ヒンディー語の音韻には有気音と無気音の違いがある。有気音は帯気音とも呼ぶ。日本語にはない音韻の特徴であるため、ヒンディー語を学ぶ日本人の大半には新しい概念になるが、理解はそれほど難しくないだろう。同じ口の形をしていても、強い呼気と共に発声することで有気音、弱い呼気と共に発声することで無気音になり、ヒンディー語では全く別の音として扱われる。口の数cm前にティッシュペーパーを垂らして発音し、ティッシュペーパーが揺れたら有気音、揺れなかったら無気音と説明されることが多い。聴き取りも、慣れればどうということはない。
ヒンディー語の筆記に使われるデーヴァナーガリー文字にも、ヒンディー語の音韻を反映して、有気音と無気音、別々の文字が用意されている。デーヴァナーガリー文字の有気音は以下の通りである。アルファベットで表記されるときは「h」が付記される。
- ख:kha、कの有気音
- घ:gha、गの有気音
- छ:chha、चの有気音
- झ:jha、जの有気音
- ठ:Tha、टの有気音
- ढ:Dha、डの有気音
- ढ़:Rha、ड़の有気音
- थ:tha、तの有気音
- ध:dha、दの有気音
- फ:pha、पの有気音
- भ:bha、बの有気音
日本人は耳よりも目で言語を捉える傾向にある。デーヴァナーガリー文字を見ると有気音を示す文字は上記の11個なので、ヒンディー語の有気音は以上の11個だけだと考えるかもしれない。だが、ヒンディー語にはあと3つ、隠れた有気音がある。それは以下の3つである。
- न्ह:nha、नの有気音
- म्ह:mha、मの有気音
- ल्ह:lha、लの有気音
デーヴァナーガリー文字は元々サンスクリット語の筆記のために作られた文字であるため、サンスクリット語にない発音を表記するための文字がない。11番の「ढ़(Rha)」も実はサンスクリット語にはない発音で、元々あった「ढ(Dha)」という文字の下に点を加えることで新しい文字を作り出している。ヒンディー語特有の残り3つの有気音を表記するため、無声音字と「ह」との結合文字で便宜的に有声音「न्ह(nha)」、「म्ह(mha)」、「ल्ह(lha)」を作り出したというわけだ。
न्ह
「न्ह(nha)」は基本語の中で使われている。「これらを/彼らを」という意味の「इनको(Inko)」の融合形「इन्हें(Inhein)」、「あれらを/彼らを」という意味の「उनको(Unko)」の融合形「उन्हें(Unhein)」である。これらの中にある「न्ह」は「न」の有気音である。よって、それぞれ「イネー」、「ウネー」になる。また、クリシュナ神の別名「कन्हैया(Kanhaiya)」や「कान्हा(Kanha)」がある。これらの中にある「न्ह」もやはりनの有気音である。よって、それぞれ「カナイヤー」、「カーナー」と表記すべきである。さらに、人名に「सिन्हा(Sinha)」があるが、これも同じく「スィナー」と表記すべきである。例えば、「Sonakshi Sinha」は「ソーナークスィー・スィナー」になる。
「Lagaan」(2001年/邦題:ラガーン~クリケット風雲録)の「Radha Kaise Na Jale」の歌詞には、「कन्हैया(Kanhaiya)」と「कान्हा(Kanha)」の両方が出て来るので、歌手アーシャー・ボースレーの発音に耳を澄ましてみるといいだろう。
मधुबन में जो कन्हैया
किसी गोपी से मिले
マドゥバンの森でカナイヤーは
牧女の誰かと出会う
मधुबन में भले कान्हा
किसी गोपी से मिले
マドゥバンの森でカーナーは
牧女の誰かと出会ったとしても
म्ह
「म्ह(mha)」も基本語に使われている。「君の」という意味の代名詞属格「तुम्हारा(Tumhara)」や、「तुमको(君を)」の融合形「तुम्हें(Tumhein)」である。これらの「म्ह」は「म」の有気音であり、それぞれ「トゥマーラー」、「トゥメー」と発音する。カースト名の「कुम्हार(Kumhar)」は「クマール」になる。
「Dil Hai Tumhara」(2002年)の題名は「ディル・ハェ・トゥマーラー」と読む。「心は君のもの」という意味である。そのタイトルソングを聞くと、ちゃんとそのように発音していることが分かる。
आज से जान-ए-मन
दिल है तुम्हारा
今日から、愛しいひとよ
心は君のもの
ल्ह
「ल्ह(lha)」の好例は人名の「मल्होत्रा(Malhotra)」だ。この中の「ल्ह」は「ल」の有気音であり、「マロートラー」になる。例えば、「Siddharth Malhotra」は「スィッダールト・マロートラー」になる。また、「かまど」という意味の「चूल्हा(Chulha)」は「チューラー」に、雨季の夕方に演奏されるラーガ「मल्हार(Malhar)」は「マラール」になる。
「Hero」(1983年)の挿入歌「Nindiya Se Jaagi Bahar」に単語「मल्हार(Malhar)」が使われている。「マラール」と発音していることが分かるだろう。
कोयल कूहके कूहके गाए मल्हार
कूहके कूहके गाए मल्हार
カッコウよ、鳴いてマラールを歌え
鳴いてマラールを歌え
「Bajirao Mastani」(2015年)に「Malhari」という曲があり、題名のみならず歌詞の中にも「मल्हारी(Malhari)」という言葉が出て来る。これは上で紹介した「मल्हार」の派生語であって、正しくは「マラーリー」と発音するはずだが、ヴィシャール・ダードラーニーが歌う歌をよく聞いてみると、「マルハーリー」と発音している。理由はよく分からない。
例外
基本的に「न्ह(nha)」、「म्ह(mha)」、「ल्ह(lha)」はそれぞれ「न(na)」、「म(ma)」、「ल(la)」の有気音であるが、ごく少数ながら例外もある。
例えば「小さな」という意味の形容詞「नन्हा(Nanha)」は、「ナナー」ではなく「ナンナー」と読む。つまり、この単語中の「न्ह」は「न」の有気音ではない。「Nanhe Jaisalmer」(2007年)という映画があったが、この題名は「ナンネー・ジャイサルメール」と読む。意味は「小さなジャイサルメール」だ。
古典的な名作の一本に数えられる「Boot Polish」(1954年)にも「Nanhe Munne Bachche(小さな小さな子供よ)」という曲があった。これは「ナンネー・ムンネー・バッチェー」と読む。
नन्हे मुन्ने बच्चे
तेरी मुट्ठी में क्या है?
मुट्ठी में है
तक़दीर हमारी
小さな小さな子供よ
お前の拳の中には何がある?
拳の中には
僕たちの運命がある
ヒンディー語映画で比較的頻出する単語「दुल्हन(Dulhan)」もしくは「दुल्हनिया」も例外的な発音をすることがある。どちらも「花嫁」という意味の名詞で、「Chor Machaye Shor」(1974年)の曲「Le Jayenge Le Jayenge Dilwale Dulhania Le Jayenge」で分かるように、本来ならば「ドゥラン」という発音が正しいはずだ。しかしながら、同時に「ドゥルハン」という発音を耳にすることも多い。ただし、それと対になる、「花婿」を意味する名詞「दूल्हा(Dulha)」は一般的には「ドゥーラー」とのみ読むように感じる。
「Dulhan」(1974年)の「Main Dulhan Teri」では、ラター・マンゲーシュカルがゆっくりと歌っているので「दूल्हा」と「दुल्हन」の発音の違いを聴き取りやすい。
मैं दुल्हन तेरी
तू दूल्हा पिया
私はあなたの花嫁
あなたは花婿、愛しい人よ
ただし、この辺りは地域差や個人差があるので、どちらか正しいか確実に言い切ることは難しい。
参考文献
- भोलानाथ तिवारी, “हिन्दी भाषा”, किताब महल, इलाहाबाद, [1966] 2008