
1978年3月24日公開の「Satyam Shivam Sundaram」は、巨匠ラージ・カプール監督の晩年の傑作に数えられる作品である。外面的な美ではなく内面的な美を見る大切さが語られ、終盤はパニック映画さながらのスリリングな展開も待っているスケールの大きなロマンス映画だ。
音楽監督はラクシュミーカーント=ピャーレーラール。主演はラージ・カプール監督の弟シャシ・カプールとズィーナト・アマン。他に、カナイヤーラール、AKハンガル、パドミニー・コーラープレー、トゥン・トゥンなどが出演している。
題名の「Satyam Shivam Sundaram(सत्यं शिवं सुन्दरम्)」とはヒンドゥー教の教義と密接に結び付いたフレーズのひとつであり、「真と神と美は一体である」というような意味になる。「美とは何か」を問い掛ける映画の題名としてふさわしい。
2025年4月11日に鑑賞し、このレビューを書いている。
村の寺院で僧侶をするパンディト・シャームスンダル(カナイヤーラール)の娘ルーパー(ズィーナト・アマン)は不幸な女性だった。彼女の出産時に母親が死に、少女の頃に熱せられた油を浴びて右頬から首にかけて大きな火傷を負った。優れた歌声を持っていたが、彼女の醜い顔を見て誰も結婚しようとしなかった。
ある日、ダム技師のラージーヴ(シャシ・カプール)が村にやって来て住み始める。ラージーヴは毎朝聞こえてくる美しい歌声に興味を引かれ、その歌声の主ルーパーについて想像を膨らませる。ルーパーもラージーヴを一目見て恋に落ちるが、醜い顔を見られたらきっと嫌われると考え、思い止まる。だが、恋心を抑えきれず、彼女は顔の右側を隠しながらラージーヴと会うようになり、愛を育むようになる。
ラージーヴはカナイヤーラールの家へ行き、ルーパーと結婚したいと言い出す。娘の結婚を諦めていたカナイヤーラールは大喜びするが、それを聞いてルーパーは驚愕する。きっと自分の顔を見られたらラージーヴに嫌われてしまうに違いない。ルーパーは必死に破談を懇願するが、カナイヤーラールは結婚式を急ぐ。結婚式の日、ルーパーの顔を見たラージーヴは別人と結婚してしまったと勘違いする。挙式してしまったため、ルーパーを妻として受け入れたものの、本当のルーパーを探し求めるようになる。
そこでルーパーは夕方に変装してラージーヴと会うようになる。ルーパーは決して顔を見せようとしなかったが、ラージーヴは彼女を本物のルーパーだと思い込んだ。妻としてのルーパーはラージーヴに触れてももらえなかったが、恋人としてのルーパーはラージーヴと身体を重ねる。
やがてルーパーは妊娠してしまう。そのときラージーヴは所用のため街へ出掛けてしまい、ルーパーは妊娠のことを打ち明けられなかった。帰ってきたラージーヴはルーパーの妊娠を知り、彼女が間男との間に子供を作ったと考え、家から追い出す。ルーパーは、別のルーパーはおらず、ラージーヴが夕方に会っていたルーパーは自分だと言い張るが、ラージーヴは認めようとしない。カナイヤーラールはショックのあまり倒れて死んでしまう。
最愛の父親を失ったルーパーはラージーヴを恨むようになり、彼に呪いをかける。その直後、村には大嵐がやって来て、川を増水させる。水量がダムの許容量を超えようとしていた。ラージーヴは下流にある村の住民たちを避難させ、ダムを放水する。ルーパーは叔父のバーンスィー(AKハンガル)と共に脱出しようとするが、放水して増水した川に呑み込まれる。このときまでにラージーヴは彼女こそが自分の愛したルーパーだと気付き、彼女を助け出す。やがて雨も収まり、川の水量も減った。ラージーヴとルーパーは助かり、寺院の前で愛を誓い合う。
終盤、大嵐によって川が増水し、ダムの決壊や放水によって村人たちが川に呑み込まれるシーンは圧巻である。もちろん、現代の視点から見たら技術的に稚拙な点はあるが、当時としては迫力の映像だったに違いない。その他にも多重露出などのテクニックを使って映像に幻想性を持たせようと工夫していたりしている。
だが、どうしてもまず印象に残ってしまうのが、ズィーナト・アマンの妖艶な肢体である。彼女の演じるルーパーは村の娘ということで、裸体の上に直接サーリーを巻くという昔ながらの着付けをしている場面が多く、彼女の肩、腕、腹などが露出し、官能的である。それに加えて必要以上に彼女が肌を見せる。着替えのシーンにおいて背中のヌードを披露していたし、白いサーリーを着て滝で水浴びをする彼女の胸にはうっすらと乳首が透けていた。さらに、シャシ・カプールとのキスシーンもある。これは、独立後のインドで作られた映画で初めてスクリーン上に映し出された本格的なキスシーンのひとつとされている。暗闇の中ではあるが、シャシとズィーナトのラブシーンもあり、インド映画の限界にとことん挑戦している。当然のことながら検閲機関である中央映画検定局(CBFC)と激しく対立したが、ラージ・カプール監督は裸体表現を芸術だと言い張って、かなりのシーンを守り抜いたとされている。
物語の本質は、外面的な美よりも内面的な美を認識することにある。外面的な美はないが内面的な美を持つ存在の象徴が、ズィーナトの演じるルーパーである。ただ、ズィーナトはミス・インディア出身女優の先駆けであり、元祖セックス・シンボルでもある。彼女の容姿の美しさは世間で認められたものだ。その彼女が醜い女性を演じるというのはさすがに無理がある。一説によると、ラージ・カプール監督はラター・マンゲーシュカルをルーパー役に起用しようとしていたらしい。ラターはインドを代表するプレイバックシンガーであるが、美女とはされていない。だが、それは叶わず、多くの女優に断られた後、ズィーナトに白羽の矢が立てられた。顔に火傷を負って醜くなったことになっていたが、これは絶世の美女ズィーナトを起用してしまったために後から加えられた苦肉の設定だと思われる。それでも、カメラは男性的な視点を帯同しながらズィーナトの肢体をなめ回す。これは外面的な美の堪能ともいえ、映画のテーマと激しく矛盾することになる。
さて、シャシ演じるラージーヴは美しい歌声に惹かれてルーパーを見初める。このような美しい歌声の主はきっと美しい女性であるに違いないという勝手な思い込みから始まった恋であった。そして彼はルーパーの顔をまともに見ないまま結婚を決めてしまう。結婚式でも花嫁は「グーンガト」と呼ばれるヴェールで顔を覆っているため、やはり顔は見えない。結婚式が終わった後、彼は初めてルーパーの顔を見て、その右頬から首までに焼き付いている火傷の跡を見てショックを受ける。また、ラージーヴは醜いものが嫌いという設定にもなっていた。
ルーパーに対するラージーヴの拒絶反応は不快を催すほどだ。最後にはラージーヴはルーパーを受け入れるだろうと分かっていても、何の落ち度もないルーパーを徹底的に遠ざける彼の態度は誰からも同情されないだろう。そもそも彼の勝手な思い込みから始まった関係であったし、彼女の顔がどんなものであっても愛すると言ったのも彼だ。それなのに、いざ彼女の顔を見たら態度を豹変させ、必死に弁明しようとするルーパーの話に耳を貸そうともしない。ここまでにルーパーの不幸な身の上がまざまざと語られるため、観客の同情は完全にルーパーにある。そのルーパーをここまで容赦なく拒絶するラージーヴは主人公ながらむしろ悪役に見えてしまう。
ラージーヴの拒絶はルーパーの老いた父親の死を招いた。一転してルーパーはラージーヴを親の仇として恨み出す。この辺りはホラー映画的である。ただ、彼女が発した呪いの言葉は直接ラージーヴ本人に向かうことはなく、代わりに村に大嵐を呼び、川の増水をもたらす。ここからはパニック映画に移行する。
歌声をきっかけに始まったロマンスであるため、ルーパーはよく歌う。その歌が彼女のアイデンティティーとなり、ラージーヴの覚醒にもつながった。そのため、歌に満ちた映画であった。大半の歌を歌っているのはラター・マンゲーシュカルである。名曲ぞろいといっていい。歌と踊りはインド映画の最大の特徴だが、それをいかにストーリーに溶け込ませるかは監督の腕の見せ所だ。ラージ・カプール監督はそれをよく心得ており、しっかりストーリーと歌が相乗効果を生むように仕掛けられている。
「Satyam Shivam Sundaram」は、内面の美が外面の美に勝利するという哲学的なロマンス映画である。主人公ラージーヴがあまりに身勝手なので付いて行けない部分もあるのだが、監督の主張はよく分かった。むしろヒロインのズィーナトの妖艶な肢体の方が強く印象に残ってしまう。興行的には成功した映画だが、決してバランスはよくない。それでも、ラージ・カプール監督の晩年の作品として注目せざるをえない作品だ。