Pathonpatham Noottandu (Malayalam)

2.5
Pathonpatham Noottandu
「Pathonpatham Noothandu」

 2022年9月8日公開のマラヤーラム語映画「Pathonpatham Noottandu(19世紀)」は、現在のケーララ州南部にかつて存在したトラヴァンコール王国の圧政に立ち向かった下位カースト出身の英雄たちを主人公にしたエピック映画である。主に、歴史上の男性であるアーラートゥプラ・ヴェーラーユダ・パニッカル(1825-1874年)と、伝説上の女性であるナンゲーリが主人公になっている。

 まず、ヴェーラーユダもナンゲーリも、イーラヴァと呼ばれるケーララ地方特有のカーストに所属している。イーラヴァはココナッツやヤシの栽培やヤシ酒の製造を主な生業とするコミュニティーで、社会階層は下位であるものの、ケーララ地方の人口の2割強を占めており、人口で見れば多数派である。また、イーラヴァの中でもチェーカヴァルと呼ばれる一派は武勇の民として知られ、日頃からカラリパヤットゥなど武術の鍛練を怠らず、王国の兵力を支えた。ヴェーラーユダはチェーカヴァルであり、圧政に対して立ち向かった勇敢な戦士であった。

 「Pathonpatham Noottandu」ではトラヴァンコール王国が下層民に課した数々の税金が話題になる。その中でも特に悪税としてセンセーショナルに取り上げられているのが「乳房税」だ。これは、19世紀のトラヴァンコール王国において下位カースト女性に課せられていたとされる税金である。下位カースト女性は乳房を布で覆うことを禁止されており、もし布で覆いたければ「乳房税」を払わなければならなかった。その他にも、下位カースト女性が鼻飾りをしたり、縁のあるサーリーを着たり、膝下まである腰布を巻いたりすることも禁止であった。ただし、「乳房税」の実在を疑問詞する見方もある。ナンゲーリは、自らの命を犠牲にして「乳房税」に反対した伝説上の女性だ。「乳房税」やナンゲーリに関しては、短編映画「Mulakaram」(2020年)も作られている。

 また、映画中にはトラヴァンコール王国の王が登場する。アーイリヤム・ティルナールである。1860-80年に在位した実在の王であり、近代教育の導入や医療・インフラ整備などを推進した賢王として知られている。

 「Panthonpatham Noottandu」の監督はヴィナヤン。音楽はサントーシュ・ナーラーヤナン。キャストは、スィジュ・ウィルソン、カーヤドゥ・ローハル、アヌープ・メーナン、チェンバン・ヴィノード・ジョース、ディープティ・サティ、プーナム・バージワー、レーヌ・ソウンダル、センティル・クリシュナ、スデーヴ・ナーイル、スレーシュ・クリシュナ、ヴィシュヌ・ヴィナイ、マニカンダン・R・アーチャーリー、マードゥリー・ブラガンザ、ムスタファーなど。

 トラヴァンコール王国の守護神を祀るパドマナーバスワーミー寺院の宝物が何者かに盗難された。アーイリヤム・ティルナール王(アヌープ・メーナン)は将軍に盗人カーヤムクラム・コッチュンニ(チェンバン・ヴィノード・ジョース)の捜索を命じるがなかなか見つからなかった。そこでティルナール王はイーラヴァの英雄アーラートゥプラ・ヴェーラーユダ・チェーカヴァル(スィジュ・ウィルソン)を召喚する。ヴェーラーユダはイーラヴァだったが海洋貿易で成功し巨万の富を築き上げ、民衆から慕われていた。しかし、パニッカッセリ・パラメーシュワラ・カイマル大臣(スレーシュ・クリシュナ)たちが下位カーストのヴェーラユーダに聖なる装飾品の奪還を任せることに反対したため、彼は引き下がる。

 トラヴァンコール王国では下位カースト者への圧政が行われていた。その最たるものが「乳房税」だった。だが、ナンゲーリ(カーヤドゥ・ローハル)は反旗を翻し、村の女性たちと共に乳房を布で覆って練り歩く。パダヴィーダン・ナンビ副将軍(スデーヴ・ナーイル)が駆けつけ、罰としてナンゲーリを殺そうとするが、ヴェーラーユダが助けに入り彼女を救う。

 ヴェーラーユダは下位カーストのための寺院を建立するが、それが王国の法に触れ、逮捕される。ナンビ副将軍は彼を毒殺しようとするが、ヴェーラーユダに味方していた王女カトゥルピッリル・カリヤーニクッティ(プーナム・バージワー)によって釈放される。カリヤーニクッティはヴェーラーユダに、パドマナーバスワーミー寺院の宝物を取り戻すように改めて依頼する。

 コッチュンニはパドマナーバスワーミー寺院の宝物を地中に埋めて隠していた。コッチュンニがそれを掘り起こしに行くと、トラヴァンコール王国軍の部隊長カンナン・クルプ(ヴィシュヌ・ヴィナイ)が待ち構えていた。コッチュンニはクルプと取引し、分け前を山分けすることを提案する。クルプもそれに乗り、ヨーロッパ人に売りさばこうとするが、ヴェーラーユダに妨害され、コッチュンニは捕まってしまう。

 コッチュンニを逮捕しパドマナーバスワーミー寺院の宝物を取り戻したヴェーラーユダはトラヴァンコール王国に凱旋する。ティルナール王はヴェーラーユダに金貨を授けて労おうとするが、大臣たちに止められる。そこで王は彼に「パニッカル」の称号を与える。一方、クルプは獄中のコッチュンニと密会し、ヴェーラーユダ暗殺の依頼を受ける。

 ヴェーラーユダは、依然としてトラヴァンコール王国内で下位カーストへの圧政が止まないことに抗議するため、プータン祭で女性たちを着飾らせ、王国の法を破らせる。すると、ナンビ副将軍たちが駆けつけ下位カーストを襲撃する。ヴェーラーユダは反撃し、ナンビ副将軍を殺す。だが、隠れていたクルプに銃撃され負傷する。ヴェーラーユダは逃げるクルプを追撃し川に落とす。

 トラヴァンコール王国の王宮ではヴェーラーユダに反感を抱く大臣たちがヴェーラーユダの処罰をティルナール王に進言していた。そのとき、ヴェーラーユダが王宮を訪れ、大臣たちの悪事を暴く。そして証人としてコッチュンニの相棒バヴァ(マニカンダン・R・アーチャーリー)を突き出す。失脚の危機を迎えた大臣たちはヴェーラーユダ暗殺を画策する。

 ヴェーラーユダは水路でティルヴァナンタプラムに向かっていたが、カイマル大臣たちの襲撃を受ける。事前に睡眠薬を盛られて万全でなかったヴェーラーユダは、応戦するも多勢に無勢で、最後には力尽きる。ヴェーラーユダの死は民衆を悲しませる。

 ヴェーラーユダがいなくなった今、後ろ盾を失ったナンゲーリは上位カーストたちから拷問を受けていた。ナンゲーリは老いた父親を救うため乳房税の支払いに応じる。だが、彼女は公衆の面前で両乳房を切り落とし絶命する。ナンゲーリの恋人チールカンダン(センティル・クリシュナ)はナンゲーリを火葬する炎の中に飛び込んで自殺する。二人の死に激怒した民衆は蜂起し、ティルナール王は悪税の廃止を宣言する。

 壮大なスケールの駄作であった。おそらく「Baahubali」シリーズ(The Begining:2015年/The Conclusion:2017年)のマラヤーラム語映画版のような、スケール感のあるエピック映画を志したのだろう。だが、「Baahubali」シリーズほどの予算は用意できなかったと見えて、随所に安っぽさが漂う残念なエピック映画になっていた。

 また、「Panthonpatham Noottandu」が土台にしたのは、ケーララ人なら誰もが知っていると思われる英雄譚や伝説だ。よって、何の説明もなくヴェーラーユダやナンゲーリが登場し、初っ端からヒーロー全開で活動を始める。この二人の知名度がケーララ州の外まであるとは思えない。「Baahubali」シリーズはインド全土で展開されたが、「Panthonpatham Noottandu」はあくまでケーララ州内の市場のみを狙った作品だと感じた。

 ただ、19世紀のケーララ地方で横行していた「乳房税」などの悪習が取り上げられ、低カースト者を人間扱いしない残酷なカースト差別が批判的に描かれていたのに加えて、ケーララ州が誇る伝統文化の数々も魅力的に提示されストーリーの中に組み込まれていたのも特筆すべきだ。古典舞踊カタカリ、民俗舞踊プータン、伝統武術カラリパヤットゥなどが登場する。王宮や屋敷などの建築もケーララ地方の伝統的な様式にのっとっており、他地域のインド映画とは一線を画する。

 どうしても歴史的出来事や伝説を題材にしていて、しかもそれに束縛されているため、ストーリーに自由度がない苦しさを感じた。ヴェーラーユダとナンゲーリの出会いなどはフィクションであろうが、彼らは最後には死んでしまう運命であり、それを後味のいいストーリーに持ち上げるのはなかなか難しかったようだ。ヴェーラーユダとナンゲーリの死後、民衆が蜂起して王を動かすという締め方だったが、この映画を観ていて一番疑問に感じたのは、「乳房税」などの悪税を王が早く廃止していればよかったのではないかということだ。ティルナール王は、差別主義的な大臣たちに取り囲まれながらもヴェーラーユダに対して分け隔てなく接しようとするなど、自らの意思を押し通す、聡明で進歩的な王として一方では描かれていたが、悪税を民衆に課して圧政を押し通してきた張本人も彼自身であり、謎の立ち位置にいるキャラクターだった。トラヴァンコールの王族の末裔はまだ健在であるため、あまり悪く描けなかったというのが実のところかもしれない。

 「Pathonpatham Noottandu」は、19世紀半ばのケーララ地方を舞台にし、トラヴァンコール王国の圧政に立ち向かった英雄たちを主人公にしたエピック映画だ。マラヤーラム語映画は低予算ながら脚本重視の優れた映画作りで知られるが、この作品は低予算という点だけ変わらないまま精いっぱい壮大なスケール感を出そうと努力している。だが、安っぽさはどうしても隠せない。興行的には成功だったようだ。映画としての完成度は高くないが、ケーララらしさがよく出た作品であり、違った魅力のある作品だ。