ヒンディー語映画界にはかねてから、複数の監督が撮った短編映画を持ち寄ってオムニバス映画を作るのが流行していた。ただし、全くバラバラの映画を持ち寄るというよりも、一定のテーマに沿って作られることがほとんどだ。インド映画100周年を記念して作られた、インド映画がテーマの「Bombay Talkies」(2013年)、性愛映画を集めた意欲作「Lust Stories」(2018年/邦題:慕情のアンソロジー)、ホラー映画を持ち寄った「Ghost Stories」(2020年/邦題:恐怖のアンソロジー)が代表例で、これらはひとつの連続したシリーズという位置づけだ。それ以前にもホラー映画のアンソロジー「Darna Mana Hai」(2003年)や10の短編を集めた「Dus Kahaniyaan」(2007年)などがあった。
2023年6月29日からNetflixで配信開始された「Lust Stories 2」は、その題名の通り、「Lust Stories」の続編である。前作と同じく4人の映画監督が性愛をテーマにして4本の短編映画を撮っている。今回この企画に参加したのは、「Padman」(2018年/邦題:パッドマン 5億人の女性を救った男)のRバールキ監督、本業は女優で「A Death in the Gunj」(2017年)で監督デビューしたコーンコナー・セーンシャルマー、「Kahaani」(2012年/邦題:女神は二度微笑む)のスジョイ・ゴーシュ監督、そして「Badhaai Ho」(2018年)のアミト・ラヴィンダルナート・シャルマー監督である。それぞれの短編に相互のつながりはなく、完全に独立した4本の短編が連なっている単純な構造である。
日本語字幕付きで配信されており、邦題は「慕情のアンソロジー2」となっている。
Made For Each Other
Rバールキ監督。キャストは、ニーナー・グプター、ムルナール・タークル、アンガド・ベーディー、カヌプリヤー・パンディト、ヘーマント・ケール、アンジュマン・サクセーナーなど。
ヴェーダー(ムルナール・タークル)はアルジュン(アンガド・ベーディー)と結婚することになり、両家の顔合わせが行われた。縁談が丸く収まりそうなときに現れたヴェーダーの祖母(ニーナー・グプター)は、セックスの相性は確かめたのかと聞く。その場は気まずい雰囲気になる。ヴェーダーとアルジュンはまた婚前交渉をしていなかった。 ヴェーダーは祖母の言い付け通り、アルジュンとセックスをする。だが、絶頂には達しなかった。祖母は、絶頂に達するのが大事だと言う。ヴェーダーはアルジュンとセックスを繰り返し、ようやく絶頂に達することができた。祖母は二人の結婚がうまくいくと確信する。
インドの一般的な習慣では、これから結婚しようとする男女は結婚までセックスを待つ。つまり、婚前交渉は禁止だ。アレンジドマリッジの場合はそういうことが多いが、付き合ってから結婚を決めたカップルについてはその限りではない。少なくとも建前ではそうなっているということだ。また、お見合いの席でセックスを話題にすることは考えられない。だが、この「Made For Each Other」では、お見合いの場で祖母が孫娘に、結婚前に身体の相性もしっかり確かめるように助言するところから始まる。非常に斬新なスタートだ。
主人公のヴェーダーとアルジュンは婚前交渉をしていなかった。だが、祖母に促されたため、ヴェーダーはアルジュンをホテルに誘い、結婚前に確認のセックスをする。一般的なのは、若い男女が積極的に婚前交渉をしようとし、それを父母や祖父母の世代がたしなめるという流れであるが、この映画は逆を行っていた。若い世代ほど性的に積極的というイメージもあるが、祖母は畑や河原で夫となる男性と結婚前から盛んにセックスをしていたと明かす。日本でも若い世代の草食化が取り沙汰されているが、インドでももしかしたら若い世代が性に消極的になってきている傾向があるのかもしれない。
さて、アルジュンとセックスをしたヴェーダーは祖母にそのことを報告する。すると祖母は孫娘に「富士山になったか」を確認する。「富士山」とは、もちろん日本の富士山のことだが、それは祖母が死んだ夫との間で使っていたコードであった。その意味するところはオーガズムであった。
アルジュンとのセックスでは、アルジュンが先に「富士山」になってしまい、ヴェーダーは絶頂を感じられなかった。ヴェーダーはそれでもいいと言うが、祖母は、それではいい夫婦になれないと突き放す。その後、ヴェーダーはアルジュンとのセックスに励み、「富士山」を感じられるようになる。
身体の相性がいい人と必ず結婚しろというわけではないが、結婚する相手とは身体の相性も良くなければならない、というのがこの映画から得られる教訓であった。祖母と娘の関係性や、セックスを巡る会話などが魅力的な、型破りかつ上品な性愛映画であった。Rバールキらしい作品である。
The Mirror
コーンコナー・セーンシャルマー監督。キャストは、ティロッタマー・ショーム、アムルター・スバーシュ、シュリーカーント・ヤーダヴなど。コーンコナー監督は声だけ出演している。
キャリアウーマンの独身女性イシーター(ティロッタマー・ショーム)は、ある日家に帰ると、メイドのスィーマー(アムルター・スバーシュ)が、警備員をする夫のカマル(シュリーカーント・ヤーダヴ)と彼女のベッドの上でセックスしているところを見つけてしまう。だが、イシーターは咄嗟に家を出たため、二人にはばれていなかった。 スィーマーは毎日午後3時頃にカマルとイシーターのベッドの上でセックスをしているようだった。その日以来、イシーターはその時刻にこっそり帰宅し、二人の情事を覗き見しながらマスターベーションをしていた。ある時点からスィーマーに覗いていることがばれるが、スィーマーは知らない振りをしてセックスを見せつけていた。 ところがある日、覗き中にイシーターが声を出してしまったため、カマルに誰かいることがばれてしまう。動転したイシーターはスィーマーとカマルに怒鳴り散らし、家から追い出す。その後、イシーターは別のメイドを雇うが、働きぶりはスィーマーに及ばなかった。イシーターはスィーマーのことを思い出すようになる。 イシーターが野菜を買っていると、偶然スィーマーと再会する。二人は会話を交わし、またイシーターの家でスィーマーが働くことになる。
4つの短編の中でもっともうまい作品だった。仕事に人生を捧げる独身女性の孤独、偶然始まった覗き趣味、そして情事を他人に覗かれる快感、主従の逆転、女性の自慰など、多くのユニークな要素が短い作品の中に詰め込まれており、それでいて説明しすぎておらず、含意のある優れた映像作品になっていた。
題名になっている「鏡」とは、イシーターの家の壁に掛かっていた鏡のことだ。イシーターはその鏡を通してスィーマーとカマルの情事を覗いていた。
この映画はオープンな作りであり、様々な解釈が可能であろう。個人的に注目したいのは、キャリアでは成功しているがプライベートでは孤独を抱える女性と、貧しい生活を送り、夫も大したことがないが、毎日お互いが身体を求め合うほど最良のパートナーを得られた女性との対比だ。どちらが幸せかというわけではないが、性愛をテーマにした映画であることもあって、監督の力点は後者にあったように感じた。前の「Made For Each Other」にも通じる主題だ。
この対比にはステレオタイプという批判もあるだろう。経済的には裕福でも私生活が満たされていない女性を通して、社会の底辺にいる人々のエネルギーや生殖能力の強さを強調するというのは、目新しいものではない。ただ、家という限られた空間の中で、女主人と使用人という関係によってそういう対比が行われるのは新しさを感じたし、性的な満足度をもって主従が逆転する瞬間があるのも面白かった。
今後、イシーターとスィーマーがどのような関係を構築するのかは観客の想像に委ねられたが、より大胆な性の冒険が始まる予感がする。もしかしたらレズビアン的な展開もあるのではないかと邪推してしまう。
Sex With Ex
スジョイ・ゴーシュ監督。キャストは、ヴィジャイ・ヴァルマー、タマンナー・バーティヤー、ムクティ・モーハン、ジュガル・ハンスラージなどである。
とある企業の会長の娘アニーター(ムクティ・モーハン)と結婚し、CEOになったヴィジャイ・チャウハーン(ヴィジャイ・ヴァルマー)は、不倫相手に会いに自動車を走らせている途中で事故に遭う。修理のため、近くにあったパライソル村に立ち寄るが、そこで彼は、10年前に行方不明になった元妻シャーンティ(タマンナー・バーティヤー)と再会する。 シャーンティは10年前に起こったことをヴィジャイに話す。だが、彼女はよく覚えていなかった。ある妊婦とその夫に道を聞かれたところまでは覚えていたが、そこで記憶は途絶えた。そして気付くとパライソル村にいた。その後、誰かに殺されると感じ、シャーンティはヴィジャイに連絡をしなかった。 シャーンティはそのとき妊娠していたことも明かす。だが、記憶を失ったところで流産してしまった。妊娠が発覚したのを知っていたのはアニーターだけだった。シャーンティは、アニーターが殺し屋を雇って彼女の命を狙ったのでないかと語る。アニーターはヴィジャイのことがずっと好きだった。シャーンティが行方不明になった後、ヴィジャイのそばにずっといたのはアニーターで、そのために彼はアニーターと再婚したのだった。 ヴィジャイはシャーンティと話している内に、彼女が再婚していると知りながらも、彼女の肢体に欲情し、彼女を押し倒してセックスをする。だが、その後に何かに気付いたシャーンティを窒息死させる。 ヴィジャイが自動車のところへ戻ると、そこには自分自身の死体が横たわっていた。そこへシャーンティが現れ、「早く帰っておけばよかったのに」とため息をつく。
もっとも難解なストーリーである。主にヴィジャイ、シャーンティ、アニーターという3人の人間関係が語られる。ヴィジャイとシャーンティは夫婦だったが、10年前にシャーンティが突然行方不明になり、その後ヴィジャイはアニーターと再婚する。アニーターにも許嫁がいたが、やはりどこかに行ってしまっていた。シャーンティは、行方不明になったときの記憶がないと話す。
シャーンティの失踪には、殺し屋を雇えるほど裕福だったアニーターが関与しているのではないか、という話になるが、それを真に受けることはできない。ヴィジャイはどうも信頼ならない人物であるし、シャーンティもヴィジャイを罠に掛けようとしていると見えて真実を語っていない可能性がある。もしかしたらヴィジャイがアニーターの許嫁を殺し、シャーンティに刺客を放ったのかもしれない。その動機は十分にある。ヴィジャイは出世欲の強い人間で、会長の娘であるアニーターと結婚することで一足飛びに出世できると企んだことは十分にあり得る話だからだ。
また、シャーンティの家をインダルという名の警官が訪れるが、彼とシャーンティの関係もはっきりしない。シャーンティの夫という可能性もあるが、夫とは別の、間男である可能性も排除できない。シャーンティがヴィジャイに何をしたかったのかも分からない。
とにかくこの短編のストーリーは謎だらけで、その解釈は一筋縄ではいかない。スジョイ・ゴーシュ監督のことなので、きっと深い意味が隠されているのだと思うが、それを正確に読み取れた自信はない。
非現実感のある映像であったが、おそらくバーチャルプロダクション技術を使って撮影されている。「マンダロリアン」などで活用されたバーチャルプロダクションは既にインドでも利用が始まっている。
Tilchatta
アミト・ラヴィンダルナート・シャルマー監督。キャストは、カージョル、クムド・ミシュラー、アヌシュカー・カウシク、ズィーシャーン・ナダーフ、パーヤル・パーンデーなど。題名は「ゴキブリ」という意味である。
デーヴヤーニー(カージョル)は、娼館の出身ながら、地主スーラジ・スィン(クムド・ミシュラー)に見初められ結婚した。だが、彼女は毎晩スーラジから暴行を受けていた。スーラジはメイドのビターリー(パーヤル・パーンデー)にも手を出していた。デーヴヤーニーの生き甲斐は、息子のアンクル(ズィーシャーン・ナダーフ)だけだった。 あるとき、デーヴヤーニーは耐えきれなくなって娼館に電話をする。娼館の主は、屋敷にいる方が娼館にいるより幸せだと伝える。それと同時に、一人の少女が客から病気をうつされたと伝える。 ビターリーの代わりにレーカー(アヌシュカー・カウシク)という若いメイドがスーラジの屋敷で働くようになった。スーラジは早速レーカーを狙うようになる。 ある晩、デーヴヤーニーが目を覚ますと、どこかからあえぎ声が聞こえた。スーラジがデーヴヤーニーとセックスをしているようだった。デーヴヤーニーはそれを見てほくそ笑む。実はビターリーの代わりに雇ったレーカーは、病気になった若い娼婦で、囮だった。これでスーラジに病気をうつすことができた。そう思ったら、酔っ払ったスーラジが帰宅した。レーカーとセックスをしていたのは息子のアンクルであった。
夫から毎晩強姦ともいえるようなセックスをさせられ続け、復讐の機会をうかがっていた主人公デーヴヤーニーが、おそらくAIDSと思われる病気になった少女レーカーを使って、女好きな夫を死に至らしめようとするという復讐物語である。ただ、デーヴヤーニーの復讐は予想外の結果をもたらす。スーラジもレーカーを狙っていたのだが、レーカーとセックスをしていたのはデーヴヤーニーの最愛の息子アンクルだったのである。
「人を呪わば穴二つ」という諺があるが、デーヴヤーニーは夫を病気にして殺すはずが、息子を病気にさせてしまい、復讐に失敗する。どうしても夫からDVを受けるデーヴヤーニーがかわいそうで、我々の心情はどうしても彼女に同情的になってしまう。彼女の復讐がてっきり成功するのかと思いきや失敗し、後味が悪い。ただ、意外性のある結末ではあった。短編映画であるので、視聴者の予想に沿った結末にするよりも、敢えて外した結末にすることでインパクトを出したかったのだろう。
また、目立たないもののアンクルのキャラにも注目できる。彼は父親の横暴を間近で見ており、それに不満を持っているように見えた。デーヴヤーニーから可愛がられてもいたが、どこか暗い影があったのは確かだ。結局、彼は父親の血を受け継いでおり、レーカーの欲望に負けてしまった。レーカーも若いアンクルの方に惹かれたのだろう。
1990年代にトップ女優だったカージョルを起用した点が最大の売りである。映画のポスターでもカージョルが中心にいる。決してきれいな役ではなかったが、カージョルはしっかりとこなしていた。クムド・ミシュラーも彼女をよく引き立てていた。
題名は「ゴキブリ」で、映画の中にもゴキブリが何度か登場する。ゴキブリが何を象徴しているのかははっきりしないが、もちろんインドでもゴキブリは嫌われ者だ。退廃的な屋敷の不道徳を象徴しているのか、デーヴヤーニーの低い身分を思い出させる役割を果たしているのか。レーカーが客からうつされた病気を暗示していると解釈することもできるだろう。
総評
前作「Lust Stories」は、性愛を巡る短編映画のオムニバス映画という点に加えて、4つの作品全てが女性視点だったことに斬新さがあった。今回の「Lust Stories 2」では、「Sex With Ex」のみが男性視点だといえる。また、前作はゾーヤー・アクタル監督のみが女性監督だったが、今回も女性監督は一人のみ、「The Mirror」のコーンコナー・セーンシャルマー監督になる。
前作からの傾向として、情事を行う二人に上下関係がある点が挙げられる。やはり「Sex With Ex」のみが例外だが、それ以外の作品では、何らかの形で必ず身分の上下がある。「Made For Each Other」ではアルジュンとヴェーダーは対等だといえるが、ヴェーダーに性の手ほどきをする祖母とヴェーダーの関係に上下を見出しても構わないだろう。「The Mirror」では、雇い主と使用人という完全な上下関係が観察される。「Tilchatta」でも封建領主と立場の弱いその妻という上下関係がある。
また、前半の2作についてはポジティブなエンディングで、後半の2作についてはネガティブなエンディングという点も興味深い。意図的にそういう順番にしたのかは不明である。ただ、出演した俳優たちの中では最後の「Tilchatta」の主演カージョルがもっとも格上であり、彼女の主演作をトリにした可能性は高い。
ヒンディー語映画界で作られているオムニバス映画群の中には、若手監督の登竜門的な企画のものも散見されるのだが、「Bombay Talkies」から連なる「~Stories」系のオムニバス映画シリーズでは、既に確立された映画監督が作品を持ち寄る傾向にあった。ただ、今回の「Lust Stories 2」に関しては、多少、まだ作品数の少ない監督も起用されていた。コーンコナー・セーンシャルマー監督は、女優としては一流だが、監督業に乗り出したのはつい最近であるし、アミト・ラヴィンダルナート・シャルマー監督についても「Badhaai Ho」という大ヒット作はあるものの、まだ過去に2作しか撮っていない。カージョルの主演作ではあるもの、彼の撮った「Tilchatta」がトリに使われたのは、監督という観点からでは異例の抜擢といえる。ちなみに、今回の4人の監督の中でもっともベテランの監督は、順番では最初となる「Made For Each Other」のRバールキである。
複数の監督によるオムニバス映画は、各監督の個性も感じられるし、長編映画とは違った個性が見えるところもあって面白いので、今後も是非続けていってもらいたい。