
2023年7月21日公開の「Minus 31: The Nagpur Files」は、新型コロナウイルスのデルタ株がインドで猛威を振るった2021年、いわゆる「第2波」の期間にマハーラーシュトラ州ナーグプルで起こった殺人事件を巡る警察映画である。インドで初めて発見されたために当時は「インド株」とも呼ばれたデルタ株は毒性が強く、インドにおいて膨大な数の感染者および死者が出た。医療体制は崩壊し、火葬場は機能不全に陥った。映画では、広場で多くの遺体が荼毘に付される映像が流れるが、あの頃の地獄絵図を思い出させる。
監督はプラティーク・モーイトロ。短編映画の監督経験はあるが、長編映画の監督は本作が初である。キャストは、ルチャー・イナームダール、ニシャー・ダル、シヴァーンキト・スィン・パリハール、ラグビール・ヤーダヴ、ラージェーシュ・シャルマー、サントーシュ・ジューヴェーカル、ジャヤー・バッターチャーリヤ、カーム・バーリー、デーバーシーシュ・ナーハー、シュレーヤス・アトカルなどである。
2021年。ナーグプルのスィターバルディー警察署に勤務する新米警察官僚プレークシャー・シャルマー警部(ルチャー・イナームダール)は、ロックダウン中に外を出歩く中年女性を取り押さえ、ネット上で炎上していた。死体遺棄の通報を受けたプレークシャー警部は現場へ直行する。その遺体は地元で名の知れた実業家ダヤーナンド・パーンデー(ラージェーシュ・シャルマー)のものだと判明する。検視官ガウタム・アガルワール(シヴァーンキト・スィン・パリハール)は他殺と断定する。プレークシャー警部は上司ラーヒー・シルケー警視(ジャヤー・バッターチャーリヤ)から事件の担当を任される。
同時にプレークシャー・メーシュラーム(ニシャー・ダル)という女性の捜索願が出される。プレークシャー警部は、自分と同じ名前であるプレークシャーがダヤーナンドの皮革工場で会計士をしていたことを知り、2つの事件に関連があると推測する。プレークシャー警部はダヤーナンドの事件を捜査しながあプレークシャーの捜索も行う。容疑者として浮上したのは、ダヤーナンドの義弟グッドゥー(サントーシュ・ジューヴェーカル)と、プレークシャーの恋人でラッパーのサンディープ・ソーンタッケー、通称サンディー(カーム・バーリー)であった。
プレークシャー警部は度々上司から妨害を受けストレスを募らせる。父親アヌパム(ラグビール・ヤーダヴ)とも口論をしてばかりだった。また、プレークシャーの遺体も発見される。自暴自棄になったプレークシャー警部はガウタムを連れ出し、ラーヒーの家に石を投げ込む。だが、それが監視カメラに映っており、プレークシャー警部は停職となってしまう。
プレークシャー警部は停職になった後も捜査を続ける。ガウタムから、プレークシャーの遺体から抗ウイルス薬レムデシビルが見つかったと報告を受ける。プレークシャー警部はサンディーがレムデシビルの売人をしていることを突き止め、彼を問いただす。サンディーは、プレークシャーがダヤーナンドの皮革工場からレムデシビルを盗み出していたことを明かす。プレークシャー警部はサンディーと共に皮革工場に潜入するが、そこで彼らはデーヴァーンシュ(シュレーヤシュ・アトカル)に襲われる。ガウタムも彼に捕まっていた。だが、プレークシャー警部は機転を利かせて反撃し、デーヴァーンシュを捕らえる。デーヴァーンシュこそダヤーナンドとプレークシャーを殺した殺人犯だった。
プレークシャー警部は皮革工場で大量のレムデシビルを押収する。怪我を負ったガウタムを病院に搬送するが、そこで彼女は多くの患者が新型コロナウイルスによって瀕死の状態にあるのを見て、押収したレムデシビルを無料で配る。彼女はレムデシビル密売の黒幕が政治家ナーナーバーウー・デーシュムク(デーバーシーシュ・ナーハー)であることを知っていたが、彼を糾弾せず、彼のおかげでレムデシビルが手に入ったと報道陣に伝える。
ナーナーバーウーは次の選挙で圧勝し、プレークシャー警部はナーナーバーウーの口利きにより念願だったマンションを安価に購入することができた。だが、サンディーはプレークシャー警部の裏切りに一人腹を立てていた。
インドに第2波を引き起こしたデルタ株は従来株よりも感染力が強く重症化リスクも高かった。インドではデルタ株によって病院が機能不全に陥るほど大量の感染者が出て、火葬が追いつかないほどの死者が出た。まだこの頃にはワクチン接種が本格化しておらず、重症患者を救うために必要な酸素と抗ウイルス薬レムデシビルが極度に不足していた。特定の品物が不足すると、それを使って荒稼ぎをする輩が現れる。「Minus 31: The Nagpur Files」で描かれていた殺人事件の元をたどると、レムデシビルの密売が関係していた。題名になっている「マイナス31度」は、レムデシビルを保存するために必要な温度のことだと思われる。
「Minus 31」は、第2波の頃のインドの悲惨な日常が再現されていたことにひとつの意義がある。喉元過ぎれば熱さを忘れるのは人間の性だ。デルタ株に蹂躙されたインドはまるで地上に地獄が出現したかのような状態だったが、早くも風化してきているように感じられる。この映画を観ていると、マスクが必需品で、消毒がエチケットになり、抗原検査が日常的に行われていたあの日の記憶が蘇ってくる。
また、殺されたプレークシャーとその友人サンディーはスラム街に住むラッパーだった。サンディーを演じるカーム・バーリーは本物のラッパーであり、「Gully Boy」(2019年/邦題:ガリーボーイ)にも出演していた。そんなこともあって、ラップ系の音楽が流れる場面が何度もある。
だが、この映画でもっとも興味を引かれたのは、主人公プレークシャー警部の描き方だった。彼女は新米の警察官僚で、初めて殺人事件を担当することになった。普通ならば、若いが有能な警察官という設定になるはずだが、プラティーク・モーイトロ監督はプレークシャー警部のさまざまな面をあえて描写し、彼女も我々と同じ人間の一人であることを強調する。捜査の進め方は決してこなれていないし、上司からのプレッシャーや妨害にもまだ慣れていない。家庭では糖尿病患者の父親の看病をしながら、言うべきことはきちんと言う。2ヶ月生理が来なくてうろたえ、ストレス発散のために上司の家に石を投げ込む。そして最後には巨悪を告発せず、父親から教えられた通り「スマート」な行動を採り、利己主義に走る。プレークシャー警部は決して女傑ではない。一人の悩める人間なのである。それゆえにいい意味で人間臭さが出ていてユニークなキャラになっていた。
事件の捜査をする警察官の名前がプレークシャーで、彼女の捜査対象になっている女性の名前もプレークシャーだった。映画、ドラマ、小説など、創作物語では普通、混乱を避けるために同一の名前の登場人物は置かないのが定石であるが、「Minus 31」では意図的に2人のプレークシャーを登場させた。プレークシャー警部が徐々にプレークシャーと同化していく様子が描かれていたが、それこそが監督の意図であろう。プレークシャー警部はプレークシャーのソーシャルメディアを見つけ、彼女のことを知ろうとする。その内に彼女はプレークシャーと一体化し、生前の彼女が行っていた行動を取るようになる。基本的にはリアリズム映画であったが、2人のプレークシャーがまるでひとつになっていくかのように描く表現は超常的であった。
「Minus 31: The Nagpur Files」は、コロナ禍第2波の直撃を受けた頃のインドを舞台に、新米警察官僚の視点から殺人事件や行方不明事件の捜査が行われる中で、特需を迎えた抗ウイルス薬密売ビジネスに切り込んだスリラー映画である。意外にシリアスな味付けにはなっておらず、主人公がどこか抜けており、最後にはちゃっかり利己主義に走るのがユニークだった。第2波の時代を再現している点でも貴重だ。観て損はない映画である。
