Ram Rajya (1943)

4.0
Ram Rajya
「Ram Rajya」

 1943年10月29日公開の「Ram Rajya(ラーマ王子の統治)」は、「ラーマーヤナ」の第7巻ウッタラカーンダ(後の巻)を映画化した神話映画である。ウッタラカーンダは「ラーマーヤナ」全7巻の内、もっとも悲劇的でもっとも人気のない巻であるが、それをあえて映画の題材に選んだのには、時代背景が理由にあったと考えるべきである。「Ram Rajya」は、1943年の大ヒット作の一本であり、また、映画嫌いとして知られていたマハートマー・ガーンディーが生涯で唯一鑑賞した映画としても知られている。

 監督はヴィジャイ・バット。脚本家から身を立て映画監督になった人物で、「Ram Rajya」撮影時には既に業界で名の知られた人物だった。彼は後に「Baiju Bawra」(1952年)や「Himalaya Ki God Mein」(1965年)などの大ヒット作を撮ることになる。また、彼は1967年に「Ram Rajya」を自身でリメイクした同名映画を撮っている。彼は「Raaz」(2002年)や「1920」(2008年)などのヴィクラム・バット監督の祖父にあたる。

 音楽はシャンカルラーオ・ヴャース、作詞はラメーシュ・グプター。

 主演はプレーム・アディーブとショーブナー・サマルト。プレームは1940年代のトップスターの一人であった。ショーブナーは女優ヌータンとタヌジャーの母親であり、女優カージョルの祖母にあたる。

 他に、ウマーカーント、Gバドリー・プラサード、ヤシュワント、マドゥスーダン、パーンデー、VDパンディト、アミールバーイー・カルナータキー、シャーンタクマーリー、ランジャナー、リーラー・パーワルなどが出演している。

 ランカー島の羅刹王ラーヴァナを退治し、誘拐されていたスィーター(ショーブナー・サマルト)を救出したラーマ(プレーム・アディーブ)は、アヨーディヤーに凱旋し即位する。だが、アヨーディヤーの民からは、ひとたび他人に誘拐された女性が王女になることについて疑問の声が上がった。ラーマは王宮に国民の代表を呼んで会議を行う。そこでスィーターを王女として認めないという決議がなされる。ラーマは泣く泣くスィーターを王宮から追放する。

 スィーターは聖仙ヴァールミーキ(Gバドリー・プラサード)に庇護され、タポーヴァンのアーシュラム(道場)に住み始める。ヴァールミーキはスィーターの身分を隠すため、彼女を「ヴァンデーヴィー」と呼ぶことにした。妊娠していたスィーターは、ラヴァ(ヤシュワント)とクシャ(マドゥスーダン)という双子の男児を生む。

 成長したラヴァとクシャは立派な戦士に成長した。ヴァールミーキは二人に自ら著した「ラーマーヤナ」を暗唱させていた。だが、彼らは自分たちの父親が誰か知らされておらず、友人たちからはからかわれることがあった。

 一方、ラーマはチャクラヴァルティン(転輪聖王)を名乗るため、アヨーディヤーでアシュヴァメーダ(馬祀祭)を催す。弟のラクシュマナ(ウマーカーント)が放たれた馬を護衛し、馬を奪おうとする諸王たちを撃破して回った。

 ヴァールミーキはラヴァとクシャを連れてアヨーディヤーを訪れる。二人は街で「ラーマーヤナ」を歌い聞かせ、ラーマの王宮にたどり着く。ラーマは二人を歓迎する。ラヴァとクシャはスィーター王女の消息を尋ねる。二人は、ラーマがスィーターを追放したことを知り、絶望してタポーヴァンに帰る。

 アシュヴァメーダの馬がタポーヴァンにやって来た。ラヴァとクシャはその馬を捕獲する。ラクシュマナ率いる軍隊と戦いになるが、ラヴァとクシャは応戦し、ラクシュマナを負傷させる。弟の危機を知ったラーマは自ら軍勢を率いてタポーヴァンにやって来る。そしてラヴァとクシャと戦おうとするが、見かねたスィーターが現れ、息子たちに、ラーマこそが父親だと明かす。ラーマも二人が自分の子供だと知って彼らを抱き寄せる。アヨーディヤーの民もスィーターが王宮に戻ることを認める。だが、スィーターは大地に飲まれて消えてしまった。

 誘拐された姫を勇者が助け出すという類型の説話は世界中に存在する。ペルセウスによるアンドロメダの救出、聖ゲオルギオスの竜退治、スサノオによるクシナダヒメの救出などから始まり、「スーパーマリオブラザーズ」や「ドラゴンクエスト」まで、この手の英雄譚は世界中で愛されている。その中でも「ラーマーヤナ」は、いわゆる「アンドロメダ型神話」の元祖とされることが多い。ラーヴァナに誘拐されたスィーターをラーマが救い出すのである。

 だが、いかにもインドらしいのが、救出されたスィーターがそのまま元の家族に受け入れられないことだ。拉致されていた期間、スィーターは第三者の男性であるラーヴァナと一緒にいた。このときにラーヴァナと関係を持ったのではないかと疑われたのである。既にラーヴァナは退治されてしまっており、身の潔白を証明しようにも有効な証人を用意することができない。そこで、アグニパリークシャー(火の試練)が行われることになった。火の神アグニに審判を委ねようというのだ。アグニパリークシャーでは、火の中に入って燃えなければ潔白、燃えれば有罪であった。中世ヨーロッパの魔女狩りであったような、前時代的審判である。それはともかく、スィーターはアグニパリークシャーで燃えなかったために潔白を証明することができ、めでたくラーマに迎え入れられたのである。

 これはあくまでスィーターの個人的な潔白を証明するものであった。アヨーディヤーに戻ったラーマは即位するが、民の中からは、スィーターが王女にふさわしいのか、疑義が上がった。確かにスィーターは潔白かもしれないが、だからといって他人の家でしばらく過ごした女性を家に迎え入れることは、王として民に示しがつかない。ラーマはスィーターを愛していたが、王として、個人的な感情よりも民の声を優先する義務を負っていた。ブラーフマン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの代表が集う会議においてスィーターの追放が決議されると、ラーマはそれに従わざるをえなかった。

 このスィーターの追放は、「ラーマーヤナ」の中でもアグニパリークシャーと並んで物議を醸すエピソードである。現代的な価値観に照らし合わせれば、ラーマの採った決断は決して称賛されるものではないだろう。だが、「Ram Rajya」では、なぜラーマがそのような苦渋の決断をしたのかが丁寧に描き出されている。ラーマは王に即位するときに民に仕えると誓いを立てていた。民の総意に従うのが王の義務であり、それはあらゆる個人的な感情よりも優先されなければならない。少なくとも賢者たちの間では、ラーマのこの決断は、王にふさわしいものとして受け止められていた。

 一方で、自らに何の落ち度もないのに苦難を背負い込むことになったスィーターや双子の息子ラヴァとクシャの感情にも焦点が当てられていた。もちろん、彼らは自らの境遇を理解していない。スィーターは大人なので、ヴァールミーキから諭され、何とか理解しようと努力できていたが、まだ幼いラヴァとクシャにはそんなことは不可能だ。スィーターを捨てたラーマを恨み、アヨーディヤー王国に反旗を翻すことすらした。

 では、なぜ1943年という時期にこのような映画が作られたのだろうか。マハートマー・ガーンディーは1942年に「インドを去れ」運動を開始し、英国に対して即時にインドの独立を認めるように訴えかけながら民衆を動かした。「Ram Rajya」のストーリーは、この運動と重ね合わせて考えるべきである。もちろん、「インドを去れ」運動を直接支持したら検閲が通らないので、婉曲的に民衆にメッセージを届ける必要があった。「Ram Rajya」は一見すると「ラーマーヤナ」ウッタラカーンドの映画化だが、その奥には、「インドを去れ」運動への共鳴を読み取ることができる。

 スィーターは「大地から生まれた娘」であった。インド亜大陸はしばしば女神の形で表象される。スィーターはインドの象徴であった。映画の中でもビルマやスリランカまで含まれた「統一インド」の地図が出されていたが、インドそのものがスィーターである。そして、独立運動とは、スィーターを取り戻す運動に他ならなかった。「Ram Rajya」の中で理想の統治が描かれるが、それは民の声に従う統治者の姿であった。これは民主主義を表す。ラーマが民の声に従ってスィーターを追放したように、英国は民の声に従ってインドの独立を認めなければならない。民主主義という新たな時代の到来をインド国民に広く知らせ、一丸となって英国に訴えていくことで、必ず「ラーマの統治」が実現するという希望を抱かせてくれる映画になっている。

 「ラーマーヤナ」がハッピーエンドとはいえない終わり方であることを忠実に守って、「Ram Rajya」の最後も決して幸せなトーンで終わっていない。せっかくラーマ、スィーター、そしてラヴァとクシャの家族がひとつになったところでスィーターは大地に飲まれて消え去ってしまう。スィーターは大地の娘なので、使命を終えたら大地に帰っていく運命にあった。だが、「Ram Rajya」ではインドの運命が民衆に委ねられたことを示すような余韻が残されいたように感じた。やはりこういうところからも、政治的な目的で作られた映画だといえる。

 そういう政治的なメッセージが込められながら、「Ram Rajya」は純粋に娯楽映画としての質も高かった。歌と踊りや特殊効果などをふんだんに使いながら、飽きさせないような作りになっていた。踊りでは、宮廷で上演されるクラシカルな踊りから、森の民が踊る野性的な民俗舞踊まで、ヴァラエティーに富んでいたし、終盤の戦争シーンでは矢と矢がぶつかり合うシーンなど当時としては斬新な映像表現があった。

 言語学的に気になったのは語彙の使い方だった。このような神話映画では、セリフには極力、サンスクリット語由来の語彙が使われる。「Ram Rajya」でもそうだったが、若干、アラビア語・ペルシア語を由来とする語彙も使われており、気になった。それらを書き出してみた。

  • अजब
  • अलग
  • आवाज़
  • क़दम
  • ख़बर
  • ख़ैर
  • ग़रीब
  • ज़बान
  • ज़मीन
  • ज़रूर
  • ज़रूरत
  • जल्द
  • तरफ़
  • तरह
  • तैयार
  • दरबार
  • देरी
  • परवाह
  • पसंद
  • बदला
  • बेचारा
  • मज़ा
  • महल
  • मालूम
  • रास्ता
  • लेकिन
  • शक
  • शिकायत
  • सर
  • सवाल
  • हद
  • हालत

 「Ram Rajya」は、マハートマー・ガーンディーが生涯唯一鑑賞した映画として有名だが、その豆知識だけで記録されるのは不当だと思えるほどよくできた神話映画だ。わざわざ「ラーマーヤナ」の中で一番不人気な巻を取り上げ、そこに時代の空気を入れ込むことに成功している。あわよくば民衆を動かし、独立運動にかき立てようとする野望すら感じる。


राम राज्य ( 1943 ) Ram Rajya l Drama Movie | Prem Adib , Shobhna Samarth , Umakant