
1975年9月5日公開の「Nishant(夜明け)」は、パラレル映画の旗手の一人シャーム・ベーネーガル監督の第3作であり、デビュー作「Ankur」(1974年)と並び称せられる傑作のひとつである。封建主義の横暴と抑圧された民衆の蜂起が描かれている。
劇作家ヴィジャイ・テーンドゥルカルとサティヤデーヴ・ドゥベーが脚本を書いている。キャストは、ギリーシュ・カルナド、シャバーナー・アーズミー、アムリーシュ・プリー、アナント・ナーグ、モーハン・アーガーシェー、ナスィールッディーン・シャー、スミター・パーティル、サティヤデーヴ・ドゥベー、クルブーシャン・カルバンダー、サードゥ・メヘル、サヴィター・バジャージなどである。ちなみにナスィールッディーンは本作でデビューした。
時代は1945年、舞台は「とある封建国家」とある。人々の話す言語はダッキニー語訛りのヒンディー語とテルグ語であり、「ワランガル」という具体的な地名も聞こえる。よって、この国家とはハイダラーバード藩王国だと推定される。ベーネーガル監督はハイダラーバード藩王国出身であり、「Ankur」の舞台もテランガーナ地方の農村であった。
1945年。舞台となる村では、ジャーギールダール(地主)による恐怖政治が行われていた。長男のアンナー(アムリーシュ・プリー)は借金のかたに農民から土地を取り上げており、次男プラサード(モーハン・アーガーシェー)と三男アンジャイヤー(アナント・ナーグ)は村の女性たちを手込めにしていた。四男のヴィシュワム(ナスィールッディーン・シャー)だけは臆病者で、兄たちと異なり悪事に積極的ではなかった。アンナーは未婚で、プラサードの妻は逃げ、アンジャイヤーの妻は自殺した。ヴィシュワムの妻はルクミニー(スミター・パーティル)といい、邸宅にはポーシャンマー(サヴィター・バジャージ)という下女が出入りしていた。
あるとき、村の寺院から何者かによって宝飾品が盗まれる。僧侶(サティヤデーヴ・ドゥベー)は盗難現場に金の首飾りが落ちているのを見つける。それはヴィシュワムのものだった。後でアンナーがそれを回収しに来る。プラサードとアンジャイヤーが賭博でこしらえた借金を返すため、兄弟4人で寺院から宝飾品を盗み出し売り払ったのだった。だが、寺院に寝泊まりしていた酔っ払い(サードゥ・メヘル)が犯人扱いされ、牢屋に送られる。
村の学校に新しく教師(ギリーシュ・カルナド)と妻スシーラー(シャバーナー・アーズミー)、そして二人の小さな子供がやって来る。教師は村に住み始めて早々、地主の兄弟が村で横暴を働いているのを目にする。ヴィシュワムはスシーラーの美貌を見て一目惚れし、兄弟にそのことを告げる。プラサードとアンジャイヤーは弟のために教師の目の前でスシーラーを誘拐し、自宅に連れ込む。教師は声を上げるが、地主を恐れた村人たちは手を差し伸べようともしなかった。
教師は警察(クルブーシャン・カルバンダー)や地主の邸宅に行くが誰にも相手にしてもらえない。そこで町に行って弁護士に相談するが、教師は証人を用意できず、誰も弁護を引き受けてくれなかった。教師は手ぶらのまま村に帰ってくる。
スシーラーは邸宅の一室に閉じこめられ、プラサードとアンジャイヤーに性のはけ口にされていた。だが、弱気なヴィシュワムだけはスシーラーを手込めにすることができなかった。スシーラーは徐々に地主の邸宅での生活に慣れてきて、ヴィシュワムに頼み、寺院への参拝を許される。スシーラーは寺院で夫と再会するが、自分を助けてくれない夫に愛想を尽かしており、地主の邸宅に戻っていく。夫に見切りを付けたスシーラーはヴィシュワムに頼るようになる。
我慢の限界を超えた教師は、僧侶と共に村人たちに反乱の芽を植え付ける。そして祭礼の日、集まった村人たちは地主の邸宅を襲撃する。アンナー、プラサード、アンジャイヤー、ルクミニーは殺される。ヴィシュワムはスシーラーを連れて村の外まで逃げるが、村人たちに追いつかれる。
「Ankur」の最後は、子供が地主の家に石を投げ、窓ガラスを割るというもので、虐げられた者の反乱の兆しが示唆されていた。「Nishant」では、そこから一歩進んでおり、封建主義によって抑圧されてきた人々が集団で地主のハヴェーリーを襲って地主一家を惨殺するという衝撃的な結末を見せている。
映画の中で僧侶は、「不正をするのは悪だが、不正に黙って耐えるのはそれ以上の悪である」と述べ、村人たちに蜂起を促していた。「インド独立の父」マハートマー・ガーンディーは一般的に非暴力主義の提唱者かつ実践者と見なされているが、彼は「恐怖はもっとも深刻な病気である」とも述べており、臆病と同義の非暴力主義はむしろ害悪だと考えていた。ガーンディーが行ったのは忍耐ではなく抵抗であり、その方法として非暴力主義を貫いただけである。非暴力主義は無抵抗主義ではない。「Nishant」も基本的には臆病を戒め、不正に対しては勇気を持って立ち向かうことを求めている。
ただ、果たしてこの映画は暴力革命までも支持しているだろうか。村人たちの蜂起により地主一家は皆殺しにされるが、シャーム・ベーネーガル監督はそれを決してハッピーエンドとして描いていないだろう。ヴィシュワムとスシーラーの消息は映画の中では描かれずに終わるが、決して後味のいいものではないはずだ。ヴィシュワムは当然として、スシーラーもついでに殺されてしまったかもしれない。そうだとしたら、被害者のはずのスシーラーまで巻き添えになってしまったことになる。暴力による抵抗は新たな不幸を生む。だが、この村の状況を見ると、武装蜂起以外の解決法が見当たらなかったのも事実である。映画は唯一の答えを提示しておらず、観客に思考し想像する余地を残している。「Nishant(夜明け)」という題名からは、何らかの解決があるものだと期待して観てしまうが、この終わり方はとても夜明けとはいえなかった。
日本人にいまいち分かりにくいのは、スシーラーの心情であろう。スシーラーは誘拐され、地主のハヴェーリーに監禁される。インド社会では、ひとたび他人に誘拐された女性は、元の家に戻れなくなることが多い。それは家名の汚点になるからであり、また、その女性が未婚だった場合は嫁ぎ先がなくなるからだ。誘拐されたが最後、もっとも無難な末路は誘拐犯と一緒になることである。拉致された後のスシーラーの行動を見ていても、自発的に地主の邸宅から逃げ出そうとしないし、夫の方も、あの手この手は尽くすものの、意外に諦めが早い。
また、スシーラーは夫がいつまで経っても助けてくれないのに失望し、寺院で彼と再会しても、家に戻ろうとはしなかった。スシーラーは子供のことを心配していたが、それでも二度と自宅の敷居をまたごうとはしなかったのである。そして、スシーラーは地主の邸宅に戻ると、ヴィシュワムに抱きつく。つまり、夫を見捨ててヴィシュワムに乗り換えたということだ。村人の蜂起があった後は、スシーラーはヴィシュワムと共に逃げる。そして一緒に殺された可能性もある。
妻をさらわれるということは、男性としての尊厳が失われたということであり、もはや「男性」ではないということになる。封建社会と家父長制は表裏一体であり、その共通原理は男性性になっている。女性を守るのは女性自体を守るためではなく、女性を守ることで維持される男性性を守るということである。スシーラーもその男性性至上主義社会に生きており、「男は男たるべき」という価値観を自然に受け入れていたため、男性性を失った夫を見切ってヴィシュワムに自分の守護を託したと解釈できる。
妻を奪われ男性性を失った夫は、寺院に貯蔵されていた宝飾品を失った僧侶と平行関係にある。だから二人は共鳴し合い、手に手を取り合って反乱を扇動したのである。
シャバーナー・アーズミー演じるスシーラーが完全に家父長制社会に取り込まれた女性だとしたら、スミター・パーティル演じるルクミニーは比較的主体性を持っていた。序盤では彼女の存在感は皆無に等しいが、スシーラーが誘拐されてきた後は積極的に発言するようになり、スシーラーよりも重要性が増す。ただ、彼女も自ら夫やその兄弟に対して歯向かうことはせず、どちらかといえばこの奈落から抜け出したいと考えていた。結局、彼女も村人の蜂起で殺される。もう少し彼女のキャラクターを発展させることができていれば、さらに優れた作品になっていたことだろう。
村の生活や文化がよく分かる映画でもあった。寺院で盗難があるとシャーマンのような人物が呼ばれ神下ろしが行われ、犯人が誰なのか神託が下される。牛車のレースや水牛の闘牛があるし、ラームリーラー的な演劇も行われていた。祭礼になると御輿の行列が行われ、それがそのまま武装蜂起につながった。家の中を見てみても、スシーラーや教師が子供を洗う様子がじっくりと映し出されたり、アンナーが井戸で身体を洗ったり床屋に脇毛を剃ってもらっていたりした。これほど生活感のある映像を映す必要があるのかと思うくらい生々しい生活描写だった。
パラレル映画を代表する俳優たちが出演しており、パラレル映画のオールスターキャストと表現しても差し支えない。ギリーシュ・カルナド、シャバーナー・アーズミー、スミター・パーティル、ナスィールッディーン・シャー、アムリーシュ・プリーなどなど、名優たちによる名演技が楽しめる映画でもある。
「Nishant」は、封建主義社会の中で支配階級がどのように支配権を当然視し民衆を抑圧しているのかを描きだすと同時に、それが臨界点に達したときには恐ろしいことが起こることを予想している。映画の観客層を考慮すると、これは支配階級に対する警鐘と受け止めるべきであろうが、虐げられてきた人々に忍耐を止めて抵抗を始めるように促すメッセージも読み取れる。ただ、暴力革命までも求めているとは受け止めにくい。また、誘拐されたスシーラーの劇的な心変わりには外国人にとっては分かりにくいかもしれない。どちらにしろ、パラレル映画を代表する傑作である。
