
「The Cloud Door」は、「Uski Roti」(1969年)などで知られるパラレル映画の旗手マニ・カウル監督が撮った28分ほどの短編映画である。ドイツとインドの合作であり、プロデューサーはドイツ人のレジナ・ツィーグラー。世界中の監督が30分ほどのエロティックな短編映画を撮る「Erotic Tales」というプロジェクトの一環で作られた作品のようである。ヒンディー語の題名は「बादल द्वार(雲の門)」になっているが、英語の題名の方で知られている。1994年9月28日、ニューヨーク映画祭でプレミア上映され、その後、1995年のカンヌ映画祭でも上映された。
メインキャストは、「Aashiqui」(1990年)のアヌ・アガルワールとムザッファル・アリーの息子ムラード・アリー。この映画を鑑賞した2025年2月16日の視点では、イルファーン・カーンが端役で出演している点が注目される。
カウル監督は、「The Cloud Door」を作るにあたり、3つの文学作品を参考にしたようだ。古代インドの戯曲家バーサの戯曲「アヴィマーラカ」、中世インドの詩人ジャーイスィーの叙事詩「パドマーワト」、そして作者不明の説話物語「鸚鵡七十話」である。確かに「The Cloud Door」のストーリーはお伽話のようである。ちなみに「パドマーワト」は「Padmaavat」(2018年/邦題:パドマーワト 女神の誕生)の原作である。
クランギー姫(アヌ・アガルワール)が飼っていた口達者なオウム、ヒーラーマンは逃げ出し、宮殿から空高く飛び立つ。だが、後にオウム屋(イルファーン・カーン)に捕まってしまう。オウム屋が川辺で居眠りをしているとき、ヒーラーマンはそばでラトナセーン(ムラード・アリー)に呼びかけ、鳥かごを開けるように言う。その見返りとしてヒーラーマンはクランギー姫の部屋へ通じる秘密の通路を教えた。ラトナセーンはヒーラーマンに導かれるまま宮殿に忍び入り、クランギー姫と出会う。二人は情事を繰り広げる。翌朝、ラトナセーンは透明人間になっていた。
ストーリーに論理性は希薄で、なぜそうなるのかの説明はほとんどない。セリフも高度に詩的であり、はっきりと意味を受け止めにくい。なぜヒーラーマンはラトナセーンの名前を知っていたのか、なぜクランギー姫は見ず知らずのラトナセーンを恋人として受け入れたのか、なぜラトナセーンは透明人間になってしまうのか、全く分からない。この種の映画を観る際は、シーンとシーンの展開をそのまま素直に受け止め、これはそういうものだと思うしかない。
ロケはラージャスターン州のニームラーナーやサーモードで行われたようだ。どちらも訪れたことがあるので、映像に映し出された瞬間に特定できた。ただ、予算が少なかったためか、元々あるロケーションをほとんど飾り立てずに使っており、みすぼらしい印象を受けた。アヌ・アガルワールやムラード・アリーの演技も気が抜けているように感じた。
この映画が名を知られているのは、主演のアヌ・アガルワールをはじめ、女優たちのトップレス姿が堂々と映し出されているからだ。ひとつは宮殿内の貯水池で侍女らしき女性たちが水浴びをするシーン。水中カメラから彼女たちの裸体が赤裸々に映し出されている。もうひとつはクランギー姫とラトナセーンの情事である。アヌ自身の裸体が映し出され、乳首も露になっている。この映画は、そのまま1995年のムンバイー映画祭でも上映されたという。この頃は一気に性描写の検閲が緩んだように感じられる。その後、ミーラー・ナーイル監督の「Kama Sutra: A Tale of Love」(1996年/邦題:カーマ・スートラ 愛の教科書)やディーパー・メヘター監督の「Fire」(1996年)など、トップレス映像を含む映画が続いたからである。ただ、社会はまだ女性の乳首が露になるような性描写を受け入れられておらず、どちらも物議を醸した。「Kama Sutra」は検閲を通らず、「Fire」はヒンドゥー教過激派の抗議活動により上映中止となった。
「The Cloud Door」は、マニ・カウル監督が撮ったエロティックで神秘的な短編映画である。アヌ・アガルワールがトップレスになっていることが最大の話題だ。その話題性は認めるが、それ以外の点で特に見どころのある作品だとは思えなかった。