昨今のヒンディー語映画新時代を担っている若い映画監督の内、ディバーカル・バナルジー監督には特に注目している。ベンガル人の出自ながらデリー生まれデリー育ちの彼のこれまでの2作、「Khosla Ka Ghosla!」(2006年)と「Oye Lucky! Lucky Oye!」(2008年)は、どれもデリーが舞台である。そこにはデリーっ子ならではの、デリーに対する飾らない視点が随所で見られ、デリーに長く住んでいる僕の心の琴線に触れた。だが、それだけでなく、ちゃんとした問題意識を盛り込みつつも、軽快なストーリー展開によって新鮮な娯楽映画を作ることに長けた監督で、ヒンディー語映画の質向上に多大な貢献をしている。
そのディバーカル・バナルジー監督の新作「Love Sex Aur Dhokha」が本日(2010年3月19日)より公開された。題名が暗示するように、これまでとは雰囲気がガラリと変わったかなり際どい映画となっている。昨年の「Dev. D」(2009年)と非常によく似た危なさの映画であるが、さらに技術的に冒険をしており、インド初のデジタル映画となっている。つまり、フィルムを使用せず、デジタル映画カメラのみで撮影が行われている。おそらくこれは彼が本当にやりたかった映画なのだろう。過去2作の成功を受けて、ようやく自由が利くようになったことがうかがわれる。
映画はオムニバス形式となっており、3作の短編映画で構成されている。各短編では「愛」「セックス」「欺瞞」をテーマに、異なった形式の「カメラ」によって描写されているが、それぞれの短編の主人公やストーリーは相互に関連しており、3作全体でひとつのまとまった映画となっている。
監督:ディバーカル・バナルジー
制作:エークター・カプール、ショーバー・カプール、プリヤー・シュリーダラン
音楽:スネーハー・カンワルカル
衣装:マノーシー・ナート、ルシー・シャルマー
出演:アンシュマン・ジャー、シュルティー、ラージクマール・ラーオ、ネーハー・チャウハーン、アミト・スィヤール、アーリヤー・デーヴダッター、ハリー・タングリー
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。
■「愛」 とある北インドの町に住むラーフル(アンシュマン・ジャー)は、映画学校に通っており、卒業制作として映画を撮影することになった。ラーフルは映画のヒロインに抜擢したシュルティー(シュルティー)に恋してしまう。二人はすぐに恋仲となる。だが、シュルティーの家は裕福で、父親は厳格な人物だった。撮影途中にシュルティーは父親から外出禁止令を出されてしまう。父親を説き伏せるためにラーフルはシュルティーの家を訪れ、家をロケ地として使用したいと相談するところからうまく話を進めて、父親を映画に出演させ、ついでにシュルティーが出演することも許可してもらう。 だが、ラーフルは突然、シュルティーの結婚が決まったことを聞かせられる。ラーフルとシュルティーは映画撮影が終わった後に駆け落ちすることを決める。逃げ出した2人は、寺院で結婚式を挙げ、ホテルに滞在する。その晩、シュルティーは父親に電話を掛ける。父親は、駆け落ちしたことは怒っていないから家に戻って来るように説得する。二人は許してもらえたと思い、父親から送られて来た自動車に乗り込むが、やはりそれは罠で、人気のないところに連れて行かれ、そこで二人とも惨殺される。 ■「セックス」 アーダルシュ(ラージクマール・ラーオ)は自称MBAで、監視カメラ設置を事業とする会社に勤めていたが、実際は借金取りに追われる生活をしていた。アーダルシュはとある24時間営業コンビニに監視カメラを設置し、時々チェックに来ていた。監視カメラ設置後、早速このコンビニで発砲事件があり、男が腹部を撃たれて重傷を負った。この一部始終がカメラに映っており、店主はその映像をテレビ局に売って大金を得ていた。それを知ったアーダルシュは、監視カメラを使ってポルノを作ることを思い付き、店の従業員の女性ラシュミー(ネーハー・チャウハーン)に言い寄るようになる。ラシュミーも満更ではなく、次第にアーダルシュに心を開いて行く。アーダルシュもラシュミーに情が移って来て、彼女を使ってポルノを作ることを躊躇するようになる。だが、借金取りから逃れるには、監視カメラを使ってポルノを作り、手っ取り早く大金を稼ぐしか手段がなかった。 ラシュミーはシュルティーの親友で、アーダルシュとラシュミーはラーフルとシュルティーに会ったこともあった。ところがラーフルとシュルティーが駆け落ち結婚後に遺体で見つかったことが分かり、ラシュミーは酷く動揺する。その動揺を利用してアーダルシュはラシュミーの身体をむさぼり、その一部始終をカメラに映す。この動画は瞬く間にMMSで広まる。 現在アーダルシュとラシュミーがどうなったか、知る者はいなかった。アーダルシュは誰かと結婚したという話である。 ■「欺瞞」 スティング・オペレーション(潜入捜査)を得意とするジャーナリストのプラバート(アミト・スィヤール)は、入水自殺をしようと訪れた橋で正に入水自殺を実行した女性ナイナー(アーリヤー・デーヴダッター)と出会う。プラバートは彼女を助け、事情を聞く。ナイナーはスターになることを夢見ており、人気ポップスターのローキー・ローカル(ハリー・タングリー)に頼み込むが、彼は代わりにセックスを要求して来ていた。ナイナーはどうすることもできずに人生に絶望して自殺未遂をしたのだった。それを聞いたプラバートは、ナイナーを使ってローキー・ローカルのスティング・オペレーションをすることを思い付く。ナイナーもそれに乗り、ローキー・ローカルがミュージックビデオへの出演の代わりにセックスを要求するシーンを隠しカメラで撮影する。 プラバートとナイナーはその動画を持ってゴシップが大好きなテレビ局に売り込みに行くが、女性ディレクターはまだ話題性に乏しいと判断し、二人にさらにスティング・オペレーションを仕掛けることを指示する。つまり、ローキー・ローカルに隠しカメラで撮影した動画があることを明かし、彼が金と引き替えに口止めしようとするところをさらに隠しカメラで撮影してニュースにするというものであった。 ナイナーは24時間営業コンビニにローキー・ローカルを呼び出して、隠しカメラで前回のやり取りを全て録画したことを伝える。激高したローキー・ローカルはナイナーにつかみかかり、そばに待機していたプラバートはそれを止めに入る。だが、ローキー・ローカルは拳銃を持っており、プラバートは腹部に銃弾を受ける。プラバートは病院に運ばれ、一命を取り留める。 人気ポップスターが銃撃した事件は十分にセンセーショナルで、女性ディレクターは早速入院中のプラバートを見舞いに来て、隠しカメラによる映像を渡すように言って来る。だが、プラバートはそれを拒否し、さらに、彼女がローキー・ローカルのスティング・オペレーションを指示するところも隠し撮りしていたと明かして、彼女を追い返す。
またひとつとんでもない映画が飛び出て来た。プロデューサーのエークター・カプールがこの映画の試写を見て卒倒したと言われているが、その気持ちはよく分かる。今までのインド映画とは全く別次元の、突然変異的大問題作である。
「Love Sex Aur Dhokha」を語る上でまず言及しておかなければならないのは「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999年)であろう。魔女伝説のドキュメンタリー映画を制作するために森に入った若者たちが行方不明になり、その1年後に、彼らが不気味な事件に巻き込まれる様子が鮮明に捉えられた映像が発見されたという設定の疑似ドキュメンタリー映画である。実際に起きた事件の生々しい映像を編集したという建前であるため、異様なまでの臨場感がある。「Love Sex Aur Dhokha」は、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の手法に多大な影響を受けているのは明らかで、ドキュメンタリー映画に相当する「リアル」な映像によって、観客はまるで実際の事件をのぞき見ているような錯覚に陥る。
だが、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が単なるスリラー映画だったのに対し、「Love Sex Aur Dhokha」ではより社会的なテーマに触れられていた。第1話「愛」では名誉殺人について、第2話「セックス」ではキャスティング・コーチ(いわゆる枕営業みたいなもの)について、第3話「欺瞞」ではスティング・オペレーションについて焦点が当てられていた。また、それらの「目」となる媒体はそれぞれ微妙に異なっていた。「愛」ではビデオカメラであったが、「セックス」では監視カメラ、「欺瞞」では隠しカメラが「目」となり、「リアル」な映像を紡ぎ出していた。また、これら3話の短編によって、現代社会に生きる我々は常に何らかのカメラに監視されているという危険性が提示されていた。かつては「神様は何でもお見通し」だったが、現在ではカメラが神様に取って代わってしまっている。
あまりにセックスと暴力が生々しく描写されているため、完全な成人向け映画となっている。特に「愛」にはグロテスクな首チョンシーンが、「セックス」には直球のモザイク入りセックスシーンがあり、ファミリー層には絶対に勧められない。また、成人向け映画と開き直っているためか、台詞の中にも放送禁止用語が多い。と言うより、今まで放送禁止用語だと思っていたフレーズがそのまま出て来ており、実は放送禁止ではなかったのかと驚いたくらいだ。ちなみに、題名の頭文字を取るとLSDになるが、劇中でドラッグ使用などのシーンは特になかった。それにしても、ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」を彷彿とさせる確信犯的な題名である。
徹底的にリアルさを追求しているため、フィクションであることを前提としている通常のインド娯楽映画とは全く逆方向の作品となっている。よって、観客も完全にスイッチを切り替えて鑑賞することを求められる。インドの芸術理論の代表であるラサ理論では、演劇はフィクションであることが大前提とされる。観客は舞台上で起こっていることをフィクションだと思って見ているから、それを鑑賞することで、実際の感情ではなく、ラサ(情感)が生じる。実際の感情はどこまで行っても感情でしかないが、ラサは最終的に芸術的エクスタシーに昇華する。例えば、観客がいくら演劇中の登場人物に感情移入してしまっていたとしても、舞台上で主人公の身内の死など悲しい出来事があった際、観客は心のどこかで必ずそれをフィクションだと理解しているため、本当の「悲しみの感情」ではなく、「悲しみの情感」が心に生じる。悲しくて涙を流しても、その涙は心を果てしなく重くするものではなく、最終的には満足感につながるものになる。実世界での悲しい出来事が満足感につながることは普通は起こりえないが、非現実世界での悲しい出来事は芸術的エクスタシーに昇華させることが可能である。インド映画の基本的な文法は、鑑賞者の情感の操作のためにある。だが、「Love Sex Aur Dhokha」はその文法から全く外れた映画である。スクリーン上で起こる出来事は、果てしないリアルさを持って観客の心に突き刺さって来る。よって、悲しみは悲しみとして、不快感は不快感としてそのまま残るため、後味は非常に悪い。しかしながら、通常のインド娯楽映画でもし後味が悪かったら、それは映画の質の問題ということになるが、「Love Sex Aur Dhokha」のような模擬ドキュメンタリー映画では、後味の悪さは映画のスタイルと切っても切れない関係にあるもので、マイナス要因と考えるのはお門違いである。この映画は、その枠組みの中で非常に成功していると評価していいだろう。
全く独立したジャンルの映画で、敢えて命名するならリアリティー映画であるが、広い意味ではコメディー映画に入るかもしれない。カメラに映った人々の滑稽な行動が観客の乾いた笑いを誘う。それは普段の日常生活で我々がいかに滑稽なことを繰り返しているかをよく表していた。
臨場感を出すためであろう、キャスティングされていたのはほとんど無名の俳優たちばかりである。名の知られた俳優を出演させたら、フィクション性が強くなってしまう。だが、映画の特性上、リアルさを追求するために、演技をしていないように見える自然な演技力と、長回しのシーンが多いために、舞台劇に要求されるような持久力のある演技力が必要で、出演俳優たちは皆それぞれ高度な演技でもってそれに応えていた。彼らは決して素人ではないだろう。特殊な映画であったため、この作品での演技がそのまま将来につながるがどうかは何とも言えないが、ヒロイン2人はどちらも印象的だった。シュルティー役を演じたシュルティー(そのままの名前)はかわいかったし、ナイナーを演じたアーリヤー・デーヴダッターも迫力があった。きっと今後もいくつか活躍の場を与えられることだろう。
一応ダンスシーンも2つほど入っていたが、どちらも映画の雰囲気を損なうものではなかった。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」と同様に、臨場感を出すための効果として、カメラの揺れが酷いので、酔う人は酔うかもしれない。映画館で見る際はなるべく後ろの席を選んだ方がいいだろう。
「Love Sex Aur Dhokha」は、ヒンディー語映画業界の大いなる実験の一本である。完全に突然変異の作品で、このジャンルの映画はインドではおそらく今後作られることはないと思うし、もし二匹目の土壌を狙う形で作られたとしても、これを越える作品はなかなか難しいだろう。だが、ヒンディー語映画界の若手映画人の間でうごめいている革命の胎動を感じるには十分の作品である。グロテスクな暴力シーンとストレートな性描写が嫌でなければ、是非とも観てみるべきである。