Mujib: The Making of a Nation

2.5
Mujib: The Making of a Nation
「Mujib: The Making of a Nation」

 「Mujib: The Making of a Nation」は、バングラデシュ建国の父シェーク・ムジーブッレヘマーンの伝記映画である。インドとバングラデシュの合作であり、監督はインド人映画監督シャーム・ベーネーガルが務めている。バングラデシュでは2023年10月13日に公開され、インドでは同年10月27日に公開された。なぜ「バンガバンドゥ(ベンガルの友)」とも呼ばれるムジーブの伝記映画にインドが関わるのか、これらの国の関係や歴史を知らない人は疑問に思うかもしれないが、それには深い理由がある。

 まずはムジーブの生涯について簡単に解説する。ムジーブは英領インド時代の1920年にベンガル地方トゥンギパラ村のイスラーム教徒地主一家に生まれた。大学生時代に政治活動に関わるようになり、1947年の印パ分離独立後は、アワーミー連盟に入党して頭角を現したムジーブは国会議員になった。彼は次第に西パーキスターンによる東パーキスターンの一方的な支配を批判するようになり、1960年代になるとベンガル語の国語化を求めて運動を始めた。この間、彼は何度も逮捕されて投獄され、長い期間を牢屋で過ごした。

 ムジーブが西パーキスターンの批判者になったのは、ムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーによってイスラーム教徒の国として建国された新生国家パーキスターンが多くの矛盾を抱えていたからだ。イスラーム教を国家統合の理念にしてできた国だったが、その領土はインド亜大陸の西と東に分断されていた。当時、西側を西パーキスターン、東側を東パーキスターンといった。さらに東西で民族構成が全く異なった。西パーキスターンの中心となったのはパンジャーブ人であったが、東パーキスターンはほぼベンガル人で構成されていた。西側は小麦文化圏、東側は米文化圏と、文化も全く違った。「ウルドゥー語=イスラーム教徒の言語」という幻想の下、パーキスターンの国語はウルドゥー語に決まったが、東パーキスターンの人々はベンガル語が国語ではないことにより就職などで不利益に直面していた。また、パーキスターン全体の人口の半分以上はベンガル人が占めていたが、政治的には西パーキスターンのパンジャーブ人が実権を握っていた。さらに、東パーキスターンの方が産業が発達しておりパーキスターンの経済を支えていたが、そこから得られた税金は西パーキスターンの発展のために使われ、東パーキスターンの発展は遅れた。

 ムジーブはこのような矛盾に気付き、パーキスターンの中でベンガル人の権利を拡大するために政治活動を行った。1970年の総選挙でムジーブ率いるアワーミー連盟は大勝するが、パーキスターンを牛耳る軍が政権の委譲を拒否し、東パーキスターンに軍隊を送り込んで弾圧を開始したため、東パーキスターンは内戦状態になった。1971年12月3日にインドが介入して第3次印パ戦争が勃発し、13日間の闘争の末にパーキスターン軍は降伏し、バングラデシュが建国された。このときムジーブは西パーキスターンのラホールにある牢獄に投獄されていたが無事で、1972年1月10日にバングラデシュに降り立ち、初代首相に就任した。

 ただ、バングラデシュ独立後のムジーブ政権は順風満帆ではなく、荒廃した経済の再建や飢饉の対応に失敗した。左翼勢力や右翼勢力の台頭を促し政治的に追いつめられたことで独裁政権の色を帯びてきた。彼は改憲し、自らを大統領に任命し、立法と司法を骨抜きにし、自党以外の政党を違法化して一党支配体制を打ち出した。ムジーブの独裁にバングラデシュ軍内部で不満が高まり、最後は軍のクーデターによって家族もろとも皆殺しにされた。1975年8月15日のことだった。

 シャーム・ベーネーガル監督はインド最高峰の映画監督の一人であり、特に1970年代のパラレルシネマ運動の旗手として尊敬を受けている。だが、彼は必ずしも伝記映画を得意としているわけではない。かつてベーネーガル監督はスバーシュチャンドラ・ボースの伝記映画「Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2005年)を撮っているが、お世辞にも上手な映画とはいえなかった。この「Mujib: The Making of a Nation」も全く同じ印象を受けた。3時間弱の長尺映画であるが、ムジーブの人生の重要なポイントをほぼ時系列に沿ってなぞるだけで、歴史の教科書を観ているようであり、映画としての味がなかったのである。

 俳優のほとんどはバングラデシュ人だ。ムジーブを演じたのはアーリフィン・シュボー、ムジーブの妻レーヌを演じたヌスラート・イムローズ・ティシャー、ムジーブの娘ハスィーナーを演じたのはヌスラート・ファーリヤーと、主要キャストはバングラデシュ人である。インド人俳優としては、ズルフィカール・アリー・ブットーを演じたラジト・カプール、ムハンマド・アリー・ジンナーを演じたラーフル・スィンなどが挙げられるくらいだ。西パーキスターン人の役をインド人俳優が受け持つ傾向にある。

 また、この映画はシェーク・ハスィーナー首相の政権下で国家プロジェクトとして製作された作品であることにも留意すべきである。ハスィーナー首相は2009年から長期政権を維持しており、この間にバングラデシュの経済は目覚ましい成長を遂げた。だが、これだけ長く政権が続くと、独裁者的な色合いも濃くなってくる。ハスィーナー首相は実はムジーブの娘であり、この映画の中にもちゃっかり登場する。ムジーブ暗殺時にハスィーナーはたまたま外国にいて殺害を免れたのである。

 「Mujib」の第一の敵は西パーキスターンであるが、終盤になって新たな敵として浮上するのが軍人のズィヤーウッレヘマーンである。ズィヤーは1975年のクーデターに関与したとされ、1977年からバングラデシュの大統領を務めた。映画の中でもズィヤーはいかにも悪役といった闇を背負って一瞬だけ登場している。ズィヤーは1981年に暗殺されたが、その後は彼の妻カーリダー・ズィヤーが後を継ぎ、夫が立ち上げたバングラデシュ民族主義党(BNP)の党首として、アワーミー連盟のハスィーナー党首と壮絶な政権争いを繰り広げてきた。1980年代以降のバングラデシュの政治史は、この二人の女性の政争に収斂される。

 ムジーブを持ち上げ、その娘であるハスィーナー首相を悲劇のヒロインに仕立て上げた「Mujib」は、国家的なプロパガンダ映画と呼んで差し支えないだろう。インドが協力しているのは、ハスィーナー政権が親インドであるからに他ならない。ちょうどモーディー政権も映画をプロパガンダに最大限活用している。そのノウハウをバングラデシュにも伝授した形である。「Mujib」はヒンディー語版とベンガル語版が作られたが、ベンガル語版はバングラデシュで公開され大ヒットした。映画の公開から2ヶ月後にバングラデシュで総選挙が予定されていたことを考えれば、この内容にこのタイミングは、選挙対策だったと断定せざるをえない。とても中立な伝記映画とはいえず、バングラデシュ独立後のムジーブの失政にほとんどスポットライトが当たっていないなど、多くの批判が可能である。

 「Mujib: The Making of a Nation」は、バングラデシュ独立の立役者ムジーブッレヘマーンの伝記映画だが、その娘シェーク・ハスィーナーの政権下で国家プロジェクトとして製作された映画であり、ムジーブの負の面にほとんど触れられておらず、完全なるプロパガンダ映画である。また、シャーム・ベーネーガル監督は「Netaji Subas Chandra Bose: The Forgotten Hero」の頃から成長しておらず、教科書的な叙述を繰り返すだけの作品だ。力作ではあるが、問題作でもある。