1990年代に活躍した女優の一人にカージョルがいる。「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)や「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)など、時代を代表する映画に出演して来た。1999年にアジャイ・デーヴガンと結婚し、2003年に長女を出産してからは第一線から退き、時々銀幕で姿を見るぐらいになった。ただ、アジャイとのオシドリ夫婦ぶりは業界でも有名で、ブランドアンバサダーとして企業から好印象のため、CMなどへの露出は少なくなかった。2010年には長男も出産している。最近、徐々に映画出演が増えて来ており、2021年1月15日からNetflixで配信開始の「Tribhanga」でも主演を演じている。
題名になっている「Tribhanga(トリバンガ)」とは、インドの舞踊、彫刻、絵画などの芸術においてよく使われる特徴的なポーズのことで、膝と腰と首の3点を曲げる姿勢を言う。オリッスィー・ダンスに特徴的なポーズだ。
「Tribhanga」の監督はレーヌカー・シャハーネー。元々女優として知られており、過去にはマラーティー語映画「Rita」(2009年)も撮っているが、ヒンディー語映画の監督はこれが初めてである。カージョルが主演だが、他に、タンヴィー・アーズミー、ミティラー・パールカル、クナール・ロイ・カプール、ヴァイバヴ・パトワーワーディーなどが出演している。
物語は、祖母、母、娘、女三世代の物語である。祖母のナヤン(タンヴィー・アーズミー)は作家で、家事や育児をせずに執筆活動をしていたために姑と対立し、夫と離婚して子ども2人を育てることになった。その時代、離婚は非常に珍しく、世間から眉をひそめられる行為であった。ナヤンの長女アヌ(カージョル)は女優であった。ナヤンとは対立し、ほとんど口を利いていなかった。ロシア人との間に娘をもうけたが、出産前に別れ、女手ひとつで娘を育てた。アヌの娘マーシャー(ミティラー・パールカル)は保守的な家庭に嫁ぎ、妊娠中であった。また、この三人を結ぶ縦糸となるのが、伝記作家のミラン(クナール・ロイ・カプール)である。ミランはナヤンの弟子で、彼女の自伝執筆を助けていた。
物語はナヤンが脳卒中で倒れ、昏睡状態となるところから始まる。ナヤンと疎遠になっていたアヌは病院に駆けつけ、そこでミランと話す内に、ナヤンとのわだかまりが解けていく。また、アヌはナヤンを恨んでいたが、マーシャーの気持ちを全く考えていなかったことに気づく。とうとうナヤンは目を覚まさずに死去するが、そのときには心なしか、祖母、母、娘のつながりが強くなっていた。
映画のテーマは女性の生き方である。自由に生きようと思えば世間と戦わなくてはならなくなる。たとえ自由を勝ち得ても、今度は家族が犠牲になる。ナヤンは自由な女性であった。夫も、彼女の文学者としてのキャリアを大事にしてくれていたが、姑には理解されなかった。夫が姑を説得できないと見ると、ナヤンは遂に離婚する。離婚は、当時誰も選ばなかった手段であった。こうしてナヤンは自由を勝ち取る。
だが、ナヤンの自由な生き方の最大の犠牲となったのが娘のアヌであった。アヌは、母親が離婚し、旧姓に戻ったため、学校で先生や生徒からいじめられるようになった。また、ナヤンは再婚をしたが、その相手はアヌを性的に搾取するようになっていた。そういうこともあって、アヌはナヤンを嫌うようになり、独立後はほとんど口を利かなくなる。アヌは女優としてデビューするが、歯に衣着せぬ発言と奔放なプライベートライフで、お騒がせ女優として有名となる。ロシア人ボーイフレンドとの間にできた子どもがマーシャーであった。
物語の中盤まで、マーシャーはあまり目立たぬ存在である。一見すると、母親のアヌとうまく行っているかのように見える。だが、妊娠中のマーシャーが、胎児の性別検査を受けたことがアヌに知れたことで、この2人の関係も平穏ではなかったことが明らかになる。
まず、インドでは胎児の性別検査は禁止されている。女児であることが分かると堕胎する例が非常に多いからだ。しかしながら、水面下では性別検査が行われているようで、マーシャーも違法な方法で性別検査をしたのだろう。なぜ性別検査をしたかというと、家族からの圧力であった。マーシャーが結婚した相手は保守的な大家族であった。マーシャーがそういう家族を持つ男性を結婚相手として選んだのは、「普通の家庭」が欲しかったからである。彼女も、アヌの奔放な性生活にうんざりしていた。アヌは保護者会で毎回違う男を連れて来ており、学校では娼婦扱いされていた。そういう母親を持ったマーシャーは、自分の子供に、きちんとした父親、きちんとした家族を持たせたいと思い、わざわざ保守的な家族の男性を選んだのだった。
つまり、ナヤンは保守的な家庭から逃れたくて離婚したのだが、その娘は結婚をせずに子どもを産み、その孫娘はわざわざ保守的な家庭を選んで結婚をした。3世代に渡って、非常に示唆に富んだ人生を送っている。インドの女性は、自由に生きるか、保守的に生きるかの両極端しか人生を選べない。自分自身が自由な人生を選ぶと、子どもの人生は苦しいものになる。だが、保守的な家庭や社会で生きて行こうとすれば、自分の夢を叶えたりキャリアアップしたりすることが難しくなる。インド人女性が抱えるジレンマを、ナヤン、アヌ、マーシャーの三人が体現していたと言える。
アヌはオリッスィー・ダンスの踊り手でもあり、この3人の特徴を彼女が舞踊用語で説明するシーンが映画中にあった。ナヤンは「アバンガ」。左の腰に手を当て、右足に少し体重を乗せるポーズで、モヘンジョダロの踊り子像に既にその原型が見られる。「変人」だが「天才」の象徴とされていた。マーシャーは「サマバンガ」。直立姿勢であり、「バランス」とされていた。そしてアヌは「トリバンガ」。あちこちが曲がりくねった「クレイジー」なポーズである。
ちょっと分からなかったのは、ミランが書き上げたナヤンの自伝の題名が「トリバンガ」になっていたことである。アヌは、自分のことを「トリバンガ」と言ったはずだが、なぜかナヤンの自伝の題名になってしまっていた。
「Tribhanga」は、「女性はこう生きるべき」という規範が強いインド社会において、3世代の女性がそれぞれ選んだ人生を、自伝作家という外部の人間の目から俯瞰した作品である。90年代のヒンディー語映画に親しんだ人なら、カージョルの演技を再度観られるのも楽しみな佳作であった。