ヒンディー語映画界では伝記映画のトレンドがずっと続いている。伝記映画の題材となる人物には、歴史的英雄や著名なスポーツ選手が多いのだが、実業界の有名人も時々取り上げられる。アビシェーク・バッチャンの出世作に「Guru」(2007年)があったが、これはインドを代表する財閥リライアンス・グループの創立者ディールーバーイー・アンバーニーの非公式の伝記映画だった。
2021年4月8日からDisney+ Hotstarで配信開始されたヒンディー語映画「The Big Bull」は、1980年代から90年代のボンベイ(ムンバイー)で暴れ回った株式仲買人ハルシャド・メヘターの伝記映画である。監督はクーキー・グラーティー。過去にいくつかのビデオ作品作成や助監督などをしているが、長編映画の監督はこれが初である。プロデューサーはアジャイ・デーヴガンで、主演はアビシェーク・バッチャン。この二人は大の仲良しで、過去にも度々タッグを組んでいる。
他に、イリアナ・デクルーズ、ソーハム・シャー、ニキター・ダッター、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ラーム・カプール、スプリヤー・パータク、サウラブ・シュクラー、サミール・ソーニー、シシル・シャルマーなどが出演している。
1980年代のボンベイ。小さな仕事を転々としていたヘーマーント・シャー(アビシェーク・バッチャン)は、株式市場に興味を持ち、株式仲買人となる。ヘーマーントは市場を読む力に長けていた他、当時インドでは違法ではなかったインサイダー取引をすることで資金を手にする。また、当時の法律の穴を付いて、銀行間で取引される金を使って投資をし、巨万の富を築き上げる。「ビッグブル」と呼ばれるようになったヘーマーントは、一挙手一投足が注目され、株式市場に多大な影響を及ぼすようになった。 だが、弟のヴィーレーン(ソーハム・シャー)や妻のプリヤー(ニキター・ダッター)は、あまりに急速に成功したことに不安を感じていた。ヴィーレーンは、ジャーナリストのミーラー(イリアナ・デクルーズ)と密会し、彼女にヘーマーントの秘密を暴露する。 ヘーマーントは偽のバンクレシート(BR)を使って投資を行っていたことが明らかになり、逮捕される。だが、ヘーマーントは逆に、首相に1000万ルピーの贈賄をしたことを暴露し返し、世間は騒然となる。しかしながら、ヘーマーントは後にその訴えを取り下げる。ヘーマーントは獄中で心臓発作により亡くなる。
実在の人物が実在の株式市場で行ったことをそのまま映画化しているのだが、当時のインド経済の知識がないと理解が難しい場面が多かった。
ヘーマーントが株式投資をするきっかけになったのはインサイダー取引だった。関係者しか知り得ない情報を入手し、それに基づいて、上がりそうな株式を買い、下がりそうな株式を売ることで、まずは資金を手にする。特にヘーマーントが利用したのは、ボンベイの繊維業界の労働組合を牛耳っていたラーナー・サーワントからのストライキ情報であった。これは明らかに、実在の組合リーダー、ダッター・サーマントをモデルにしているが、実際にハルシャド・メヘターがダッター・サーマントと通じていたかどうかは不明である。それにしても、当時のインドの法律ではインサイダー取引が違法とされていなかったという事実は驚きであった。
株式仲買人となったヘーマーントが錬金術として利用したのが、当時のインドの銀行に課せられていた法規制である。当時、インドの銀行は、利益を出すことは求められていた一方で、株式市場への投資は許されていなかった。また、他の銀行から有価証券を購入する際は必ずブローカーを通さなければならなかった。ヘーマーントはこの法規制を逆手に取り、他の銀行から証券を買うという名目で、銀行に自分の個人口座に金を振り込ませた。彼はその金を元手にして投資を行い、利益を上げることで、差額を自分の懐に入れた。こうして彼は、海外や裏社会からの資金提供なしに巨額の資金を調達して株式市場に投じ、市場を支配すると同時に、富を築き上げたのである。ハルシャド・メヘターが実際に関わった株式の中では、セメント会社ACCが有名である。元々1株200ルピーだったACCの株式は、メヘターの手によって3ヶ月で9,000ルピーにまで高騰した。映画の中ではNCCという社名でACCのエピソードが紹介されていた。
ヘーマーントが資金源としたもうひとつの手法は、偽のバンクレシート(BR)であった。当時、インドの銀行間では、レディーフォワード取引という名の下に、政府セキュリティーのやり取りがBRを通して行われていた。ヘーマーントはブローカーとして銀行間での政府セキュリティーのやり取りの仲介を行う一方で、偽のBRを使って銀行から資金を引き出すことに成功し、投資に流用していた。
そのヘーマーントの不正を追い詰めたのは、ミーラーという名の女性ジャーナリストであったが、実際、ハルシャド・メヘターも、スチェーター・ダラールという女性ジャーナリストによって不正が暴かれた。スチェーターは後に著書「The Scam: from Harshad Mehta to Ketan Parekh」の中でメヘターの手法を詳述したが、映画「The Big Bull」の中でもミーラーはメヘターの伝記を出版していた。
なぜ今、ハルシャド・メヘターの伝記映画が作られたかと言えば、それは現在のインドの躍進に彼のその破天荒なやり方が関係しているからである。独立後、インドは社会主義的な経済体制を採用し、経済は硬直状態に陥った。当時のインドの経済成長率は「ヒンドゥー・レート」と揶揄されるほどだった。インドの企業は基本的に家族経営であり、経営者家族が株式の大部分を保有していて、株式市場も硬直状態にあった。メヘターはその硬直した経済に風穴を開け、株式市場を一般庶民に開放し、投資によって財産を増やす道を広めた。また、メヘターが利用した法律の穴は、一連の事件の後に法改正によって埋められ、不正の余地がない株式市場や銀行システムが確立された。
映画の中では、首相に関するスキャンダルも出てきた。1991年の首相と言えば、国民会議派のナラスィンハ・ラーオである。実際にメヘターは、自身のスキャンダルが明らかになった後、首相に1,000万ルピーの賄賂を渡したと暴露し、物議を醸した。ラーオ首相は収賄を否定し、中央情報局(CBI)の捜査でもメヘターの主張が真実とは認められなかったが、現役の首相に関する贈収賄事件が世間を騒がせたのは独立インドで初のことであった。
アビシェーク・バッチャンやイリアナ・デクルーズなど、俳優たちは真摯に演技に取り組んでいた。ソーハム・シャーの演技も良かった。だが、経済に疎い人間にとって、この映画が扱う内容は難し過ぎて、俳優たちの演技を楽しむ余裕がなかった。きっと、当時のインド経済に明るい人なら、違った楽しみ方ができるのではなかろうか。
「The Big Bull」は、1980年代から90年代のインドの株式市場を支配した株式仲買人ハルシャド・メヘターの伝記映画である。経済がテーマの映画で、当時のインド経済や法律の知識がないと何が起こっているのかいまいちよく分からないのだが、専門知識の要る映画は、これはこれで噛み応えがあり、歓迎したい。