
言語はインドにとって非常にセンシティブな話題である。インド亜大陸は古来多言語社会であり、各話者は自分の母語に対して深い愛情と大きな誇りを抱いている。この地に興亡した国家において特定の言語が「公用語」や「教養語」などの地位を獲得したことはあっても、全国民の「母語」が統一されたためしはない。支配者が国家統合のために言語を統一しようとするのは理解できるが、インド亜大陸においてその試みはことごとく失敗してきた。印パ分離独立の一因もヒンディー語とウルドゥー語の主導権争いにあったといえるし、バングラデシュ独立の遠因もウルドゥー語とベンガル語の争いにあったといえる。
独立後のインドでもそれは例外ではなく、ヒンディー語、英語、その他のインド諸語の扱いを巡って、時に血で血を洗う闘争が繰り広げられてきた。英領インドにおいて公用語は英語であったが、独立を勝ち取ったインドが直面することになった大きな問題のひとつは、国家の言語をどうするかということだった。英国支配からの脱却は単純に英語からの解放に直結しなかった。独立インドの「国語」または「公用語」として有力候補だったのはヒンディー語だが、その母語話者人口は4割程度であり、過半数に達していなかった。非ヒンディー語話者の間からはヒンディー語をインド唯一の「国語」または「公用語」にすることに反対の声が上がった。もしそうなったら、司法・立法・行政から教育・就職まで、学校で習わなくてもヒンディー語を運用できるヒンディー語母語話者が圧倒的に有利になってしまうからだ。ならば、たとえ植民地時代の残滓であったとしても、外国語である英語のままの方がインドの全国民にとって公平である。1950年に施行されたインド憲法には多くの妥協の跡が見られるが、言語もそのひとつだった。独立インドの「連邦公用語」は、「15年以内」という期限付きでヒンディー語と英語が併用されることになり、その他の主要なインド諸語は「振興がはかられるべき言語」として扱われ、便宜的に「地方公用語」と呼ばれた。また、この期間が終了した後はヒンディー語が唯一の「連邦公用語」になるはずだった。
ヒンディー語を唯一の連邦公用語化にする動きに対してもっとも激しい反対運動が起こったのが、当時のマドラス州であり、特に現タミル・ナードゥ州にあたる地域だった。この地域の人々はタミル語を母語としていたが、タミル語はサンスクリット語に匹敵する長い文学の伝統を持っており、タミル人はそれを非常に誇りにしていた。タミル地方では英領時代から既にヒンディー語に対する反対運動が起こっていたが、独立後にそれはさらに激化した。インド政府内では15年後を見据えてヒンディー語を唯一の連邦公用語にするための手続きが始まったが、南インドを中心に反発が広がった。1959年にジャワーハルラール・ネルー首相はとうとう声明を発表し、ヒンディー語の押しつけを止め、英語の使用も継続する方針を出した。ヒンディー語推進派からはこれを覆そうとする動きが何度も出たが、首相がラール・バハードゥル・シャーストリーからインディラー・ガーンディーに移る中でも流れは変わらず、公用語法によって憲法で規定された15年の期限が過ぎた後も連邦公用語としての英語の継続利用が確定し、ヒンディー語はいまだに唯一の連邦公用語になれずにいる。
2026年1月10日公開のタミル語映画「Parasakthi(至高の力)」は、1950年代から60年代のタミル地方で盛り上がった反ヒンディー語闘争を題材にした政治ドラマである。監督は「Soorarai Pottru」(2020年/邦題:ただ空高く舞え)のスダー・コンガラー。音楽監督は「Sarvam Thaala Mayam」(2019年/邦題:響け!情熱のムリダンガム)の主演GVプラカーシュ・クマール。主演は「Amaran」(2024年)のシヴァカールティケーヤン。ヒロインは「Pushpa 2: The Rule」(2024年/邦題:プシュパ 君臨)にアイテムガール出演していたシュリーリーラーで、彼女にとっては本作がタミル語映画デビューとなる。
他に、ラヴィ・モーハン、アタルヴァー、クラップッリ、プラカーシュ・ベーラーワーディー、デーヴ・ラームナート、グル・ソーマスンダラム、サンディヤー・ムリドゥル、チェータンなどが出演している。また、タミル語映画俳優ラーナー・ダッグバーティ、マラヤーラム語映画俳優バジル・ジョゼフ、カンナダ語映画俳優ダナンジャヤがカメオ出演している。
チェリヤン(シヴァカールティケーヤン)は、反ヒンディー語過激派学生組織プラナーヌール・パダイのリーダーだった。1959年、チェリヤンと仲間たちは抗議のために列車の通行を妨害する。この列車に乗っていたのがソビエト連邦の諜報機関KGBで訓練を受けた諜報局(IB)所属の警察官僚ティルナーダン(ラヴィ・モーハン)であった。彼は北インド人とタミル人の間に生まれており、その出自を呪っていた。ティルナーダンは暴徒の鎮圧に乗り出し、列車に火を放ったチェリヤンと戦うが、利き手である右手の人さし指を負傷し、彼を取り逃がしてしまう。このときの怪我によりティルナーダンは人さし指を切断しなければならなかった。警察官にとって、拳銃のトリガーを引く指の損失は致命傷だった。だが、彼は左手で発砲する訓練をしつつ、チェリヤンの行方を探し続けることになる。一方、チェリヤンは相棒のゴーヴィンドを失う。責任を感じたチェリヤンは反ヒンディー語活動から足を洗い、蒸気機関車の火夫になって、弟チンナドゥライ(アタルヴァー)の学費を稼ぐようになる。
チダンバラムのアンナドゥライ大学に通う大学生だったチンナドゥライは、国会議員の娘でテルグ人のラトナマーラー(シュリーリーラー)に感化され、反ヒンディー語学生運動に身を投じるようになった。チェリヤンは弟に、学生運動で時間を無駄にせず勉学に勤しむように釘を刺す。その一方でチェリヤンはラトナマーラーにヒンディー語を教えてもらう名目で接近し、恋仲になる。だが、ラトナマーラーはタミル人でありながらタミル語を守ろうとしないチェリヤンを避けるようになる。その後、チェリヤンは、デリーで受けた昇進試験でヒンディー語の語学力を理由に不合格になったことなどを経験し、ヒンディー語をインドの唯一の連邦公用語にしようとする中央政府の動きにやはり反対しなければならないと考え直す。そしてチンナドゥライの活動に合流する。1965年1月27日、チンナドゥライはマドゥライで反ヒンディー語のデモを主導し、ティルナーダン率いる治安部隊と衝突する。チンナドゥライはティルナーダンによって射殺され、チェリヤンは逮捕される。
ティルナーダンはチェリヤンを拷問し、プラナーヌール・パダイの仲間の名前を吐かせようとする。ティルナーダンの部下イブラーヒーム・カマール(デーヴ・ラームナート)はタミル人でチェリヤンに共感しており、ティルナーダンに内緒でチェリヤンを逃がす。チェリヤンはデリーに逃げ、当地の学生活動家たちと合流する。そして、インディラー・ガーンディー情報放送大臣(サンディヤー・ムリドゥル)に対して直談判する。ガーンディー情報放送大臣は、ヒンディー語を唯一の連邦公用語にする方針について国民投票をすることは認めないが、署名キャンペーンは認める。そして、7日後にコインバトゥールに非ヒンディー語圏の学生から75%以上の署名を集めてくるように指示する。
チェリヤンは非ヒンディー語圏の学生たちと連携し署名をかき集める。そしてその署名をコインバトゥールに運ぼうとするが、ティルナーダンが妨害する。署名は列車によって運ばれるが、ティルナーダンがそれを阻止しようとする。二人の間で死闘が繰り広げられ、機関車は炎上しながら走り続ける。ガーンディー情報放送大臣が待つ駅に列車は入ってきて、署名が入った袋が大量に届く。ガーンディー放送大臣はその後、首相に就任し、父親ジャワーハルラール・ネルー元首相の遺志を継いで、英語を継続利用し、非ヒンディー語圏にヒンディー語の押しつけをしないことを決定する。
タミル語映画はインド各地の映画産業の中でもっとも地元主義が強いが、タミル人の反ヒンディー語闘争を取り上げたこの「Parasakthi」は、特にタミル人のタミル語愛を刺激する映画であった。1950年代から60年代に掛けて反ヒンディー語闘争を率いた実在する学生活動家たちがモデルになっており、映画の最後にはタミル語のために命を捧げた名もなき若者たちに追悼が捧げられていた。
ただ、硬派な政治ドラマというよりも、マサーラー映画的な味付けの方が勝っていた。ヒンディー語そのものや、ヒンディー語を話す北インド人は完全なる悪役扱いで、それを象徴していたのがIBオフィサーのティルナーダンであったが、彼はヒンディー語をタミル人に押しつけて困らせてやろうという政治的目的で動いているようには見えなかった。むしろ、自分の人さし指を奪った主人公チェリヤンに対する私怨を原動力に動いていた。チェリヤンが彼の人さし指を奪わなければこのストーリーは成立しない。つまり、冷静に分析すれば、ヒンディー語云々とは関係ないところで動いている物語だった。
ヒンディー語をインドの唯一の連邦公用語にしようと推進する人々の考えがうまく代弁されていなかったことも、この映画を薄っぺらいものにしていた。当時、中央やマドラス州で政権を握っていたのはインド国民会議派(INC)であり、「Parakakthi」には実在する政治家たちをモデルにしたキャラも多数登場していた。ヒンディー語を巡ってINC内でも意見の対立があったが、当時の言語を巡る政治を取り上げた映画にしては、そういう複雑な政治状況を全く無視しており、とにかくヒンディー語母語話者の政治家たちが支配権の確立や私利私欲のためにヒンディー語を非ヒンディー語圏にまで不当に押しつけようとしているかのような描き方であった。そして、一方的にタミル地方で反ヒンディー語活動に従事する学生活動家たちの主張にばかり焦点を当てていた。
1960年代、タミル地方で特に激しくヒンディー語を拒絶する運動が起こったことで、歴代の首相は一定の譲歩せざるをえず、インド憲法に規定されたはずの、15年以内にヒンディー語を唯一の連邦公用語にするという取り決めは果たされないままになった。その結果、インドはいまでも全国民が等しく理解できる言語を持てずにいる。タミル・ナードゥ州にいたっては、学校教育でヒンディー語が必修になっておらず、タミル人はさまざまな面で不利を被っている。果たしてヒンディー語を唯一の連邦公用語にすることでタミル語が本当に滅んでいたのだろうか。他の非ヒンディー語圏からもタミル人の反ヒンディー語運動の支持があったような描かれ方だったが、タミル・ナードゥ州を除く大半の州では普通にヒンディー語が普及している。それでも各言語は強いままだ。しかも、反ヒンディー語運動が最終的に勝ち取ったのは、英語を1965年以降も引き続き連邦公用語として利用可能にするという譲歩であった。英語を温存することでタミル語が救われるというのもおかしな話である。このような論点に切り込むことができたら、さらに意義のある映画になっていたに違いない。
この映画は単に過去の出来事を蒸し返そうとしただけではなく、現代にまで文脈が通じている。2014年に成立したモーディー政権は、ヒンドゥー教至上主義のイデオロギーの延長線上で、ヒンディー語の使用を推し進めている。一時期、インドの正式国名が「インディア(India)」から「バーラト(Bharat)」になったのではないかと騒がれたが、これはその動きを象徴する出来事だった。モーディー政権時代には大胆な政策が実行されたことが何度かあることから、連邦公用語から英語を排除し、ヒンディー語を唯一の連邦公用語にする政策を実行に移す可能性がないことはない。「Parasakthi」はそれに釘を刺す目的で作られた作品と位置づけることもできる。
主演のシヴァカールティケーヤンは可もなく不可もなくといった演技であった。むしろ主役を食っていたのはティルナーダン役のラヴィ・モーハンだ。執念の警察官を熱演していた。シュリーリーラーはどうしても「Pushap 2: The Rule」の影響でダンサーのイメージが強く、演技をしているところを初めて見たが、こうして見てみると普通のヒロイン女優である。やはり踊りがうまいため、いろいろ使いどころがあり、これからも出番が増えていきそうである。
「Parasakthi」は、南インド各映画界が言語の壁を超えて積極的に北インド市場に切り込んでいこうという汎インド映画全盛の現代において、言語の多様性が維持されたインドの素晴らしさを後押しする内容の政治ドラマだ。ただ、この問題はあまりに複雑すぎて、映画で議論するのは困難だ。どちらかといえば娯楽映画寄りのトリートメントであったが、そうせざるをえなかったというのが正直なところなのかもしれない。ヒンディー語寄りの立場から観ると不満も残るが、言語が映画の題材になるという現象には「さすがインド」と膝を打ちたくなる。今後、各映画界においてこの議論がさらに発展するのを期待する。
