
1959年1月2日公開の「Kaagaz Ke Phool(紙の花)」は、巨匠グル・ダット全盛期の作品のひとつである。「Pyaasa」(1957年)を大ヒットさせたダット監督は勢いに乗って女優ワヒーダー・レヘマーン、脚本家アブラール・アルヴィー、音楽監督SDブルマンなどのチームを再び率いて「Kaagaz Ke Phool」を送り出したが、今度は大失敗に終わった。この映画の失敗の後、失望したダット監督は二度とメガホンを取ることはなく、プロデューサーと俳優に専念することになる。ただし、後に再評価されカルト的な人気を博すようになり、今ではインド映画史に残る名作の一本に数えられている。
主演はグル・ダットとワヒーダー・レヘマーン。他に、ジョニー・ウォーカー、ヴィーナー、ベイビー・ナーズ、マヘーシュ・カウル、プラティマー・デーヴィー、ミーヌー・ムムターズ、ルビー・マイヤー、トゥン・トゥンなどが出演している。
前作で挿入歌の作詞をしたのはサーヒル・ルディヤーンヴィーだったが、本作ではカイフィー・アーズミーが作詞を担当している。
ボンベイの映画撮影所アジャンター・スタジオに一人の老人が忍び込んだ。その老人はかつてこのスタジオでいくつもの映画を撮った映画監督スレーシュ・スィナー(グル・ダット)であった。スィナーは過去を思い出す。
スレーシュはアジャンター・ピクチャーズ社の売れっ子映画監督だった。豪勢な邸宅に住み、社交界の花形だった。だが、妻ヴィーナー(ヴィーナー)とは別居状態にあった。ヴィーナーの父親ラーイ・バハードゥル・BPヴァルマー(マヘーシュ・カウル)とヴァルマー夫人(プラティーマー・デーヴィー)は映画を低俗だと考えており、ヴィーナーをスレーシュから引き離したのだった。スレーシュとヴィーナーの間にはプラミラー、通称パンミー(ベイビー・ナーズ)という娘がいた。パンミーはデヘラー・ドゥーンの寄宿制女子校に通っていたが、ヴィーナーは学校に娘をスレーシュと会わさないように厳命していた。映画監督として大成功を収めていたスレーシュであったが、彼の私生活は決して順風満帆ではなかった。
スレーシュはある嵐の夜、雨宿りした木の下でシャーンティ(ワヒーダー・レヘマーン)という女性と出会い、彼女に外套を貸す。シャーンティは外套を返すため、スレーシュを訪ねてボンベイにやって来る。孤児院で育ったシャーンティには身寄りがなく、職探しのためにボンベイに来ていた。スレーシュは新作「Devdas」の撮影に入っていたがヒロインが見つかっていなかった。スレーシュはシャーンティの素朴な美しさを見て、パーロー役に適任だと思い立つ。当初は映画出演を拒否していたシャーンティであったが、スレーシュの優しさに触れ、彼のために演技をすることを決める。スレーシュもシャーンティの気持ちに気付くが、自分が既婚者であることを思い出させ、それ以上関係が深まらないようにする。
だが、あるとき交通事故でスレーシュは大怪我を負う。シャーンティは献身的にスレーシュの看病をし、彼は回復するが、ゴシップ誌はスレーシュとシャーンティの熱愛を書き立てる。その記事を読んだパンミーは寮から脱走しボンベイにやって来てシャーンティと対峙する。シャーンティは、映画の撮影が終わったらスレーシュのもとを去ることを約束する。
シャーンティをヒロインに起用した「Devdas」は大ヒットし、シャーンティは一躍時の人になる。だが、パンミーとの約束があったため、シャーンティは女優業から足を洗いボンベイから立ち去る。一方、パンミーはスレーシュと一緒に住み出すが、ヴァルマーが彼女を連れに来る。パンミーの養育権を巡って裁判が行われ、スレーシュは敗訴する。スレーシュはパンミーをも失ってしまう。
シャーンティとパンミーと離れ離れになったスレーシュは酒に溺れるようになり、仕事にも影響が出るようになった。スレーシュの次作は大コケし、彼は会社から追放されてしまう。破産したスレーシュの邸宅は競売に掛けられ、彼は全てを失う。また、アジャンター・ピクチャーズ社の社長はシャーンティと7年の契約を結んでおり、その履行を求めて裁判を起こしていた。2年が経ってやっとその判決が出て、シャーンティは同社に戻らなくてはならなくなった。
その頃、シャーンティはジャングルで子供たちを教えていた。ヴィーナーの兄で、かつスレーシュの親友であり、家族に内緒でボンベイで俳優になっていたラーケーシュ、通称ロッキー(ジョニー・ウォーカー)はシャーンティを探し出し、彼女に裁判の判決を教え、ボンベイに戻るように言う。シャーンティは、スレーシュが監督をすることを条件に出す。だが、スレーシュは酒場で飲んだくれる毎日を送っており、再び映画を撮るつもりはなかった。シャーンティが直接スレーシュを訪ね懇願するが、それでもスレーシュは首を縦に振らなかった。
それからさらに歳月が流れ、シャーンティは女優として成功し、スレーシュの邸宅を買い戻して住んでいた。成長したパンミーは結婚を前に父親を探し回っていた。シャーンティに会いに行くが、彼女にもスレーシュの居場所は分からなかった。
こうして回想シーンが終わり、スレーシュはアジャンター・スタジオの監督席で孤独な死を迎える。
前作「Pyaasa」では、不遇の詩人が、運命の悪戯から死んだことになり、それがきっかけになって詩集が出版されて有名になるという流れだった。それに対し「Kaagaz Ke Phool」では、主人公スレーシュは最初から成功した映画監督であった。だが、途中で彼は没落し、結局飲んだくれになる。「Pyaasa」のエンディングは悲しみの中にも希望の光が差し込む類のものだったが、「Kaagaz Ke Phool」の最後は前作ほど救いがあるわけではない。ただし、この世界の虚構を暴こうとする姿勢に変わりはなく、主人公を詩人や映画監督にすることによってストーリーの中に自然にソングシーンを溶け込ませることに成功している点でも共通している。
題名になっている「紙の花」とは、空虚なショービジネスの世界を暗喩している。「花」は美の象徴だが、それが紙でできているのである。この紙を札束と言い換えてもいいだろう。スレーシュがどのような苦労をして売れっ子映画監督にまで登り詰めたのかについて映画は沈黙している。だが、映画監督になったことが妻との別居を引き起こしたことからも分かるように、映画業界は華やかながら世間からの差別的な眼差しにもさらされており、決して平坦な道ではなかったことがうかがわれる。頂点まで登り詰めることができるのはほんの一握りだ。だが、成功する難しさ以上に、成功し続けるのが難しい業界だ。スレーシュも、たった一本の失敗作によって会社から追われ業界に居場所を失ってしまった。映画業界で価値があるのは才能ではなかった。どれだけ稼ぐことができるのかが問われ、稼げなくなった映画監督はボロ雑巾のように捨てられる。そんな非情かつ無常な業界を揶揄して「紙の花」という題名を付けたのだろう。
「Kaagaz Ke Phool」が興行的に失敗したのは、スレーシュとシャーンティが不倫関係だったことに起因すると思われる。シャーンティは独身だったが、スレーシュは既婚者であり、妻や娘がいた。そして、どちらかといえばシャーンティの方がスレーシュに先に情愛を抱いており、スレーシュがそれに応えた形になる。だが、一線を越えることはなかった。スレーシュは自分が既婚者であることをシャーンティに思い出させ、彼女の気持ちを理解しながらも受け止めようとしない。そしてシャーンティも彼のその反応を理解し、それ以上アプローチすることを控える。
しかしながら、二人は既にソウルメイトになっていた。「婚姻」などといった公式な関係性はなかったが、共に過ごす内に二人は魂を通い合わせられるようになっていた。シャーンティを失ったスレーシュは映画監督としての気概を失い、没落の一途をたどる。シャーンティは意外にあっけらかんとしていて、田舎で子供たちに読み書きを教える先生になっていたが、スレーシュは破産し、住処を失い、酒に溺れる。まるで「Devdas」の主人公デーヴダースのようになってしまった。
後に運命が再び二人を引き合わせる。シャーンティは映画界に引き戻され、彼女はついでにスレーシュを呼び寄せようとする。スレーシュはシャーンティを抱きしめるものの、二度と映画監督に戻ることはなかった。シャーンティは女優として成功し、スレーシュはさらに落ちぶれる。このときスレーシュがシャーンティに懇願を断った理由はよく分からない。そして結局スレーシュとシャーンティが結ばれることもない。それでも、実の妻であるヴィーナーよりもシャーンティの方をスレーシュと強く結びつけるプロットであり、これがインドの道徳観と相容れず、当時の観客からそっぽを向かれたのではないかと予想される。
スレーシュの人生にとってシャーンティと同じくらい重要な地位を占めていたのが娘のパンミーだった。パンミーは母親と住んでいたが、父親を愛していた。スレーシュとシャーンティの熱愛が報道されるとパンミーはシャーンティを父親の人生から追い払うためにボンベイまでやって来る。シャーンティが「Devdas」成功後にボンベイを去ったのも、パンミーとの約束があったからだった。シャーンティはスレーシュの、恋人とはいえない恋人であったし、パンミーはスレーシュの娘とはいえない娘だった。そして二人ともスレーシュを守ろうとし、その愛情は結局はスレーシュの破滅の遠因となる。スレーシュを自暴自棄に追いやるダメ押しとして働いたのも、彼女の養育権を妻に奪われたことであった。だが、映画は最後までパンミーをスレーシュに引き合わせることはしない。スレーシュは隠れながら成長したパンミーの姿を盗み見る機会を得るが、パンミーは父親を探し回ったにもかかわらず、見つけることができなかった。
かつての職場であるアジャンター・スタジオに忍び込んだスレーシュが、監督椅子に座りながら事切れるエンディングをどう解釈すればいいだろうか。悲しい終わり方であることは確かだ。最盛期にはあれほど羽振りの良かったスレーシュが、このような孤独な最期を迎えることになろうとは。だが、明るめのBGMや、まるでスレーシュの魂が天に昇るようなカメラワークは、ダット監督の別の意図を示唆しているように思われてくる。
この映画を解釈する上で大きなヒントになるのが、名曲中の名曲として歌い継がれる「Waqt Ne Kiya Kya Haseen Sitam」だ。サビでは、「時間はなんと美しく残酷な行いをしたのだろう/君は君でなくなり、私は私でなくなった」と歌われている。スレーシュは運命に翻弄され、落ちぶれてしまい、孤独な最期を迎えた。確かに運命の残酷な悪戯だ。だが、それを「美しい」と形容している。スレーシュはシャーンティと出会わなければ映画監督としてより成功を掴んでいたのかもしれない。だが、シャーンティと出会ってしまった今、シャーンティなき人生に何の意味があるだろうか。シャーンティと出会っていなかったらという仮定すら考えられない。彼はこの世ではシャーンティと結ばれることはなかったが、それは来世に向けての準備でもある。スレーシュの死はシャーンティに向けての旅立ちなのである。そしてまたどこかで二人が出会い、ひとつになったとき、真の意味で「君は君でなくなり、私は私でなくなる」のである。ここには世俗的な恋愛に加えて形而上の恋愛、つまり紙との合一も見出すべきである(参照)。
「Pyaasa」に比べて「Kaagaz Ke Phool」のまとまりの悪さも目立つ。これも失敗の原因であろう。スレーシュ、ヴィーナー、パンミー、シャーンティなどのエピソードに一体感がなく、ひとつの物語として集束していくものが希薄だった。シャーンティはもっとも重要なキャラクターだが、描写が不足しており、どういう女性なのかいまいち分からなかった。一度女優として成功しながらボンベイを去って先生をするというのも謎の行為である。「Devdas」のチャンドラムキーと似た生き様だが、彼女が映画の中の「Devdas」で演じたのはパーローであり、整合性が取れない。特に不満を感じたのは、スレーシュの死の前後でシャーンティの近況に全く触れられていなかったことだ。
「Kaagaz Ke Phool」の失敗によって経済的に困窮し自信を失ったグル・ダットは、これを機に監督業を辞めてしまった。まるで映画の中で彼が演じた映画監督スレーシュそのものだ。そして、死後に再評価されるところは、「Pyaasa」のヴィジャイに似ている。自身が作り出した創作世界の、自身が演じた登場人物に感化された部分があるのではないだろうか。
「Kaagaz Ke Phool」は、グル・ダットが映画業界を舞台にして映画監督としての成功と失敗を描き出した作品だ。映画監督と女優の不倫を美しく映し出そうとした点で時代を先取っているが、それは興行的に失敗した原因のひとつになったと思われる。後世には再評価されたが、前作「Pyaasa」に比べるとまとまりに欠ける気もする。必見の映画であることには変わりないが、評判に惑わされず、批判的に評価することも重要である。
