安楽死

 2018年3月9日、インド最高裁判所は、厳しい条件付きながら、安楽死(Euthanasia)を合法化する判決を下した。この瞬間をもって、インドは安楽死が認められる国になった。

 インドが認めているのは、生命維持を止めることによる消極的安楽死(Passive Euthanasia)である。末期症状または植物人間になった患者に対し、リビング・ウィルでの意思確認を前提にして、消極的安楽死が行われるようになった。

 消極的安楽死の対極にあるのが積極的安楽死(Active Euthanasia)である。こちらは薬の投与などによって能動的に患者の命を終わらせることで、インドでは認められていない。つまり、殺人と同じ扱いになる。一方、消極的安楽死は自然死の範疇に入る。

 「尊厳死(Dignified Death)」という言葉もあり、「安楽死」との違いが話題になることも多いのだが、国によって法律は様々で、この2つの用語の使い方も異なっている。少なくともインドにおいては、消極的安楽死は尊厳死のための手段として扱われている。「安楽死」はヒンディー語では「इच्छामृत्युイッチャームリティユ」、つまり「自分の意思による死」と呼ばれている。

 「Filmsaagar」の中では、特別な記載がない限り、「安楽死」といえば、消極的安楽死および尊厳死のことを指していると考えてもらいたい。

安楽死合法化までの経緯

 インドにおいて安楽死が合法化されるきっかけとなったのは、アルナー・シャーンバーグ事件であった。アルナーはムンバイーの病院で働く看護師だった。1973年、彼女は掃除人に襲われ、首を絞められながらレイプされた。この行為によって脳への酸素供給が止まり、脳死状態になった。このとき彼女は25歳だった。

Aruna Shanbaug
アルナー・シャーンバーグ

 その後、アルナーは30年以上も脳死状態のまま生きさせられ続けた。ジャーナリストのピンキー・ヴィーラーニーはアルナーのそのような生存の状態に疑問を持ち、2010年に最高裁判所に対して、彼女は「尊厳ある人生を生きる権利」を侵害されているとし、彼女の安楽死を求めた。2011年に最高裁判所は判決を下し、ピンキーによる安楽死の訴えは棄却したものの、消極的安楽死を合法化するためのガイドラインを発表した。

 アルナーは2015年に肺炎によって死去するが、最高裁判所の判決を受けて、安楽死合法化の流れができた。紆余曲折はあったものの、2018年3月9日に最高裁判所は消極的安楽死を合法化した。

安楽死のその後

 2023年1月25日付けのTimes of India紙によると、2018年に合法化されて以来、過去4年間、インドでは1件も安楽死が行われていないという。

 安楽死認可のための要件が厳しすぎたとの判断があったと思われ、最高裁判所はその要件を緩和する命令を出した。以前は、徴税官(Collector)が主体となって、安楽死の可否を決定する審査委員会を設立する必要があったが、緩和後は病院がその委員会を設立することができるようになった。その委員会の委員になる要件も、以前は20年以上の職務経験が必要だったが、緩和後は5年以上に引き下げられた。

 近い内に合法化第一号の安楽死がニュースになる日が来るのだろうか。

インド映画と安楽死

 メインストリーム映画の中で安楽死を大々的に取り上げた作品は「Guzaarish」(2010年)だ。まだ安楽死が違法だった時代に作られており、舞台もインドのゴア州であるため、さすがに安楽死を認める内容にはなっていない。リティク・ローシャン演じる手品師イーサンは、事故により首下不随となり、不名誉な生よりも尊厳ある死を望んで、安楽死を求めて訴訟を起こした。彼の訴えは結局棄却されてしまうのだが、イーサンは愛する人に殺されることを選ぶ。サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督らしい映像美に彩られた美しい映画だった。

Guzaarish
「Guzaarish」

 「Salaam Venky」(2022年)は、インドにおいて消極的安楽死が合法化された後に製作・公開された映画である。ただし、アルナーと同じく国を相手取って安楽死を求め、志半ばで2004年に死去したヴェンカテーシュ・クリシュナンを主人公にした伝記映画であり、まだ安楽死が違法だった時代のインドを舞台にしている。よって、この映画の中でも主人公は安楽死を認められていない。ちなみに、ヴェンカテーシュはデュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)を患っていた。

Salaam Venky
「Salaam Venky」