Rickshaw Girl (Bangladesh)

3.0
Rickshaw Girl
「Rickshaw Girl」

 バングラデシュと米独の合作「Rickshaw Girl」は、バングラデシュの首都ダッカにてサイクルリクシャーを引くことになった少女の物語である。インド系米国人作家ミターリー・パーキンス著の同名小説(2007年)を原作としている。言語は英語とベンガル語のハイブリッドだが、基本的には英語映画である。初公開は2022年12月10日だ。

 監督はバングラデシュ人アミターブ・ラザー・チャウダリー。キャストはノヴェラ・レヘマーン、モミナ・チャウダリー、グルシャン・チャンパー、アレン・シュブロー、ノレーシュ・ブイヤン、ジャハーンギール・アーラム、ナスィール・ウッディーン・カーンなどである。バングラデシュ人俳優については全く無知であるため、どのレベルの俳優が出ているのか分からない。ただ、特別出演していたスィヤーム・アハマドとムンタヒーナー・チャウダリー・チャウダリー・トーヤーについてはある程度有名な俳優だと思われる。

 パークスィー村に生まれ育ち、リクシャーワーラーのサリーム(ノレーシュ・ブイヤン)を父に持つ少女ナイマー(ノヴェラ・レヘマーン)は、絵が得意だった。サリームは彼女の絵の才能を認め、伸ばそうとしていたが、母親からは時間の無駄だと思われていた。

 ある日、サリームが病に倒れてしまい、借金返済が滞ったことで、雇い主のマームン(ナスィール・ウッディーン・カーン)によってサイクルリクシャーを取り上げられてしまう。ナイマーは、バスの車掌をする友人バレク(アレン・シュブロー)に頼んで、首都ダッカに連れていってもらう。

 バレクからはメイドの仕事を紹介されるがすぐに逃げ出し、ストリートチルドレンたちと一晩過ごした後に、サイクルリクシャーの運転手になる。女性は雇ってもらえなかったので、髪を切って男装し、ナイームを名乗って仕事を得た。たまたまフィルムシティーの前にいたら撮影に呼ばれ、俳優スィヤーム・アハマドと共演する幸運も得た。

 しかしながら、ナイマーが女性であることがばれてしまい、追い出される。彼女はマリオム(グルシャン・チャンパー)に絵の才能を見出され、いい稼ぎが得られるようになる。ナイマーはすぐにそのお金をバレクを通して村に送り、父親の治療をしてもらおうとするが、そのとき父親が亡くなったことを知る。

 その後、ナイマーは画家として有名になった。

 貧しいが絵の才能があった主人公ナイマーが、父親の病気をきっかけに家出同然の形でダッカに出て、紆余曲折を経て画家として大成するというシンデレラストーリーである。

 題名が示唆するように、ナイマーは女性ながらサイクルリクシャーワーラー(正確にはサイクルリクシャーワーリー)になる。雇い主が男性しか雇わないと言ったため、彼女は男装して出直し、仕事を得た。しかし、彼女がリクシャーワーリーとして活動する時間帯は意外に少ない。終始強調されていたのは、彼女の画才の方だ。そして最後には画家として成功した彼女の姿が映し出される。よって、サイクルリクシャーワーリーになった女性の物語、という事前の予想とは異なる内容の映画である。

 女性の社会進出が進むにつれて、今まで男性しか就いていなかった職業に女性が就き、男性社会の中で女性の居場所を確保していく様子を感動的に追った映画というのは古今東西よく見られる。ところがこの「Rickshaw Girl」はその種の映画ではない。確かにバングラデシュのサイクルリクシャー社会は男性によって占有されている。サイクルリクシャー引きは力仕事であり、女性の仕事ではない。女性がリクシャーワーリーになるという発想自体がないだろう。ナイマーはそのタブーに切り込んだわけだが、男装して雇われただけで、決して女性の就業を切り拓いたわけではない。また、女性であることが発覚し、サイクルリクシャーを取り上げられた後は、二度とリクシャーワーリーになろうとはしていなかった。

 ナイマーの絵の才能はCGを適宜使いながら表現されていた。原色を使い、動物がリクシャーを漕いでいるなど、幻想的な画風で、彼女は父親のサイクルリクシャーや家の壁、そして屋根など、所狭しと絵で埋め尽くしていた。しかも彼女の絵はCGの力を借りて時々動きを見せる。それはあたかも彼女が絵に命を吹き込んだかのようだった。父親は彼女の画才を認めていたものの、他に理解者はおらず、彼女自身も自分の才能に気付いていなかった。ダッカに出たナイマーは絵ではなくリクシャーワーリーとして父親の治療費を稼ごうとする。最終的に彼女はたまたま描いた絵がスラムの有力者に認められ、才能を開花していく。エンディング直前に登場した彼女の絵は、彼女が笑顔の父親を後ろに乗せてサイクルリクシャーを運転し、ダッカの空を飛ぶというものだった。

 感動的なストーリーではあるのだが、所々あっさりと描写しすぎのようにも感じた。たとえば映画を観ていて、ナイマーと父親の関係がそれほど強固なものだったという印象はあまり受けなかった。彼女に絵を描き続けるように励ましたのは父親だったが、それ以外の部分で父親との強い絆を表現している部分はなかったはずだ。かえって妹の方が父親とベッタリだった。ナイマーは病気の父親を家に置いて黙ってダッカに行ってしまうなど、逆に心配を掛けてばかりいる。ナイマーとバレクの関係もあまり説明されていない。親に黙ってダッカに行ってしまうというナイマーが取った行動はかなり無謀で危険の伴うものだったが、出会う人々が基本的に親切で、ドラマチックな起伏に乏しかった点も不満に感じた。

 後から振り返ってみると、全体として何を訴えたかった映画なのか、謎だった。貧しい人々に、自分の好きなことを突き詰めるように訴えているのだろうか。確かにナイマーには絵の才能があったかもしれないが、大半の人にそのような才能が眠っているとは思えない。題名とは裏腹にリクシャーワーリーにもならなかった。病気の父親を救うこともできず、死に目にも会えなかった。いろんなことをすっ飛ばして、最後に画家として大成した姿が提示されるが、取って付けたようなエンディングだった。

 個人的に強い違和感を感じたのは言語だ。この映画は基本的に英語映画であり、登場人物は英語で台詞をしゃべる。一部、ベンガル語の台詞も入るが副次的であり、英語だけで理解できるようになっている。ただ、登場人物の多くは貧困層かつ無教養層である。ナイマーにしても5年生までしか進学していなかった。そんな彼らが流暢な英語を使いこなす。英語映画なので仕方がないのだが、南アジア社会では英語を話す人のステータスが高く、どうしてもリクシャーワーラーなどが英語で会話をする違和感を拭えなかった。

 「Rickshaw Girl」は、ダッカでリクシャーワーリーとして働く少女の物語であるが、実はその点は主題ではなく、むしろ主人公が絵の才能を開花させるまでを追った作品だ。悪くない映画だが、あっさりしすぎているとも感じた。