
2024年8月9日からJioCinemaで配信開始された「Ghudchadi」は、親子2代が同時並行的に恋愛をするユニークなロマンス映画である。題名の「Ghudchadi」は、ヒンディー語では「घुड़चढ़ी」と書き、直訳すれば「乗馬」という意味だ。だが、これは結婚式の儀式のひとつであり、「花婿を式に行くために馬に乗せ寺院へ連れて行き祈りを捧げ布施をさせる」(大修館ヒンディー語=日本語辞典)ことである。ほぼ「結婚」と同義と考えてよい。映画中でも「結婚」と同義で何度もこの単語が出て来る。ただ、日常的によく使われる単語ではない。
プロデューサーはブーシャン・クマールなど。監督はビノイ・ガーンディー。「Fanaa」(2006年)など、ヤシュラージ・フィルムスの映画で助監督を務めてきた人物で、TVドラマの監督経験もあるが、劇場用長編映画の監督が今回が初である。
キャストは、サンジャイ・ダット、ラヴィーナー・タンダン、パールト・サムターン、クシュハーリー・クマール、アルナー・イーラーニー、アンシャー・サイヤド、アーカーシュ・ダーバーデー、アチント・カウル、ニーラジ・スード、ナーヴニー・パリハルなどが出演している。
サンジャイとラヴィーナーは「Jeena Marna Tere Sang」(1992年)、「Kshatriya」(1993年)、「Aatish: Feel The Fire」(1994年)など、過去に多数の作品で共演してきた。パールトはTVドラマで知名度を獲得してきた男優で、本作が映画デビュー作となる。クシュハーリーは大手音楽配給会社Tシリーズの創始者グルシャン・クマールの娘であり、「Starfish」(2023年)などに出演している。
デリー在住で、男性用下着の営業マンをしていたチラーグ・シャルマー(パールト・サムターン)は、デーヴィカー(クシュハーリー・クマール)と出会い、恋に落ちる。
チラーグの父親ヴィール(サンジャイ・ダット)は陸軍を退役した大佐であった。ヴィールは過去にメーナカー(ラヴィーナー・タンダン)という女性と結婚しようとしたが、ヴィールの母親カリヤーニー・デーヴィー(アルナー・イーラーニー)はカーストの違いを理由にその結婚を認めなかった。ヴィールはアムリターという女性と結婚し、二人の間にチラーグが生まれた。アムリターは既に亡くなっていた。ヴィールは最近、デリーに引っ越してきたメーナカーと再会し、デートを重ねるようになる。だが、実はデーヴィカーはメーナカーの娘であった。メーナカーの夫も既に亡くなっていた。
チラーグはデーヴィカーにプロポーズし、いよいよこれからお互いの家族に紹介しようとしていた。その矢先、ヴィールとメーナカーも再婚を決め、カリヤーニーに報告に行く。カリヤーニーはメーナカーのことを覚えており、再度彼女を拒絶する。それぞれの親が再婚しようとしていることを知ったチラーグとデーヴィカーはショックを受ける。もしヴィールとメーナカーが結婚したら、彼らは兄妹になってしまい、結婚できなくなってしまうのだ。
ヴィールとメーナカーは、チラーグとデーヴィカーが愛し合い、結婚しようとしていることを知って、自分たちの幸せよりも子供たちの幸せを優先しようとする。だが、二人は交通事故に遭い、メーナカーは腎臓を損傷する。デーヴィカーが腎臓を提供しようとするが、DNA検査の結果、メーナカーとデーヴィカーに血のつながりがないことが分かる。実はデーヴィカーは、メーナカーが結婚した男性の連れ子であった。デーヴィカーは、メーナカーが血のつながりのない自分を大切に育ててくれたことを知る。チラーグの心にも、今まで男手ひとつで育ててくれた父親への感謝が湧き起こってくる。チラーグとデーヴィカーは相談し、ヴィールとメーナカーの結婚を優先しようと決める。
一連の出来事を経て、カリヤーニーの心にも変化が訪れていた。カリヤーニーは、カーストの違いにこだわっていたことを恥じ、ヴィールとメーナカー、チラーグとデーヴィカーの結婚を認める。ヴィールとメーナカーは無事に退院し、2組のカップルの結婚式が同時に行われる。
家族と恋愛の間で板挟みになりながら、最終的には自己犠牲を愛の本質として打ち出した、インド映画の良心が詰まった、インド映画らしいロマンス映画であった。ヤシュラージ・フィルムスの映画ではないが、ヤシュラージらしさが感じられたのは、監督の経歴を見ると納得できる。
正直、派手さはない映画である。キャストの中でスターパワーがあるといえるのは、サンジャイ・ダットとラヴィーナー・タンダンのみである。この二人にしても既に最盛期は過ぎており、現役のスターとはいいにくい。若い世代ではパールト・サムターンとクシュハーリー・クマールが主役であるが、どちらもまだ実績の少ない俳優たちである。
また、結婚の障害としてカーストが前面に押し出されているのも古風に感じた。もちろん、現代でもインド社会においてカーストは結婚相手を決める際の最重要ファクターである。だが、近年のヒンディー語映画ではカーストを障害に利用するケースが少なくなってきていた。序盤ではいくつかの結婚式や縁談が描かれるが、その中でカリヤーニーが信心深い上にやたらとカーストにこだわる人物であることが強調され、カーストが主題の映画であることが分かる。ちなみに、カリヤーニー、ヴィール、チラーグなどが属するシャルマー家は北インドのブラーフマンである。一方、メーナカーやデーヴィカーは「パンジャービー」とだけ呼ばれており、カーストは明らかにされていなかった。おそらく、カプール、カンナー、マロートラーなど、パンジャービー・カトリーなのではないかと思われる。「カトリー」は「クシャトリヤ」が訛った形とされ、クシャトリヤ・カーストに当たる。ちなみに、メーナカー役を演じたラヴィーナー・タンダンもパンジャービー・カトリーである。
スターパワーに乏しいこと、そしてカーストを結婚の障害として設定する古風な価値観などから、序盤はこの映画のその後の展開について大した期待もせずに観ていた。だが、ストーリーが進むごとに非常に面白くなってくる。ヴィールとメーナカーが結婚するとチラーグとデーヴィカーが結婚できなくなり、チラーグとデーヴィカーが結婚するとヴィールとメーナカーが結婚できなくなるというジレンマが生まれ、カーストよりも大きな問題として浮上するのである。
普通に考えたら、親世代か子世代のどちらかが結婚を諦めなければならなくなる。どちらを優先するのか、楽しみに観ていた。当然、家族を大事にするインド映画なので、どちらかがエゴを押し通すことはない。ヴィールとメーナカーは子供たちの幸せを優先し、自分たちの幸せを諦めようとする一方で、チラーグとデーヴィカーは自分たちの幸せよりも親たちの幸せを応援しようとするのである。恋愛よりも家族愛を優先し、愛の真意を自己犠牲に求めた、美しい譲り合いであった。
ここでもうひとつサプライズが用意されていた。実はデーヴィカーはメーナカーの実の娘ではなかったのである。デーヴィカーはヴィールとの結婚をカリヤーニーに拒否され、パンジャーブ州に戻って別の男性と強制的に結婚させられた。その男性には既に妻子がいた。男性と第一妻は交通事故で亡くなり、後には第一妻の子供が残された。それがデーヴィカーであった。メーナカーはデーヴィカーを育て、彼女には出生の秘密を明かさなかったのである。それにもかかわらずデーヴィカーは、メーナカーにかつてヴィールという恋人がいたことを知り、彼女が決して父親を愛していなかったと誤解する。その誤解に気付いたとき、デーヴィカーは自分の幸せよりも母親の幸せを優先しようという気持ちになれたのである。
サンジャイ・ダットとラヴィーナー・タンダンは貫禄の演技を見せていた。クシュハーリー・クマールも既に何本も映画に出演していることから、慣れを感じた。だが、パールト・サムターンは、まだしょせんTVドラマ俳優出身という印象を受けた。自信を持って演技をしていたが、押しの弱さを感じた。今後、映画界でのキャリアが積み重なることで自然と改善していくかもしれない。
デリーが舞台の映画であり、デリー各地の有名な観光名所がいくつも登場した。ジャーマー・マスジド、108フィート・ハヌマーン寺院、コンノートプレイス、フマーユーン廟、クトゥブ・ミーナールなどである。元デリー在住者としてはうれしかったが、あまりに有名どころばかりだったので、お上りさん的な視点を感じてしまった。
「Ghudchadi」は、いくつも駄作の兆候が現れている作品である。往年のスターはキャスティングされているものの、全体的にスターパワーは弱いし、序盤に提示される結婚の障害もカーストという非常に古めかしいもので、先行きが不安になる。OTTリリース作であり、つまりは劇場で公開して興行収入が得られるレベルではないと判断されたと見なすことも可能だ。だが、中盤以降、かなり盛り上がってきて、ヤシュラージ映画の雰囲気すら出て来る。残念ながら過小評価をされてしまっただけで、インド映画の良さが詰まった良作だ。観て絶対に損はない。