かつてインドの航空産業旅客分野は国営のエア・インディアとインディアン・エアラインス(インディアン航空)がそれぞれ国際線と国内線を受け持つシンプルな構造だった。それは日本の日本航空(JAL)と全日空(ANA)の関係に似ている。1990年代に民間にも航空産業参入の門戸が開かれると、サハーラー・インディア・エアラインスやジェット・エアウェイズなどが設立され国内線に競争が生まれた。だが、この時点では民間企業の航空産業参入はサービスの向上に寄与しただけで、コストダウンまでは生まなかった。依然として飛行機での移動は富裕層の特権であった。
インド初のLCC(格安航空会社)として知られるのがエア・デカンである。インド空軍を退役したGRゴーピーナート大尉によって2003年に設立された。エア・デカンは「誰でも利用できる航空会社」をモットーに格安で航空券を販売した。メインターゲットはインド鉄道の一等(FC)利用者で、チケット料金もそれと競合する価格帯に設定された。そして、条件付きではあるが、「1ルピー」という話題性のあるチケットも販売し、今まで飛行機に乗ったことがなかった人々の飛行機利用を促した。2007年にキングフィッシャー航空と経営統合が始まり、「シンプリフライ・デカン」と改名された後に「キングフィッシャー・レッド」となった。しかし、キングフィッシャー航空はエア・デカンを買収したことで経営が悪化し、2012年に運航停止に追い込まれてしまった。そればかりでなく、インディアン・エアラインスもエア・インディアと統合され、サハーラー・インディア・エアラインスは「エア・サハーラー」に改名された後にジェット・エアウェイズに吸収され、「ジェットライト」になったが、そのジェット・エアウェイズもジェットライト共々2019年に運航停止となった。よって、最近インドに関わり始めた人々は、これらの航空会社の名前を聞いたことがないかもしれない。それでも、2000年代、雨後の筍のように新規の航空会社が設立され、インドの空がカラフルに賑わっていた頃を知っている者には懐かしい名前の数々だ。
2020年11月12日からAmazon Prime Videoで配信開始されたタミル語映画「Soorarai Pottru(勇者に敬礼)」は、エア・デカンの設立者ゴーピーナート大尉の人生を緩やかにモデルにした伝記的映画だ。「伝記的」と書いたのは、事実の忠実な叙述を求めていないからだ。主人公の名前も異なるし、航空会社の名前も「デカン・エア」に変更されている。さらに、エア・デカンが設立されたのはカルナータカ州の州都バンガロールだったが、デカン・エアはタミル・ナードゥ州の州都チェンナイに設立されたことになっていた。このように、適度に脚色を加えながら、ゴーピーナート大尉の偉業を讃える内容になっている。
監督はスダー・コンガラー。主演はスーリヤー。他に、アパルナー・バーラムラリ、パレーシュ・ラーワル、モーハン・バーブー、ウルヴァシー、カルナス、プー・ラームー、クリシュナクマール、ヴィヴェーク・プラサンナ、カーリー・ヴェンカト、プラカーシュ・ベーラーワーディーなどが出演している。
時は1997年。ネードゥマーラン・ラージャンガム、通称マーラ(スーリヤー)は、高額な航空券のせいで父親の死に目に会えなかった苦い経験から、インド空軍を退役し、誰でも利用できる格安航空会社の設立に燃えていた。だが、どの銀行も彼の事業に融資してくれず、彼の夢は頓挫していた。そんなときにマーラはスンダリー(アパルナー・バーラムラリ)とお見合いする。スンダリーはクッキー会社を起業しようとしていた。このときスンダリーはマーラとの結婚を拒否するが、3年後に再会したときには彼と結婚する。
マーラは、民間航空会社の雄ジャズ・エアラインスのパレーシュ・ゴースワーミー(パレーシュ・ラーワル)から格安航空会社設立の案を一蹴されるものの、投資家のプラカーシュ・バーブー(プラカーシュ・ベーラーワーディー)に気に入られ、融資を受ける。マーラは中古の航空機をリースし、空軍を退役したパイロットを集め、何とか夢の「デカン・エア」を立ち上げる。ところがパレーシュから度重なる妨害を受け、プラカーシュにも裏切られてしまう。彼のデカン・エアは頓挫してしまう。
失望したマーラであったが、小型航空機を使って運航することを思いつき、故郷の村人たちから少額融資を受けて、再起する。また、ITに強い友人の助けを借り、旅行代理店を通さずインターネットで予約ができるシステムを整えた。しかし、依然としてパレーシュの妨害は続いた。最初の航空機の着陸が妨害され、空軍の滑走路に不時着せざるをえなくなったし、大臣を乗せての処女飛行では、パレーシュに買収されたパイロットの仕業でエンジンに火が付き、離陸できずに終わる。デカン・エアの安全性が世間の話題になるが、改心したパイロットが自分のミスだと認めたため、デカン・エア自体に責任が及ぶのは避けられた。
商業飛行の初日、チェンナイ発の便には予約サイトの不具合で一人も乗客がいなかったが、チェンナイ着の便は満席だった。しかも、初めて飛行機に乗る乗客ばかりだった。マーラはデカン・エアを成功させ、全ての人に飛行機をアクセス可能とした。
全く異なるプロットではあるが、空に執念ともいうべき情熱を掛ける姿は、「トップガン」(1986年)と共通するロマンを感じた。劇中、主人公マーラがバイクに乗って飛行機と併走するシーンがある。これは完全に「トップガン」を意識しているだろう。また、既得権益に抗うために庶民を味方につけ応援を受ける筋書きは、リライアンス・グループ創業者の伝記的映画「Guru」(2007年)と共通していた。ディールーバーイー・アンバーニーが株の民主化をしたとすれば、ゴーピーナート大尉は飛行機の旅を民主化を実現した。その裏には、誰でも空路で移動できるような社会を実現したいという彼の強い信念があったのである。
「Soorarai Pottru」は単なる起業家のサクセスストーリーではない。むしろ彼を支えた家族との絆に焦点が置かれており、この映画を観ていてホロリとしてしまうのもその部分だ。なぜマーラがインド陸軍を辞めてまでそんなに格安航空会社を設立したかったのか、映画の中盤になってようやく明かされる。それは、彼が父親の死に目に会えなかったというトラウマを抱えていたからであった。
マーラと父親の仲は決して良くなかった。教師をしていた父親は法治主義と非暴力主義の信奉者であり、目的を達成するためには暴力も厭わなかったマーラとは対立していた。だが、マーラの挑戦を誰よりも応援していたのも父親だった。父親が危篤状態になったとき、マーラは遠く離れた空軍基地におり、飛行機で実家に帰ろうとしたが、エコノミークラスが満席でファーストクラスしか空いておらず、チケットを買えなかった。彼は何とか陸路で故郷まで戻るが、そのときまでに既に葬儀も終わってしまっていた。このトラウマから彼は庶民にも手が届く飛行機移動の実現に向けて動き出したのだった。マーラは死んだ父親に認めてもらうために格安航空会社の設立に躍起になっていたともいえる。デカン・エアの最初の商業フライトを成功させたとき、最初の乗客として乗り込んだ母親は、父親の遺影を抱えていた。彼にとってもっとも嬉しい瞬間だっただろう。
また、マーラは妻のスンダリーとモダンな夫婦関係を結んでいた。スンダリーは決して昔ながらの内助の妻ではなかった。彼女自身、前面に立ってベーカリーショップを経営しており、マーラが航空会社を立ち上げた後は、ビジネスパートナーにもなった。そして、お互いの事業がシナジー効果を生む。それでいて、マーラの事業が軌道に乗らなかったときには惜しみなく財政支援もしていた。インドではビジネスは家族でするものだという観念が強いが、夫婦が独自に別々の事業を経営し、ビジネスパートナーとして助け合うという姿は現在から見ても新しい。
マーラの前にインドの空を牛耳っていた民間航空会社がジャズ・エアラインスだった。おそらくこれはジェット・エアウェイズとサハーラー・インディア・エアラインスを併せた会社名で、パレーシュ・ラーワル演じるパレーシュ社長のキャラは新興財閥サハーラー・インディア・グループのスブラタ・ロイ会長を思わせる。パレーシュ社長は、格安航空会社というアイデアそのものに反対で、飛行機での移動は富裕層の特権だと決め付けていた。そして、インド初の格安航空会社を立ち上げようとするマーラをあらゆる手段で妨害してきた。彼は政府とも太いパイプを持っており、マーラの事業にとって不利になる法改正をさせたり、認可を遅延させたりしていた。マーラは、このような既得権益とも戦わなくてはならなかった。
ちなみに、映画中にはビール会社オーナーのヴィマル・バライヤーという人物も登場するが、これは明らかにキングフィッシャー航空のヴィジャイ・マッリヤー社長をモデルにしている。ヴィマルはマーラにデカン・エアの買収を持ちかける。マーラは即答で断るものの、現実世界のエア・デカンはキングフィッシャー航空に吸収合併された。
主演スーリヤーはタミル語映画界で確立したスターであり、演技力にも定評がある。今回も素晴らしい好演だった。それにも増して印象に残ったのが、マーラの妻スンダリーを演じたアパルナー・バーラムラリだ。外見は決して典型的な美人ではないのだが、表情が豊かで身体表現にも優れている。敢えて美人系の女優を起用しなかったのは、監督が女性だからかもしれない。確かにスンダリーを必要以上に美人な女優が演じる必要性はない。マーラが彼女との結婚を即決したのも、彼女の起業家精神に惚れ込んだからだ。
「Soorarai Pottru」は、かつて存在したインド初の格安航空会社デカン・エアの創業者GRゴーピーナート大尉の伝記的映画である。起業サクセスストーリーの一面もあるのだが、それよりも家族関係を中心とした人間ドラマに重きが置かれている。そういう部分の作り込みが優れており、感動できる作品だ。もちろん、主演のスーリヤーや、ヒロイン役のアパルナー・バーラムラリの演技にも注目である。