、コロナ禍などもあってすっかり忘れてしまっていた。2023年9月21日にNetflixで配信された「Jaane Jaan(愛しい人)」がそれである。日本語字幕付きで、邦題は「容疑者X」である。
監督は「Kahaani」(2012年/邦題:女神は二度微笑む)のスジョイ・ゴーシュ。スリラー映画を得意としており、東野圭吾の人気作品を映画化するのにはこれ以上に適した人物はいない。
メインキャストはカリーナー・カプール、ジャイディープ・アフラーワト、ヴィジャイ・ヴァルマーの3人だ。ヒンディー語映画界随一の名家カプール家の血筋を引くカリーナーは、2000年代を代表するトップ女優であった。2012年にサイフ・アリー・カーンと結婚し、2016年と2021年に出産したことで出演作は減ったが、まだまだ現役だ。ジャイディープは脇役での出演が多いが、実力ある俳優である。ヴィジャイも脇役出演が多いが、「Darlings」(2022年/邦題:ダーリンズ)などで好演しており、OTT時代にチャンスを掴んだ俳優だ。この3人の取り合わせは異色である。
他に、サウラブ・サチデーヴァ、ナイシャー・カンナー、リン・ライシュラムなどが出演している。
マーヤー・デスーザ(カリーナー・カプール)は13歳の娘ターラー(ナイシャー・カンナー)と共にカリンポンに住んでいた。隣人の数学教師ナレーン・ヴャース(ジャイディープ・アフラーワト)はマーヤーに片思いしており、彼女の勤めるカフェに足繁く通っていた。だが、気弱なナレーンは彼女と必要以上の会話を交わせずにいた。 ある日、ムンバイーからマーヤーを訪ねてアジート・マートレー警部補(サウラブ・サチデーヴァ)がやって来る。実はアジートはマーヤーの夫だった。マーヤーの名前は元々ソニアだった。だが、二人の関係は破局し、マーヤーは約15年前に彼の金を奪って逃走し、カリンポンまで流れ着いたのだった。ターラーは父親の存在を全く知らなかった。 アジートはムンバイーのダンスバー「パラダイス」の常連客であった。かつてマーヤーはパラダイスで働いていたが、それもアジートに売り飛ばされたのだった。マーヤーの家まで押しかけてきたアジートは、ターラーをパラダイスに売り飛ばして、彼女に奪われた金を取り返そうとする。マーヤーとターラーは力を合わせて抵抗するが、その過程でアジートを電熱コイルで殴り殺してしまう。 マーヤーとターラーは狼狽するが、そこにちょうどナレーンが現れ、助け船を出す。マーヤーはナレーンに死体の処理を頼む。ナレーンは彼女たちに、これからすべきことを細かく説明する。 アジートを追ってムンバイーからカラン・アーナンド警部補(ヴィジャイ・ヴァルマー)がカリンポンまでやって来る。カランはナレーンと大学時代の旧友だった。その後、アジートの焼死体が発見され、殺人事件に切り替わる。勘の鋭いカランは、すぐにマーヤーがアジートの妻であることを突き止め、彼女を容疑者として特定する。ところが、アジートが殺されたと推定される10日には、マーヤーとターラーに完璧なアリバイがあった。カランは別の「容疑者X」の存在を考えざるをえなかった。 カランは期限内にマーヤーが犯人だと特定できる証拠を集められず、ムンバイーに戻ることになる。だが、ナレーンがマーヤーに片思いしていたという事実を知り、ナレーンが新たな容疑者に浮上する。それを察知したナレーンは自首し、マーヤーとターラーに疑いが及ばないようにわざと精神異常者のような演技をする。こうして誰もがナレーンを真犯人だと考えるようになり、事件は一件落着する。
元々ヒンディー語映画には優れたスリラー映画が多いが、この「Jaane Jaan」は、原作の完成度が高いこともあって、飛び抜けて面白い犯罪サスペンス映画になっていた。通常の犯罪サスペンス映画は、警察や探偵が事件の犯人を探し出す過程を追うが、この「Jaane Jaan」では犯人とその幇助者の立場に立ち、ばれるかばれないかというスリルを味わう作品になっている。同名のマラヤーラム語映画を原作とする優れたスリラー映画「Drishyam」(2015年)と同じタイプの映画だ。
通常ならば、観客は殺人犯になかなか同情できないものだが、「Jaane Jaan」のような映画では、殺人を犯してしまった側に何らかの正当性を与える傾向にある。この映画で殺されたのはアジートという悪徳警察官であったが、直接彼の死に関わったのは、妻のマーヤーと娘のターラーであった。ただ、アジートは妻から金を巻き上げ、娘を売り飛ばそうとする、同情の余地のない悪役だったため、彼女たちがアジートを殺したことに対して不満を感じる観客はほとんどいない。
マーヤーとターラーは一般的な母子であり、彼女たちだけで問題に対処しなければならなかったのならば、すぐに警察にばれてしまっていただろう。アジートを殺してしまったマーヤーがまず考えたのは警察に自首することだった。だが、マーヤーとターラーに助け船を出したのが、隣人の数学教師ナレーンであった。
ナレーンは「数学が恋人」と自負するくらい数学好きな人物だった。周囲から「先生」と呼ばれ慕われていたが、頭髪は薄く、コミュニケーション力にも乏しくて、女性からはもてそうにもなかった。実際、彼は独身であった。そんなナレーンが片思いするようになったのがマーヤーであり、しかも彼は壁に穴を空けて覗いたり聞き耳を立てたりするなど、ストーカー紛いの行為をしていた。マーヤーとターラーがアジートを殺し途方に暮れていたことも、ストーカー行為によって察知したのだった。
理由はどうあれ、マーヤーとターラーはナレーンに助けてもらうことにする。ナレーンは、アジートと背丈がよく似た別の人物を用意し、彼を殺して、アジートだと見せ掛ける。本物のアジートが殺されたのは9日であったが、偽物のアジートは10日に殺し、わざと警察に見つかるようにしておいた。そして、マーヤーとターラーには10日にアリバイを作らせた。こうすることで彼女たちが疑われないようにしたのである。
アジート殺人事件の犯人の捜索を始めたのがムンバイー警察のカランであった。そもそもなぜカランがアジートを探していたのか、あまり説明されていなかった上に、カランとナレーンが大学時代の旧友なのはあまりに奇遇すぎないか、カリンポンで起こった殺人事件の捜査をムンバイー警察のカランが担当するのはおかしくないかなど、複数の疑問点も見受けられた。そういう細かい突っ込みは置いておくとして、とにかくカランはかなり頭の切れる警官で、ナレーンがマーヤーとターラーを守るために張り巡らせた結界があまりに完璧すぎたために、逆に違和感を感じ、不審を抱くようになる。
最終的にはナレーンが自らを犠牲にしてマーヤーとターラーを守ることになる。ナレーンはマーヤーに想いを寄せていたものの、彼女に気持ちを打ち明けることはできなかった。マーヤーから、「私のことが好きなの?」と聞かれても、彼は何も言えなかった。そんな臆病な自分にナレーンは悔し泣きするが、彼は言葉ではなく行動によって、マーヤーに惚れた男性としての責務を果たそうとする。彼は、マーヤーを愛するがあまり変質者になってしまったという演技をし、アジートの殺人の実行犯だと認めると同時に、わざと彼女も指示者として巻き込もうとする。それがかえってマーヤーの無実を印象づけることになり、彼女は解放される。「愛しい人」という題名の通り、「Jaane Jaan」は究極的には不器用な男性の、狂おしい恋の物語だ。この要素があるからこそ、後味の良さを残すことになっている。
カリーナー・カプールは、敢えてメイクを最小限にし、生身の演技をしていた。昔から薄幸な女性を演じるのが巧かったが、ここに来て年齢が彼女の得意技にさらに磨きを掛けており、素晴らしい演技であった。それにも増して圧倒されるのがジャイディープ・アフラーワトの演技だ。やはり敢えて気持ちの悪い男性役を演じ、最後には男気を見せた。キャリアベストの演技である。ヴィジャイ・ヴァルマーも好演していた。
日本の推理小説が原作になっていることも影響しているのだろうが、日本っぽいモチーフがいくつか見受けられた。まずは柔道。ナレーンは大学時代から柔道を嗜んでいるという設定になっていた。これは原作にもあった設定である。カラオケバーも登場した。マーヤーは「Intaqam」(1969年)でラター・マンゲーシュカルが歌った「Aa Jaane Jaan(来て、愛しい人)」を歌う。これが映画の題名にもなっているという仕掛けだ。また、西ベンガル州北部に位置する山間の町カリンポンが舞台になっていた。この辺りはネパール系の人々が住んでおり、そういうところでも日本を意識したのではないかと思われる。また、平野部とは異なり家が木造のため、壁に穴も空けやすい。
「Jaane Jaan」は、東野圭吾の推理小説「容疑者Xの献身」を原作にしたヒンディー語映画である。その情報だけで興味を持つ日本人は多いだろう。2000年代のトップ女優カリーナー・カプールが主演だが、決して歌って踊ってのアレンジはしておらず、終始シリアスに進行する。今後、日本の文学作品がインド映画のレーダーに掛かってくる機会が増えていくかもしれない。そんなエキサイトな未来を予感させる作品である。