Valley of Saints (Kashmiri)

3.5
Valley of Saints
「Valley of Saints」

 「Valley of Saints」は、2012年1月23日にサンダンス映画祭で上映された印米合作のカシュミーリー語映画である。米国で育ったカシュミール人ムーサー・サイードが監督をしており、治安部隊によるフェイク・エンカウンターによって動乱が引き起こされた2010年前後のシュリーナガルで撮影されている。サンダンス映画祭ではアルフレッド・P・スローン賞を受賞している。

 動画配信サービスGYAO!で「聖者の谷」という邦題と共に、日本語字幕付きで期間限定無料で配信されており、2022年10月11日に鑑賞することができた。元々は2013年のアジアフォーカス・福岡国際映画祭で上映されたもののようである。

 「Valley of Saints」のキャストの多くは地元のカシュミール人である。シュリーナガルのダル湖で「シカラー」と呼ばれるボートを漕ぐ「シカラーワーラー」が主人公の映画だが、実際にシカラーワーラーをしている地元のカシュミール人も起用されている。メインキャストは、グルザール・バット、ニーローファル・ハミード、ムハンマド・アフザルである。

 舞台は2010年のシュリーナガル。父を亡くし、叔父と共に住むシカラーワーラーのグルザール(グルザール・バット)は、親戚の結婚式に出掛ける叔父を見送る。彼は、カシュミールの未来を悲観しており、親友のアフザル(ムハンマド・アフザル)と共にデリーやムンバイーに逃げ出そうとしていた。ところが暴動が起きて戒厳令が敷かれ、交通機関がストップしてしまったために、彼らは足止めされることになる。

 グルザールとアフザルは、ハウスボートに取り残された女性アースィファー(ニーローファル・ハミード)の世話をすることになる。アースィファーはソーポール出身のカシュミール人だが、米国留学しており、現在はダル湖の水質調査のために滞在していた。戒厳令が敷かれていてもダル湖上では特に影響がなかったため、彼女はグルザールをお供に水質調査に出掛けるようになる。当初、アースィファーに言い寄っていたアフザルだったが、冷たくあしらわれたためにやる気をなくす。だが、グルザールは献身的にアースィファーを助け、彼女に恋心を抱くようになる。一方、アフザルは暴動に巻き込まれて警察に逮捕されてしまう。

 ラマダーンの到来を機に戒厳令が解除されることになった。気付くとハウスボートにアースィファーの姿はなかった。グルザールは警察署を訪れ、賄賂を払ってアフザルを解放する。グルザールはアフザルはそのままデリー行きのバスに乗り込むが、グルザールは考えを変え、途中でバスを下りる。そして、シュリーナガルに戻ってきた叔父を迎える。

 インド亜大陸最北部に位置するカシュミール地方は「地上の楽園」と呼ばれており、特にその中心都市となるシュリーナガルの美しさは誰もが認めるところである。その美しさ故に、印パ間の紛争の火種にもなっており、カシュミール地方では長年騒乱が続いてきた。それらは一般にカシュミール問題と呼ばれる。

 「Valley of Saints」でもその騒乱が描かれている。何しろ、2010年の騒乱真っ只中に撮影された作品であり、おそらく劇中で映し出される映像のいくつかは、実際の暴動の様子を捉えたものではないかと思われる。カシュミール地方では断続的に治安部隊と住民の間で衝突が繰り返されてきたが、2010年の騒乱は、治安部隊がパーキスターン領から侵入したテロリストだとして3人の一般市民を射殺したことに端を発する。しかしながら、騒乱はこの映画の中心議題ではない。

 また、カシュミール地方やシュリーナガルの美しさを映し出した映画でもなかった。カメラは非常に正直な視線でシュリーナガルを見つめる。登場人物の一人アースィファーは、シュリーナガルの象徴であるダル湖の水質調査にやって来ていた。主人公のグルザールはアースィファーの助手をしながら、シカラーを漕いでダル湖を案内する。そこには汚水やゴミで汚染されたダル湖の姿が赤裸々に描き出されていた。「地上の楽園」とは程遠い光景であった。

 グルザールと親友のアフザルは、抗議運動や分離独立運動に揺れるシュリーナガルにおいて、ほとんど政治には無関心であった。むしろ、戒厳令や外出禁止令によって目の前の生活が脅かされていることに関心があった。そして、彼らはカシュミール地方の未来に絶望しており、どうにかして外に出て一旗揚げようとしていたのであった。

 そんな中、グルザールはアースィファーと出会い、彼女との淡い恋愛の中で、考えを変える。グルザールは自宅を修繕し、アースィファーの助言に従って、家のトイレをコンポスト化する。それまで彼の家の便所では排泄物をそのまま湖に落としていたのだろう。彼のこの行動は、これからもシュリーナガルに根を張って生きていこうとするグルザールの決意の表れだといえる。

 一方、親友のアフザルは当初の計画通り、シュリーナガルを脱出してデリーへ向かう。果たしてこの二人の命運がどう分かれるのか。それについて映画は語ってくれない。おそらく、二人のその後は、カシュミールのその後とも密接に関係するだろう。

 題名の「Valley of Saints」とは、正確に訳せば「聖者たちの谷」になる。劇中では、カシュミール地方の由来として、聖仙カシヤパの逸話が語られていたが、一般的にカシュミール地方で「聖者」といえば、カシュミール渓谷にイスラーム教を広めたスーフィー聖者たち(参照)のことを指す。主人公のグルザールは、もはやカシュミール地方に聖者はいないと語っていた。序盤ではその意味は否定的に捉えられていたが、終盤では、完璧な世界はないと達観し、彼はシュリーナガルで生き続けることを決めるのである。

 「Valley of Saints」は、騒乱に揺れる2010年のシュリーナガルで撮影された、珍しいカシュミーリー語映画である。シュリーナガルに住む若者たちの正直な気持ちがよく表された映画といえるかもしれない。カシュミールを逃げ出してチャンスを掴もうとする者もいれば、シュリーナガルに留まり続け、この地の改善に尽くそうとする者もいる。そんな様子が淡々と描写されており、静かに揺れるダル湖の湖面のような作品に仕上がっていた。