Machines

3.5
Machines
「Machines」

 18世紀の産業革命以来、工場は工業化社会の原動力であり、従来は農業くらいしか仕事に就けなかった人々に新たな食い扶持をもたらした。しかし、規則正しく動く機械はそこで働く労働者にも機械であることを求め、人間性が奪い去られることになる。映画は、工業化社会の賜物といえる技術かもしれないが、チャーリー・チャップリンの「モダン・タイムス」(1936年)のように、批判的な眼差しが向けられることもあった。

 「Machines」は、繊維工場で働く労働者たちを映し出したヒンディー語のドキュメンタリー映画である。2016年11月17日にアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭でプレミア上映され、日本でも2017年10月7日に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された後、2018年7月21日に劇場一般公開された。邦題は「人間機械」である。

 監督は新人のラーフル・ジャイン。劇中ではカメラの裏にいる監督の存在は極力消されており、繊維工場から切り取られた光景がじっと映し出される。序盤はとにかく機械が発する音のみが響き渡り、台詞が全くない。この工場が何を作っているのかも全く説明がなく、観客はしばらく放置される。

 中盤になると労働者の語りが入るようになる。それでようやくこの映画が言わんとすることが少しずつ明らかになっていく。舞台はグジャラート州だが、この工場で働いている労働者の多くはウッタル・プラデーシュ州やビハール州などのヒンディー語圏から出稼ぎに来ているようで、彼らの話す言葉はヒンディー語である。

 コントラストが強めの映像は、繊維工場で働く労働者たちの肉体を美しく映し出す。だが、彼らが安月給にもかかわらず1日12時間労働を強いられていること、労働組合を作ることもできないほど抑圧されていること、しかし故郷に戻っても仕事がないため、自ら進んでこの劣悪な環境で仕事をしていることなどが分かってくる。

 労働者の搾取をしているとして工場の経営者を責めるのはたやすいが、この映画は決して資本家の糾弾や労働者の救済を目的としているわけではない。もっと広く問題を捉えている。元々故郷で農民をしていた彼らが、こんな遠くの工場まで来て出稼ぎ労働をしなければならないのには、さらに深い問題が関わっている。彼らは奴隷ではないので、工場での労働を辞めたくなったらいつでも辞められる。だが、彼らはそこで働かざるを得ない。なぜなら干魃で不作となり、家族を養っていくことができないからだ。出稼ぎ労働を望む者はいくらでもいるので、経営者側も労働条件の改善などをする必要に迫られない。もし奴隷のように搾取されているのならば解決は簡単かもしれないが、奴隷のような条件でも自ら進んで出稼ぎにやって来る貧者の数が多すぎることが根本的な問題なのである。

 また、出稼ぎ労働者はいくらでもいるとはいっても、グジャラート州の工場は、それら貧困州からの出稼ぎ労働者がいなければ稼働できないほど彼らの労働力に依存しており、過信は禁物でもある。言わば、貧困が原動力となってインド社会が回っているのであり、インドから貧困がなくなったら、今の社会は維持できなくなる可能性もある。よって、ますます資本家は貧者を肥えさせない方が得になる。経営者へのインタビュー映像もあったが、貧しい人々は金を与えてもすぐに酒や煙草に使ってしまうと一方的に決め付けていた。

 終盤では、工場の労働者たちが監督に「こんな映像を撮って何をしてくれるのだ」と詰め寄るシーンもあった。ここでも監督は無言である。だが、その言葉は、劣悪な環境で働く工場労働者たちの映像を期待してこの映画を観た我々にも向けられる。こんな映画を観て何をしてくれるのか、と。

 「Machines」は、映像の力を極限まで使って、観る者の心に突き刺さるような問いを投げ掛けてくるパワフルなドキュメンタリー映画である。