Ee.Ma.Yau. (Malayalam)

3.5
Ee.Ma.Yau.
「Ee.Ma.Yau.」

 南インドのケーララ州で作られるマラヤーラム語映画は、低予算ながら良質の映画を送り出していることで知られてきた。近年は特に、ユニークな主題を斬新な手法で描いた「新世代映画」と呼ばれる映画が注目を集めており、リジョー・ジョーズ・ペッリセーリ監督はその旗手として知られている。日本でも彼の「Jallikattu」(2019年/邦題:ジャッリカットゥ 牛の怒り)が公開された。

 今回取り上げる「Ee.Ma.Yau.」は、2018年5月4日に公開されたペッリセーリ監督の作品である。「Angamaly Diaries」(2017年)の後だが、「Jallikattu」よりも前の作品になる。日本のAmazon Prime Videoにおいて、「イエス様 マリア様 ヨセフ様」という邦題と共に日本語字幕付きで配信されていたため、鑑賞した。題名の「Ee.Ma.Yau.」は、マラヤーラム語の「Eesho Mariam Yauseppu」の略で、邦題通りの意味になる。

 キャストは、カイナカリ・カンカラージ、チェンバン・ヴィノード・ジョーズ、ヴィナーヤカン、パウリ・ヴァルサン、ディリーシュ・ポータン、アーリヤー・サリーム、クリシュナーPなどである。

 舞台はケーララ州エルナークラムのチェッラーナム村。ヴァーヴァチャン(カイナカリ・カンカラージ)はカモを手土産にして久しぶりに家に戻ってきた。家で息子のイーシ(チェンバン・ヴィノード・ジョーズ)と酒を飲み交わし、酔っ払って役者ごっこを始めたが、突然倒れ、床に頭を打って死んでしまった。

 帰宅前にバス停でヴァーヴァチャンはチョウローという村人と口論になり彼を殴っていた。喧嘩の原因は、チョウローが彼の娘ニサ(クリシュナーP)の悪口を言ったからだった。ニサには親に内緒で付き合っていた恋人がおり、それを指摘されたのだった。

 村人たちの間では、ヴァーヴァチャンは自然死ではなく殺されたという噂が流れるようになる。頭から血を流して死んでいたこともその噂に拍車を掛けた。推理小説好きの神父(ディリーシュ・ポータン)は殺人説を信じてしまい、警察に連絡する。

 翌朝、大雨の中、ヴァーヴァチャンの葬儀が行われようとするが、そこへヴァーヴァチャンの愛人とその息子が駆けつけてきて、ヴァーヴァチャンは殺されたとわめいて、遺体の所有権を主張し始める。その混乱の中、神父がやって来て、警察の検死が終わるまで葬儀はできないと主張する。イーシは神父と口論になり、彼を殴ってしまう。怒った神父は、教会の墓地にヴァーヴァチャンの遺体を埋葬させないと宣言する。ヴァーヴァチャンの親友で村落議員のアイヤッパン(ヴィナーヤカン)は必死に神父を取りなそうとするが失敗する。

 そうこうしている内に、墓地でヴァーヴァチャンのための墓穴を掘っていた墓掘り男が突然死する。神父は代わりに墓掘り男をその墓穴に埋める。

 ケーララ州はキリスト教徒の人口が多い土地で、リジョー・ジョーズ・ペッリセーリ監督自身もキリスト教徒であり、彼の作る映画はキリスト教的な価値観に基づくことが多い。「Ee.Ma.Yau.」の主人公もキリスト教徒であり、父親のヴァーヴァチャンが死ぬと、キリスト教の方式にのっとって葬儀が行われる。しかし、一筋縄にはいかない。

 まず、ヴァーヴァチャンが死ぬ直前に息子のイーシは、父親のために盛大な葬儀を挙げると約束していた。イーシは父親の葬儀のために、高級な棺、バンド、銀の十字架、18人の従者など、身の丈に合わないものを揃えようとする。

 その一方で、村人の間では、ヴァーヴァチャンは自然死ではなく他殺であるという噂が流れ始める。その噂を流し始めたのは、ヴァーヴァチャンやイーシに多少の恨みのある人物だったが、彼らは面白半分でいい加減なことを口走っていただけだった。それが次第に広まってしまい、葬儀を取り仕切る神父までがそれを信じてしまう。さらに、ヴァーヴァチャンの愛人とその息子が葬儀に現れ、ヴァーヴァチャンは殺されたと言い出したために収拾が付かなくなる。

 ペッリセーリ作品に特徴的な長回しがこの作品でも随所に見られ、まるで我々も現場にいるような臨場感がある。常に誰かがどこかで自分勝手なことを喧嘩腰の怒鳴り気味でしゃべり散らしている様子は、ついインドの日常を思い出してしまう。トラブルが雪だるま式に拡大していく様子をハラハラしながらも野次馬的な視点で観察する楽しみがある映画だ。

 ペッリセーリ監督が作品全体を通して何を観客に伝えたかったのか。はっきりした特定のメッセージはなく、観客に解釈は委ねられている。ひとつの解釈として考えられるのは因果応報だ。行動には必ず結果が伴う。ヴァーヴァチャンは盛大な葬儀を望んでおり、息子はその実現に奔走するが、彼が生前に行った行為の数々がそれを阻む結果になった。彼は家族をほったらかしにしていたため、娘が恋人といちゃつき、村人たちから顰蹙を買うことになったし、それを指摘されたことで彼は喧嘩をし、それが原因でありもしない噂を流されることになった。さらに、違う場所に内緒で別の家族を養っていたことで、葬儀は恥をさらす場と化してしまう。

 ただ、いろいろなゴタゴタがあったにもかかわらず、エンディングは静かなものだった。この映画の中で死んだ2人の人物、ヴァーヴァチャンと墓掘り男が、それぞれカモと犬を抱え、あの世へ舟で渡ろうとしているようなシーンで映画は幕を閉じる。ペッリセーリ作品には必ず動物が登場するのも特徴だ。この「Ee.Ma.Yau.」では、「Jallikattu」ほど動物がストーリーの中心にあったわけではないが、特にカモが何度か台詞の中で引き合いに出されていた。そこにも深い意味があるのだろうか。

 「Ee.Ma.Yau.」は、マラヤーラム語新世代映画の旗手リジョー・ジョーズ・ペッリセーリ監督が「Jallikattu」以前に撮った映画である。彼の作風はこの時点で既に完成されており、村の日常にあるドラマを長回しを多用した斬新な手法で映し出している。ただし、解釈は難しい映画だ。