2023年5月19日からNetflixで配信開始された「Kathal: A Jackfruit Mystery」は、北インドの田舎町で起こったジャックフルーツ盗難事件を巡るブラックコメディー映画だ。日本語字幕付きで、邦題は「ジャックフルーツが行方不明」である。
監督はヤショーワルダン・ミシュラー。過去に短編映画を撮っているが、長編映画の監督は今回が初である。プロデューサーはエークター・カプールなどだ。主演は「Dangal」(2016年/邦題:ダンガル きっと、つよくなる)や「Pagglait」(2021年/邦題:変な子)などのサーニヤー・マロートラー。コロナ禍に急増したOTTリリース映画で主演を務め台頭した女優であり、この「Kathal」もその延長にある。
他にはヴィジャイ・ラーズ、ラージパール・ヤーダヴ、ブリジェーンドラ・カーラー、ラグビール・ヤーダヴ、アナントヴィジャイ・ジョーシーなどが出演している。
題名の「Kathal」とはヒンディー語で書くと「कटहल」で、映画の主題にもなっているジャックフルーツ(パラミツ)という果物のことである。
ウッタル・プラデーシュ州モーバー選出の州議会議員ムンナーラール・パテーリヤー(ヴィジャイ・ラーズ)の家で、2つのジャックフルーツが盗まれた。マヒマー・バソール警部補(サーニヤー・マロートラー)が事件の担当になる。マヒマーは、下らない事件だとは思いつつも、アングレーズ・スィン・ランダーワー警視から事件を解決した暁には恋人サウラブ・ドイヴェーディー巡査(アナントヴィジャイ・ジョーシー)昇進を推薦すると約束され、何とかやる気を出す。マヒマー警部補はサウラブ巡査と結婚したいと思っていたが、サウラブ巡査はブラーフマン階級である上に自分の方が出世してしまっており、釣り合っていなかったため、なかなか結婚に踏み切れなかったのである。 マヒマー警部補は、まずはパテーリヤー議員の家で働いていた庭師ビールワーを疑う。彼は最近パテーリヤー議員から解雇され行方不明になっていた。やっとのことでビールワーを見つけるが、彼は彼で、2日前に行方不明になった娘アミヤーを探していた。ランダーワー警視はビールワーを犯人に仕立てあげて早々に幕引きをしようとしていたが、マヒマー警部補はアミヤーの方が心配で、アミヤーがジャックフルーツを盗んだということにする。マヒマー警部補はアミヤーの捜索を開始する。 アミヤーはブーラーというチンピラとその一味に誘拐されていた。マヒマー警部補はアミヤーがマディヤ・プラデーシュ州のチャッタルプル方面に連れて行かれたことを突き止め、隣州に赴く。そしてパンナーの菓子屋グラーブ・セート(ラグビール・ヤーダヴ)の邸宅でブーラーたちを捕まえ、アミヤーを救出する。 裁判でアミヤーの無罪が証明され、アミヤーを犯人に仕立てあげたマヒマー警部補も罪に問われなかった。事件が解決したことで約束通りサウラブは警部補に昇進するが、マヒマーも警部に昇進してしまう。
この映画には表のストーリーと裏のストーリーがある。
表のストーリーは、州議会議員パテーリヤーの家からジャックフルーツが盗まれたという馬鹿馬鹿しい事件を巡るものだ。そのジャックフルーツは「アンクル・ホン」と呼ばれる特別な品種のもので、そのジャックフルーツで作ったアチャール(漬物)は絶品だった。党首にそのアチャールを求められており、パテーリヤーはそのジャックフルーツを大臣になる絶好のチャンスと考えていた。だが、たわわに実っていた2つのジャックフルーツが、ある日忽然と消えてしまったのである。そういうこともあってパテーリヤーは必死にそのジャックフルーツを探し求めていた。
理由は分かるが、それでも警察を動かしてまで探すような代物ではない。その一方で、映画の舞台であるモーバーでは43人もの少女が行方不明になっていたが、警察は全く動こうとしていなかった。人が誘拐されても何も起こらないが、州議会議員の家からジャックフルーツが盗まれると警察は即座に総動員される。人命よりもジャックフルーツの方が重視される社会を描き出すことで、インドの警察の怠慢や間違った利用の実態が風刺されている。その現状を憂いながらも、主人公の女性警察官マヒマーは、知恵を働かせながら警察機構を動かし、事件を解決しようと尽力する。
表のストーリーだけでも十分に楽しめる作品だが、ストーリーのあちこちに散りばめられた裏の要素に気付くことで、この映画はさらに奥深いものになる。
主人公のマヒマーは「バソール」姓である。バソールとは竹細工職人カーストの名前であり、指定カースト(SC)、つまり不可触民である。マヒマーは不可触民の出身ながら聡明で、愚鈍な同期を尻目にどんどん出世していた。映画開始当時、マヒマーは警部補の地位にあり、彼女は数人の部下を率いていた。インドでは人名を見ると大体所属するカーストが分かるのだが、その部下たちのカーストを見てみるとブラーフマンまたはラージプートであり、つまりは見事に全員上位カーストであった。彼女の恋人ソウラブもブラーフマンである。つまり、下位中の下位カーストである不可触民のマヒマーが、上位カーストの部下たちを率いていたのである。映画の中ではマヒマーのことを面と向かって、または陰で、「バソール」と呼び捨てにする者も多くいたし、上位カースト者が不可触民に命令される立場にあることを屈辱視するような発言もあった。彼女のことを不可触民だとは知らず、彼女の目の前で不可触民を十把一絡げに泥棒扱いし罵倒する文盲のブラーフマンまでいたが、そこまで来るとさすがに風刺の域を超えており、カースト制度をおちょくっている映画なのだということが分かる。
しかしながら、マヒマーはそのような差別発言にもほとんど動じなかった。おそらく彼女がここまで来る間にも数々の差別を受けてきたに違いない。だが、ひたすら自分の才能と努力を信じ、周囲の偏見を物ともせず、警察官としての職務を全うし続けてきたと思われる。彼女からは、自分の出自への卑屈さも、社会への義憤も感じない。ただ前進し続ける強さだけを感じる。マヒマー役を演じたサーニヤー・マロートラーの凜とした表情や毅然とした態度もあって、マヒマーはカーストを超越したヒーローとしての風格を漂わせていた。
ちなみに、ジャックフルーツ盗難の犯人にされそうになったビールワーやアミヤーはマーリー(庭師)カーストであり、やはり不可触民だ。ビールワーは、娘が行方不明になって警察署に捜索願を出しに行ってもまともに取り合ってもらえないし、アミヤーは人身売買をする闇業者に売り飛ばされそうになるが、カーストが低いために高額では売れなかった。
しかしながら、不可触民に対する差別や偏見、それに上位カーストと下位カーストの分断だけを描いただけの映画ではなかったことも面白い点だ。マヒマーが警部補まで出世し、映画の最後には警部にまで昇進したことは、現代のインド社会では不可触民であっても才能次第でどんどん地位を向上できることを示している。それにブラーフマンのソウラブはマヒマーと結婚しようとしていた。ブラーフマンと不可触民の結婚は一般的には有り得ないのだが、この映画ではそれがサラリと描写されていた。「Masaan」(2015年)ではこれが正に中心テーマであったが、さすがにあれからインドの現実が変化したとは断定しがたい。それでも、「Kathal」はインド社会をそういう方向へ変えていこうとする呼びかけをしているのだとして捉えられる。しかも、二人の結婚を阻んでいたのはカーストよりも仕事上の階級差だった。マヒマーは警部補まで出世したが、ソウラブは愚鈍なこともあっていつまでも警察機構の最下層である巡査に留まっていた。ソウラブの両親は、息子が自分よりも地位の高い女性と結婚することに反対していた。もちろんカースト格差も懸念点ではあったが、彼らが一番気にしていたのは職場での上下関係であった。
カースト以外にも、マヒマーが女性でありながら飛び抜けて出世している点にも意味は持たされていた。とはいっても、女性でありながら警部補の地位にあるマヒマーをあからさまに妬むような男性キャラはいなかった。どちらかといえば彼女に仕える男性警官たちはどこか愛嬌のあるキャラだった。逆にマヒマーは、部下の婦警クンティーが出世を諦めて弁護士の夫に尽くしすぎていることを心配していた。インド人女性は結婚後に夫に従順すぎるため、出世レースから外れてしまい、それを自ら甘受する傾向にある。マヒマーの視点から、男性の支配を許すインド人女性の国民的な性質も暗に指摘されていたように感じた。
ちなみに、この映画はアミヤーが無罪放免されたところで一旦終了となり、ジャックフルーツ盗難事件は横に置かれる。真犯人は、一瞬だけエンドロールが始まった直後に明かされるので、映画が終わったように見えたからといって視聴を止めてはならない。
映画の舞台になったモーバーはウッタル・プラデーシュ州の架空の町だが、おそらくは同州南部、ブンデールカンド地方のマホーバーのことだと思われる。マホーバー(Mahoba)はマディヤ・プラデーシュ州との州境近くに位置している。マヒマーたちのしゃべる言語も、ブンデーリー方言訛りのヒンディー語だ。一方、マヒマーたちが州境を超えて訪れたチャッタルプル(Chattarpur)やパンナー(Panna)は実在する町だ。世界遺産カジュラーホーからも遠くない町で、カジュラーホーに陸路で行った旅行者はどちらかの町を必ず通過しているはずである。ただし、エンドロールを見ると、ロケはマディヤ・プラデーシュ州グワーリヤル周辺で行われているようだ。
「Kathal: A Jackfruit Mystery」は、有能な女性警官がジャックフルーツ盗難という馬鹿馬鹿しい事件の捜査を任される中で、巧みに別の少女誘拐事件の解決に導いていくというブラックコメディー映画である。ただ、それは単なる表向きのあらすじであって、この映画が本当に描きたかったのはカースト制度の現在地である。単に不可触民が抑圧されている悲惨な様子を描き出すのではなく、現実に即した描写がなされている。確かに差別はあるが、外国人が短絡的にイメージするようなステレオタイプの差別とはかなり異なる。それを読み取ることができると、この映画の味がよく分かるだろう。