Urdu Hai Jiska Naam

3.0

 国立イスラーム大学(ジャーミヤー・ミリヤー・イスラーミヤー)のMAアンサーリー・オーディトリアムで、「Urdu Hai Jiska Naam(その名はウルドゥー語)」という映画が上映されるという情報をキャッチした。ウルドゥー語の歴史を4部構成、2時間でまとめた映像作品とのことで、是非観たくなり、大学のあるオークラーまで行って来た。

 題名の「Urdu Hai Jiska Naam」は、19世紀の詩人ダーグ・デヘルヴィーの以下の詩から取られており、ウルドゥー語を題材にした映画としては順当なものである。


اردو ہے جس کا نام ہمیں جانتے ہیں داغ
سارے جہاں میں دھوم ہماری زباں کی ہے

Urdū hai jis ka nām hamīn jānte hain Dāg
sāre jahān men dhūm hamārī zabān ki hai

我らが知る言語、その名がウルドゥーなり、ダーグよ
この世の隅々まで響き渡れり、我らの言語


 監督はスバーシュ・カプール、プロデューサーはカームナー・プラサード、原案と脚本はソハイル・ハーシュミー。詩人のガウハル・ラザーがナレーションを務め、俳優のトム・アルターがプレゼンテイターとして登場する。言語は英語とウルドゥー語の2言語で制作されたようだが、今回上映されたのはウルドゥー語の方であった。映画自体は既に2003年に完成していたようだが、プレミア上映が行われたのは2007年、インディア・インターナショナル・センター(IIC)にて。今回、ジャーミヤー・ミリヤー・イスラーミヤーでの上映はおそらく2回目ということになる。だが、IICでの上映のときは映画に関わった人々が多忙のため揃っていなかったらしいので、プレミア上映としての雰囲気は今回の方が出ていた。会場には、カームナー・プラサード、ソハイル・ハーシュミー、ガウハル・ラザー、トム・アルターなどが来ていた。

 「Urdu Hai Jiska Naam」は、NHKのドキュメンタリー番組のような作りで、ブッダの時代から遡って、ウルドゥー語がどのように生まれ、どのように発展して来たかが、映像と共に解説されていた。ただ、語られる内容は、教科書に載っているような、いかにも定説な事柄のみであり、新たな視点などはなかった。また、ヒンディー語とウルドゥー語の分化の問題、ウルドゥー語とパーキスターン建国の問題、独立後のインドにおけるウルドゥー語の問題など、ウルドゥー語の微妙な部分についてほとんど触れられていなかった。基本的に低予算の映画であるし、監督も映像には凝っていなかったので、見た目はとても安っぽくなってしまっていた。NHKのドキュメンタリー番組に比べると全くもって見劣りがしてしまう。それでも、言語の歴史について映画を作るという発想は斬新で、この流れは断ち切ってはならないと思った。ウルドゥー語入門者の教材としても有用だと感じた。

 ソハイル・ハーシュミーの話によると、この映画の一番の目的は、ウルドゥー語を外国語だとか、イスラーム教徒の言語だと考える人々に、ウルドゥー語の正しい歴史を教えることのようである。軍隊内や市場での共通語として、スーフィー聖者たちの説法の言語として、そして独立運動の原動力として、ウルドゥー語は生まれ、発展し、そしてインドに貢献して来たことが強調されており、その目的は果たされていると感じた。デリーやドーアーブ地方(ヤムナー河とガンガー河の間の地域)で生まれた言語が、いかにデカンで文学として成熟し、そしてデリーに逆輸入されて行ったかについても簡潔ながら的確に語られていた。詩だけでなく、小説、演劇、映画など、様々な分野においてウルドゥー語が重要な役割を担って来たことにも触れられており、著名な文学者の名前も列挙されていた。

 今回上映されたのはウルドゥー語版だが、かなり純粋なウルドゥー語が使用されていた。インド生まれの米国人俳優トム・アルターがプレゼンテイターを務めていたが、彼も非常に美しいウルドゥー語を話していた。トム・アルターは、米国人ながら舞台でマウラーナー・アーザードやミルザー・ガーリブの役を堂々と演じており、ウルドゥー語演劇界で一目置かれる「外国人」となっている。ただ、彼自身は自分のことをインド人だと考えているようだ。

 最後はやはり、ダーグ・デヘルヴィーの詩で閉められていた。会場にはウルドゥー語の学生が多いようで、この詩が詠まれるとかなり盛り上がっていた。


 ところで、ソハイル・ハーシュミーはインドにおけるウルドゥー語が直面する偏見についての危惧を表明していた。それと全く同じ論調の社説が、2008年8月3日付けのサンデー・トリビューン紙に掲載されていた。筆者はマールカンデーイ・カートジュー、題名は「Injustice to Urdu in India(インドのウルドゥー語に対する不当な仕打ち)」である。カートジュー氏はインド最高裁判所の裁判官で、カシュミーリー・パンディトというインドでもっとも血統の高いコミュニティーに属する人である(ジャワーハルラール・ネルー元首相もカシュミーリー・パンディトである)。カシュミーリー・パンディトは、ヒンドゥー教徒ながら伝統的にペルシア語やウルドゥー語を使いこなして来たコミュニティーのひとつで、ウルドゥー語について一家言を持っていもおかしくない。ついでなので以下に全文を翻訳して転載する。

 インドでは、ウルドゥー語に対して全くもって不当な仕打ちが行われて来ている。ミール、ガーリブ、フィラーク、ファイズなど、近現代インドにおける最高の詩人たちを生み出し、インド文化の輝ける宝石とも言うべきこの偉大な言語は、今日では無視されるか、そうでなければほとんど疑念の目でもって見られている。これ以上の愚かなことがあろうか?

 ウルドゥー語に対するこの不当な仕打ちの原因は、2つの誤った考えにあり、それらは故意に喧伝された。その2つとは以下のものである。(1)ウルドゥー語は外国語である。(2)ウルドゥー語はイスラーム教徒のみの言語である。

 前者は明らかに間違っている。アラビア語とペルシア語は疑いもなく外国語であるが、ウルドゥー語は完全に土着の言語である。ウルドゥー語はここインドで軍隊と市場の言語として生まれた。そしてその簡易形(カリー・ボーリーまたはヒンドゥスターニー語)が、インドの大部分の都市に住む庶民の言葉である。

 ウルドゥー語の著名な文学者は皆インドに住み、インドの庶民の問題を扱い、彼らの悲しみに同情し、人間の琴線に触れながら、我々の文化に多大な貢献をして来た。ウルドゥー語を外国語と呼べるのは無学な人のみである。

 ウルドゥー語がイスラーム教徒のみの言語であるという後者の考えも間違いである。インドでは実際のところ、前世代までウルドゥー語は、インドの大部分の都市において、ヒンドゥー教徒であれ、イスラーム教徒であれ、スィク教徒であれ、キリスト教徒であれ、全ての教養人の言語であった。

 私の考えでは、自国の文化遺産を見過ごすような国が発展することはない。そして私はここではっきりと明言するが、私はカシュミーリー・パンディトのみを私の祖先とは考えていない。カーリダーサも、アミール・クスローも、アショーカもアクバルも、スールもトゥルスィーも、ミールもガーリブも、私の祖先だと考えている。真の祖先は文化的な祖先であり、単なる血統上の祖先ではない。

 ウルドゥー語はインドの13州で話されており、国民的に支持されて来ている。ウルドゥー語は、ヒンドゥスターニー語(カリー・ボーリー)の基盤の上にペルシア語の特徴や語彙が重ねられて形成された言語である。よって、ウルドゥー語は、ペルシア語とヒンドゥスターニー語という2つの言語のコンビネーションによって創造された言語と言える。それゆえに、かつてこの言語は、「ハイブリッド」を意味する「レークター」という名称で呼ばれた。

 ウルドゥー語はペルシア語とヒンドゥスターニー語のコンビネーションによって生まれたため、ウルドゥー語はペルシア語の特殊形なのか、ヒンドゥスターニー語の特殊形なのか、という疑問が浮かぶ。その答えは、ヒンドゥスターニー語の特殊形であり、ペルシア語の特殊形ではない。

 私がそれを強調するのは、ウルドゥー語がペルシア語の特殊形だとすると、外国語ということになってしまうからである。カリー・ボーリー(ヒンドゥスターニー語)の特殊形だという事実を示すことで、それが土着の言語だということが明らかになる。

 カリー・ボーリーは、多くの作家や演説者によって使用される文学的ヒンディー語に比べ、簡易で、口語的なヒンディー語である。カリー・ボーリーは都市の言語である。

 カリー・ボーリーは、いわゆるヒンディー・ベルト(ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州、ラージャスターン州、マディヤ・プラデーシュ州、デリー、ハリヤーナー州、ヒマーチャル・プラデーシュ州など)の都市に住む一般庶民の第一言語であり、インドのみならずパーキスターンを含む、非ヒンディー・ベルトの大部分における第二言語である。

 数世紀に渡ってペルシア語はインドの宮廷語だった。なぜならペルシア語はペルシアにおいて、フィルダウスィー、ハーフィズ、サアディー、ルーミー、ウマル・ハイヤームなどの文学者たちの活躍により、文化と気品と教養の言語として高度に発展した言語であり、オリエンタル世界の大部分に広まっていたからである。

 ムガル皇帝は、ペルシア人ではなくトルコ人であった。彼らの母語はトルコ語であったが、ペルシア語はトルコ語よりも発展していたため、彼らは宮廷語としてペルシア語を採用した。

 よって、バーバルは自伝「トズケ・バーブリー」をトルコ語で書いたが、孫のアクバルはそれをペルシア語に翻訳し、「バーバルナーマ」と呼んだ。

 アクバルの伝記「アクバルナーマ」はアブル・ファズルによってペルシア語で書かれたし、息子のジャハーンギールの自伝「ジャハーンギールナーマ」も、その息子のシャージャハーンの伝記「シャージャハーンナーマ」も、ペルシア語で書かれた。

 ペルシア語は数世紀に渡ってインドの宮廷語であり、都市部の共通語、つまり前述のカリー・ボーリーに影響を与えた。

 では、どのようにウルドゥー語が創造されたのか?この興味深い質問に答える努力をしよう。

 後期のムガル朝皇帝は名ばかりの皇帝に過ぎなかった。彼らは、英国人やマラーター、それに独立した地方太守(アワドのナワーブやハイダラーバードのニザームなど)などに帝国の領土を奪われ、経済的に困窮していた。彼らの治世に、宮廷語は徐々にペルシア語からウルドゥー語になって行った。

 なぜ偉大なムガル皇帝たちの治世にペルシア語だった宮廷語が、後期のムガル皇帝の治世にウルドゥー語になったのか?なぜなら後期のムガル皇帝は本当の意味での皇帝ではなく、むしろ庶民と同じ困難に直面する庶民に近い存在または単なる貧乏人になってしまったからである。よって、彼らは庶民に近い言語に頼るしかなかった。

 では、なぜ宮廷語は、都市部の庶民の言語であるカリー・ボーリーにならなかったのか?なぜなら後期のムガル皇帝や、ナワーブやワズィールなどの貴族たちは、貧困に陥りながらも自らの威厳、文化、自尊心を維持していたからである。彼らは依然としてティームール(バーバルの遠い祖先)の子孫であることや、偉大なムガル皇帝たちの末裔であることに誇りを持っていた。

 ウルドゥー語の偉大な詩人ガーリブの有名な逸話がある。彼は、経済的に大いに困窮していながらも、職場で誰も迎えに来なかったという理由だけで、就職を断った。

 ウルドゥー語の内容、つまり、その中で表現される感情や考えは庶民のものであるが、表現の形式は貴族的である。言い換えれば、ウルドゥー語は庶民の困難、悲しみ、不安、希望、願望を表現するが、そのスタイルは庶民のものではなく、貴族のものである。

 例えば、ガーリブは詩の表現形式が凡庸になることを恐れていた。彼は自分を貴族と考えており、大衆との差別化を強く求めていた。よって、彼の詩は、オリジナリティーと自由さで際立っている。

 ガーリブは、詩の言語は口語と同じであってはならないという確固たる信念を持っていた。よって、彼はしばしば自身の考えを、直接的ではなく、暗示や示唆によって間接的に表現した。

 他のウルドゥー語詩人についても同じことが言える。彼らは、自分を凡人ではなく、教養人かつエリートであると見せるため、しばしば自身の考えや感情を、簡易で直接的な言語ではなく、直喩や隠喩などの比喩や、遠回しな言い方によって表現した。しかし、そのせいで彼らの作品は時々理解が困難であり(偉大なウルドゥー語文学批評家・伝記作家のハーリーは、ガーリブの詩の3分の1は難解すぎてウルドゥー語とは認められないとしている)、複数の意味に取れることもある。

 インドに強力なムガル皇帝が君臨していた間はペルシア語が宮廷語であり、ウルドゥー語は決して高い地位を得られず、北インドの宮廷語にはなれなかった。だが、その代わり南インドやグジャラートでは、ウルドゥー語はエリート語として保護された。

 そういう意味では、ウルドゥー語は南インドに起源を持つと言える。偉大なムガル皇帝の治世にウルドゥー語は、ゴールコンダ、ビージャープル、アハマドナガルなどの南インド諸王朝で宮廷語として奨励され、普及した。

 つまり、興味深いことに、ウルドゥー語は偉大なムガル皇帝の治世の間、南インドやグジャラートで宮廷語となったが、強力なムガル皇帝がいる間、北インドではペルシア語に取って代わることはできなかった。

 1707年にアウラングゼーブが死去し、後期ムガル皇帝の時代になって初めて、ペルシア語は徐々に宮廷語としての地位をウルドゥー語に譲るようになる。だが、その過程は不承不承としたものだった。ガーリブはペルシア語の詩作を好み、自身のウルドゥー語の詩を見下していたが(もっとも、ガーリブの偉大さは完全に後者に依っている)、これはその一例である。

 ガーリブは、友人のムンシー・シヴナーラーイン・アーラムに送った手紙の中で、「友よ、どうしてウルドゥー語で書くことができようか?私はそのようなことを期待されるほど落ちぶれてしまったのか?」と書いている。ウルドゥー語で書くことは自分の品格を下げる行為であり、当時の著名な作家は皆ペルシア語で著作していた。

 1947年まで、ウルドゥー語は宮廷語であり、インドの大部分の教養人の言語であった。同時に、その二重性のため、都市部ではカリー・ボーリーのように庶民の言語でもあった。

 ウルドゥー語は、インドの多くの都市における庶民の言語であったため、全ての言語から語彙を借用した。他の言語の語彙を拒否することはなかった。ウルドゥー語は庶民の言語であったため、庶民に愛され、今日でも愛され続けている。

 今日でもヒンディー語映画の歌はウルドゥー語である。多くの人々がそれを抑制しようとしているが、心の声は自分の言語によってのみ表現できる。

 駅の売店で売れ筋の本は、ガーリブ、ミール、ファイズ、ジョーシュ、フィラーク、ハーリー、ダーグ、マジャーズ、ザウクなどの作品であり(今日ではデーヴナーグリー文字で書かれている)、ヒンディー語の詩人の作品ではない。

 プレームチャンド、キシャン・チャンド、ラージンダル・スィン・ベーディー、ゴーピー・チャンド、マリク・ラームなど、ウルドゥー語のバックグラウンドを持つヒンディー語の作家は、ヒンディー語の文壇でも大いに受け入れられている。

 ウルドゥー語は、人々の間で育った言語であるため、インドの人々から愛されている。ウルドゥー語文学は反抗の文学である。庶民が抱える苦悩に対する反抗、不正に対する反抗の文学である。

 ウルドゥー語の詩は、儀式主義、形式主義、抑圧的または時代遅れの社会慣習に対して反抗して来た(その意味では、ウルドゥー語の詩はカビールの詩の後継者だと言える。もっとも、ウルドゥー語の詩の方がさらに洗練されているが)。

 現代インドにおける庶民の言語であるため、ウルドゥー語はほぼ完全にセキュラー(世俗主義的)である。例外は、イクバールの後期の詩である。彼は後期に、ナショナリズムから汎イスラーム主義に転向した。

 ウルドゥー語文学はスーフィーの影響も受けている。スーフィーはイスラーム教徒の中でもリベラル派で、偏屈ではなかった。彼らは普遍の愛のメッセージを、宗教やカーストなどの区別なく全人類に広めた。

 ウルドゥー語詩人の中には、ミールやナズィールのように、ホーリー、ディーワーリー、ラーキーや他のヒンドゥー教の祭祀習慣について美しい詩を書いた者もいる。それは、ウルドゥー語が特定の宗教の言語ではなかったことを示している。フィラーク、チャクバスト、ラタン・ラール・サルシャールなど、多くのヒンドゥー教徒がウルドゥー語文学界に名を残した。ワリーの詩には、ガンガー、ジャムナー、クリシュナ、ラーム、サラスワティー、スィーター、ラクシュミーなどの言葉が頻繁に登場する。

 ウルドゥー語は、1947年の印パ分離独立によって最大のダメージを受けた。そのとき以来、ウルドゥー語はインドにおいて、外国語として、そしてイスラーム教徒のみの言語としてレッテルを貼られるようになった。イスラーム教徒ですら、「愛国心」やヒンドゥー教徒の仲間との連帯感を示すため、ウルドゥー語の学習を放棄するほどまでになった。

 カリー・ボーリーで慣用されていたペルシア語の語彙を憎しみと共に取り除き、一般的ではないサンスクリット語の語彙に置き換える政策は、不必要にサンスクリット語化されたヒンディー語を生み出すことになった。そしてそれはしばしば庶民には理解できない難解な言語になった。インドの法廷の公示に使用されるヒンディー語は難しすぎて理解できないことが多い。また、ペルシア語の語彙を忌避する政策は、ほぼウルドゥー語の抹殺を意味した。

 しかしながら、これらの敵対的な努力にも関わらず、心の声を表現する言語は、人々が心を持つ限り根絶されることはない。ウルドゥー語が今日でもインド人の心に住んでいるという証拠に、驚くほど多くの人々がムシャーイラーに参加する。それらの人々は、社会のあらゆる階層に属しており、北から南まで、東から西まで、インドの全ての地域の出身者で形成されている。もしウルドゥー語が外国語であったら、インドの人々がウルドゥー語をここまで愛する理由は説明できない。

 ウルドゥー語がイスラーム教徒の言語であるという誤解と同様に、サンスクリット語がヒンドゥー教の言語であるという誤解についても言及しておきたい。

 実はサンスクリット語は無神論者の言語である。サンスクリット語哲学の守備範囲は、深遠なる宗教から完全なる無神論まで、驚くほど広い。

 偉大なヒンディー語作家ラーフル・サーンクリティヤーヤンはかつて、「サンスクリット語を学ぶまでは神を信じていたが、学んだ後は無神論者になった」と述べた。

 アーリヤバタ、スシュルタ、チャラクなど、古代インドの偉大な科学者は皆、サンスクリット語で著作した。哲学者、文法学者、劇作家、詩人なども同様である。

 ウルドゥー語を蘇らせようと願っている人々に私は真摯にアピールしたいが、どうかウルドゥー語を独歩させず、サンスクリット語とリンクさせて欲しい。そうすることで、ウルドゥー語はコミュナルな言語としてレッテル貼りされなくなるだろう。

 さらに、プラカーシュ・パンディトがやっているように、デーヴナーグリー文字でもウルドゥー語詩人の作品を出版すべきだと主張したい。なぜなら、それによってペルシア文字を知らない人も読むことができるようになるからだ。私は、文字に固執するべきでないと考えている。

 左のページにペルシア文字で、右のページにデーヴナーグリー文字で印刷し、難解な単語については簡易なヒンディー語(ヒンドゥスターニー語)で解説を添える形はどうだろうか?

 最後に、ウルドゥー語やヒンディー語の作家に、簡易な言語を使用するようにお願いしたい。ヒンディー語やウルドゥー語の作品を読んでいると、しばしば難しすぎて理解できないことがある。

 もし書かれたものが理解できないような代物なら、そのような文学が何の役に立とうか?今日、インドの人々は、貧困、失業、インフレなど、深刻な問題に直面している。

 文学は、人々がそれらの問題に立ち向かう後押しにならなければならない。そのためには、戦時中のウィンストン・チャーチルのスピーチや、プレームチャンドやシャラトチャンドラの作品のように、人々が理解できるようなシンプルな言語を使って書かれなければならない。

 日本ではまだヒンディー語のことをヒンドゥー語とかヒンズー語と呼ぶ人が多いので、そういう人たちにヒンディー語やウルドゥー語の成り立ちや、両言語の微妙な関係を理解してもらうのは大変なことなのだが、映画「Urdu Hai Jiska Naam」やカートジュー氏の論考でウルドゥー語のことがうまくまとめられていたので、ここでもう一度ウルドゥー語を中心に簡潔におさらいしておこうと思う。

 まず、ウルドゥー語はインドにとって外国語ではない、という点について。現在ウルドゥー語はパーキスターンの国語になっている。政府が積極的にウルドゥー語教育を推進しているおかげで、ウルドゥー語話者人口は全人口の75%以上になってるが、ウルドゥー語を母語(第一言語)とする人の数は全体の7~8%に過ぎない。よって、ウルドゥー語はパーキスターンの国語ではあるが、パーキスターンの言語ではない。むしろ、ウルドゥー語揺籃の地となったのは、現在インド共和国となっている地域である。ウルドゥー語の基盤となったのはデリーとその周辺の地域で話されていた言語であり、ウルドゥー語文学が最初に花開いたのはデカンであり、ウルドゥー語文学が最高潮に達したのはデリーやラクナウーである。また、ウルドゥー語は独立インドの州公用語(憲法第8附則言語)のひとつになっており、ジャンムー&カシュミール州で州の第一公用語に、デリー、ウッタル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州、ビハール州、アーンドラ・プラデーシュ州で第二公用語に規定されている。よって、ウルドゥー語を外国語と呼ぶのは完全なる間違いである。

 次に、ウルドゥー語はイスラーム教徒のみの言語ではない、という点について。これに関しては注意深く論を進めていく必要がある。デリーが本当の意味でインドの首都としての地位を確立したのがイスラーム教政権がデリーに樹立してからであるのと同様に、デリーの言語がインド亜大陸の共通語としての地位を確立し始めるのもイスラーム教政権樹立後のことになる。首都の言語が国家の標準語となるのは自然な現象である。デリーの王朝の軍隊が遠くまで派遣され、領土が拡大するにつれ、デリーの言語もインド亜大陸の隅々にまで浸透していった。また、軍隊だけでなく、スーフィー(イスラーム教神秘主義者)たちも活動の場を亜大陸中に広げて行った。彼らが説法の言語としたのはデリーの言語であり、スーフィズムの広がりにつれてデリーの言語も広がって行った。よって、デリーの言語の普及にイスラーム教徒たちが果たした役割は甚大である。当時デリーの王朝の公用語はペルシア語であり、デリーの言語にはペルシア語の語彙が大量に流れ込んだ。ペルシア語にはアラビア語からの借用語も多かったため、ペルシア語を通じて、デリーの言語にアラビア語の語彙も定着した。また、その言語はペルシア文字で書かれることが多かった。当時、インドでは、イスラーム教の言語はアラビア語、文化と教養の言語はペルシア語と考えられていた。ペルシアの文化は言うまでもなくイスラームの文化であった。それらの語彙を取り込んだ言語に、イスラーム文化の影響が色濃くなることは自然なことであった。よって、ウルドゥー語はイスラーム教と全く無関係だとは言えない。だが、イスラーム教徒のみの言語だとする考えは、やはり間違いである。

 ヒンディー語、ウルドゥー語、またはそれらに類する言語名は複数あって非常に複雑で、「Urdu Hai Jiska Naam」やカートジュー氏の論考でも多少の混乱が見られた。以下、「ウルドゥー語」についてのみ補足をしておきたい。

 ペルシア語の特徴や語彙を取り込んだデリーの言語がウルドゥー語と呼ばれるようになったのは、早くとも18世紀末、実際には19世紀に入ってからである。「ウルドゥー」とはトルコ語で「軍営」「テント」という意味である。ムガル人は元々定住性の薄い遊牧民であり、インドにムガル朝を興してからも、移動しながらのテント生活を好んでいた。彼らに「首都」という概念は希薄で、皇帝の滞在するテントがそのまま宮廷であり、首都であった。皇帝のテントが移動することで、大臣、軍隊、ハーレムから、彼らに物資を供給して生計を立てる商人まで、つまり皇族から庶民まで全てが移動した。その中で、デリーの言語をベースに、インドの様々な言語とペルシア語が混ざり合った言語が形成されて行った。もちろん、防衛拠点として城壁で囲まれた城塞はいくつも建設され、固定の宮殿も建てられたが、ムガル人にとってそれらの建築物は首都を意味しなかった。たとえ野原であれ、戦場であれ、皇帝のいる「ウルドゥー」が首都の中心であった。当然、城塞の中に皇帝がいれば、そこがそのまま「ウルドゥー」であった。宮廷で皇族や貴族によって話されていた言語は昔から「ウルドゥーの言語」と呼ばれていた。だが、ペルシア語が公用語であった時代は、「ウルドゥーの言語」はペルシア語を指すことが多かった。ムガル皇帝の権力が失墜し、ペルシア語をインドの公用語として押しつけることが不可能になり、帝国の領土がデリー界隈にまで限定されてしまった18世紀、「ウルドゥー」はそのままデリーを意味するようになり、やがてデリーの言語、特にラール・キラー内で話される言語がウルドゥー語と呼ばれるようになった。そして、広い意味では、「ウルドゥー」における軍隊や市場で発達し、インド中に広まった庶民の共通語もウルドゥー語の一種とされた。よって、18世紀以前の文脈でウルドゥー語という言葉を使うのは本当は間違っている。非常にややこしいのだが、ウルドゥー語という名称が一般化されるまで、「ウルドゥー」で話されていた庶民の共通語は「ヒンディー語」と呼ばれていた。

 実は先日、ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)で、「ヒンディー語の未来、未来のヒンディー語(हिन्दी का भविष्य – भविष्य की हिन्दी)」と題したセミナーが2日間に渡って開催された。そして今日は映画上映後の質疑応答時間に「現在インドのウルドゥー語が抱える問題」についてちょっとした議論が交わされた。ヒンディー語もウルドゥー語も、「これからどうなって行くのか?」ということに漠然とした不安を感じているようで、このような議論が行われると必ず、「ヒンディー語は世界最大の話者人口を持つ言語だ」、「ヒンディー語を一刻も早く国連の公用語にすべきだ」、「ウルドゥー語を愛する人々がいる限り、ウルドゥー語は安泰だ」、「政府はヒンディー語/ウルドゥー語の支援をもっと積極的に行わなければならない」みたいな意見が出て来て、最後は勇ましくも中身のないスローガンと共に終了する。

 ヒンディー語もウルドゥー語も、実際に直面している敵は共通している。それは英語である。この状況は、ヒンディー語とウルドゥー語の分化が始まった19世紀からほとんど変わっていない。しかし残念なことにヒンディー語とウルドゥー語が手を取り合うような状況は望めそうにない。ヒンディー語関係者がウルドゥー語を一方的に馬鹿にし、ウルドゥー語関係者がヒンディー語に冷笑を浴びせかけるところを何度も見て来ており、両者の間の溝は深刻なまでに深いと感じざるをえない。個人的に、インドにおいてヒンディー語は結局生き残って行くと思っているが、ウルドゥー語はどうなるか分からない。カートジュー氏の論考では、これらの言語の最大の特徴であるハイブリッド性について焦点が当てられていたが、言語の生存と発展の源はこのハイブリッド性にあると思う。ペルシア語が公用語だった時代、ウルドゥー語または後にウルドゥー語と呼ばれるようになった言語は、ペルシア語の語彙や文化を積極的に取り込んで自らの力を増した。1837年に英国東インド会社が公用語をペルシア語から英語に変更してからも、ウルドゥー語は英語の単語を積極的に血肉にしていた。ウルドゥー語は、過去の遺産に過ぎないサンスクリット語を語彙の源泉として人工的に作られたヒンディー語より、よっぽどダイナミックな言語であった。独立後もヒンディー語は同じ失敗を続けたため、連邦公用語としての地位は獲得したものの、本当の意味での公用語にはなりえなかった。

 だが、最近はヒンディー語の方がハイブリッド性を持っており、自由にいろいろな語彙を取り込んでいるように見える。政府の積極的な後援は相変わらず得られていないが、テレビやインターネットの普及、経済成長、教育の向上などが、ヒンディー語にいい影響を与えている。金が物を言う商業主義の時代において、インドではヒンディー語のみが金になることが明確になった。英語ではビジネスが成り立たないのである。例えば英語のTV番組にはスポンサーは付かない。ヒンディー語のTV番組のみが一人勝ち状態なのである。おかげで、いわゆるシュッド・ヒンディー(極度にサンスクリット語化されたヒンディー語)はヒンディー語の暗黒の歴史として葬り去られつつあり、代わって新しいヒンディー語が生まれつつある。ウルドゥー語がもしウルドゥー語としてのアイデンティティーに固執し、図書館や博物館に安住の地を求める古典語としての道を選ぶのなら今のままでいいが、もしこれからも生きた言語として発展を望むならば、ペルシア語やペルシア文字へのこだわりを捨てて、ヒンディー語に再び同化する道を模索すべきではないかと思う。

 カートジュー氏は、デーヴナーグリー文字とペルシア文字を併記して出版する方式を提案していた。それが果たしてどれだけ成功するか分からないが、コンピューターの技術が進んだ現代なら、デーヴナーグリー文字とペルシア文字、つまりヒンディー語とウルドゥー語を相互に変換(必要あらば翻訳)するソフトウェアぐらい簡単に開発できるのではないかと思う。そうなった場合、文字や語彙の相違はあまり意味を持たなくなり、ヒンディー語とウルドゥー語の問題も解決に向かいやすくなるのではなかろうか?


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