
2020年12月18日公開の「Omprakash Zindabad」は、強姦被害者への補償金制度悪用を取り上げた風刺映画である。元々は2017年に公開予定だったが何らかの事情で延期され、出演者の一人オーム・プリーの死後、新型コロナウイルスによるパンデミック中に公開された。構想は2012年のデリー集団強姦事件の余波の中で練られたことは確実で、映画の中では社会活動家アンナー・ハザーレーに言及されている。ハザーレーが主にヘッドラインを飾ったのは2011年のジャンロークパール運動のとき(参照)だが、2015年にも土地接収法への抗議運動をしており、映画の撮影はこの頃に行われたと予想される。
監督はランジート・ラウニヤール。この人物については詳しい情報がない。キャストは、オーム・プリー、クルブーシャン・カルバンダー、アバイ・ジョーシー、ザーキル・フサイン、スィーマー・アーズミー、ジャグディープ、シュエーター・バールドワージ、イシュティヤーク・カーン、クシュブー・カマルなどである。
この映画の元々の題名は「Rambhajan Zindabad(ラームバジャン万歳)」だったとされる。ラームバジャンとはアバイ・ジョーシーが演じた村人の名前だ。だが、公開時には「Omprakash Zindabaad(オームプラカーシュ万歳)」に変更された。オームプラカーシュを演じたのはオーム・プリーである。映画の中でオームは確かに重要な役を演じているのだが、どちらかといえば主役はラームバジャンの方に見える。おそらくオームが死去したことで彼を主役に見せた方が集客に結び付くと皮算用して、土壇場で題名が変更されたのではないかと勘ぐっている。
ウッタル・プラデーシュ州バーラーバンキー県のチローンジー村に住むラームバジャン(アバイ・ジョーシー)は4人の子供を抱え、日雇い労働をして貧困生活を送っていた。ラームバジャンの友人で、政府系病院で薬剤師をするオームプラカーシュ(オーム・プリー)は、強姦被害に遭った女性に政府が支払う補償金に目を付け、ラームバジャンに入れ知恵する。妻のシャルバティヤー(スィーマー・アーズミー)を誰にレイプさせれば5万ルピーがもらえる算段であった。当初は拒絶したラームバジャンも、バイク欲しさにそのプランに乗る。
まずはシャルバティヤーをレイプする人物が必要だった。なるべく身分が高く裕福な人物をレイプ犯に仕立て上げる必要があった。そこでラームバジャンとオームプラカーシュは王様(クルブーシャン・カルバンダー)を訪ねる。貧しい生活を送っていた王様は、その計画に渋々乗る。だが、1万ルピーの分け前を払うことになった。
問題はシャルバティヤーだった。彼女は気の強い女性で、レイプ犯を殺してしまう恐れがあった。そこでラームバジャンは理由を付けてシャルバティヤーと子供を実家に帰し、地元では有名なタワーイフ、ディッリー・ラーニー(シュエーター・バールドワージ)を引き入れる。ところが今度は王様がAIDSを恐れてディッリー・ラーニーの強姦を拒否した。ディッリー・ラーニーを引き込んだことで、彼女に入れ込んでいた州議会議員シシュパール(ザーキル・フサイン)が関与してくる。シシュパールは、集団強姦だと補償金額は50万ルピーにもなると入れ知恵し、多額の分け前と引き換えに仲間に加わる。王様は兄の大王様(ジャグディープ)を引き込み、ディッリー・ラーニーを集団強姦することになる。だが、肝心の場面で大王様は心臓発作を起こして死に、王様も脳卒中で倒れてしまった。
それでも、さまざまな人物がこの不正受給に関わったことで、シャルバティヤーに対するレイプが成立し、彼女に成りすましたディッリー・ラーニーは補償金を受け取れることになる。だが、政治家への転向を狙っていたディッリー・ラーニーは密かにシャルバティヤーと連絡を取り、補償金授与の場に彼女を呼ぶ。シャルバティヤーは自分が集団強姦されたことになっているのを知って激怒し、壇上でシシュパール議員などに暴行する。ラームバジャンは補償金を受け取るが、多くの人々への分け前を支払った後に手元に残ったのはたったの500ルピーだった。しかも、不正が明るみに出て、ラームバジャンは逮捕されてしまう。
インドには、災害や事件などの被害に遭った人またはその遺族に政府から補償金が出る制度がある。だが、借金返済や金儲けのために、補償金目当ての制度悪用も横行しており、過去には映画にもなっている。「Omprakash Zindabaad」では強姦の被害にあった女性に支払われる補償金が取り上げられていたが、たとえば「Peepli Live」(2010年)の主題は自殺した農民の遺族に支払われる補償金であった。
2012年のデリー集団強姦事件以降、女性に対する性的暴行はインドの国家的な課題に浮上し、ヒンディー語映画界でもこの問題を取り上げた映画が急増した。それらの映画に共通するのは、女性の安全を守り、男性の意識を変えようとする目的意識であった。だが、「Omprakash Zindabaad」はその潮流から完全に外れている。この映画からは、性暴力に対する批判的なメッセージは全く感じられなかった。
むしろ、強姦をカジュアル化するような言説が感じられ、そこに違和感と危機感を感じた。てっきり、強姦を偽造して政府から補償金をせしめるような筋書きかと思ったが、強姦は強姦として実際に行わせようとしており、強姦に対する罪悪感は希薄だった。ラームバジャンはまず妻を誰かに強姦させようとし、妻が制御できないと分かると、今度はタワーイフを雇って妻の身代わりにし、強姦事件を無理やり作り出そうとしていた。映画の中では「サンプル」と呼ばれていたものは精液のことである。強姦の被害に遭った女性の体内から他人の精液が採取されれば強姦が成立するため、何としてでも精液を「強姦被害者」の体内に注入する必要があった。
さらに、単なる強姦事件よりも集団強姦事件などの方が補償金の額が高いと知ると、どうせなら集団強姦事件を作り出そうとする。集団強姦事件と認定されるためには2人以上の精液が採取されなければならないため、それを準備することになる。
これら一連の流れを見て、そこに強姦に対する罪悪感が全くないことが分かるだろう。当然、女性の感情も置き去りにされている。
強姦事件を演出するためにはレイプ犯を用意する必要もあった。意外だったのは、白羽の矢が立ったのが王様(ラージャー・サーハブ)だったことだ。王様といってもインドでは既に王制が廃止されており、現在「王様」を名乗っているのは名目のみの元王様である。しかも、「Omprakash Zindabaad」に出て来る王族は皆、貧困の中にある。庶民の前では見栄を張って没落ぶりを隠さなければならないため、普通の貧者よりも生きにくいかもしれない。なぜ王様をレイプ犯にしなければならなかったのか。それは、貧しい者同士の強姦事件では世間では誰も注目しないからだ。身分の高い者が身分の低い者をレイプすることで初めて補償金に値する事件になる。もちろん、王様の方もレイプ犯にされてはたまらない。あくまで彼の精液が被害者の体内に残っていることが重要になる。ラームバジャンやオームプラカーシュは、王族の精液は検査すれば王族であることが分かるから、王様が逮捕されなくてもいいと浅はかな考えを抱いていた。
一見するとハチャメチャな計画で、絶対に不正がばれると思われるものなのだが、事件の捜査をする警察、レイプの有無を調べる病院、補償金を与える政治家などがグルになっているため、多少の穴があっても強姦事件は成立してしまう。ならば女性を実際に強姦しなくても成り立つ不正ではないかという始めの問いに戻るのだが、それを主張する者は映画には現れない。
最後は2つのオチで締められていた。ひとつは、ラームバジャンの手元にほとんど補償金が残らなかったというオチだ。あまりに多くの関係者がこの不正に関わってしまったため、それぞれが取り分を取ったことで、当のラームバジャンは500ルピーしか受け取れなかった。最大50万ルピーがもらえそうな勢いだったのだが、それがわずか0.1%になってしまった。もうひとつは、勝手に強姦被害者にされて激怒したシャルバティヤーが大暴れしたために不正がばれてしまい、ラームバジャンが逮捕されてしまったことだ。妻をレイプ被害者に仕立て上げたにもかかわらず雀の涙ほどの補償金しかもらえなかったラームバジャンは、警察に逮捕され、さらに恥をかくことになった。
キャストの中でもっとも有名なのはオーム・プリーであり、彼の老練な演技は職人芸の域に達していた。彼にとっては遺作となった。老いた王様を演じたクルブーシャン・カルバンダーも負けていなかったし、シシュパール議員役を演じたザーキル・フサインも見事だった。王様の兄、大王様を演じていたジャグディープは往年の個性派俳優であり、彼にとっても本作が遺作となった。民謡風の音楽も意外に良く、特にディッリー・ラーニーの登場シーンで流れる「Dilli Mein Killi Do Gaad Dear (Raja Majaraja Ji)」が気に入った。プロットに問題があり、いかにも低予算な映画であるが、見どころはある映画だ。
ラクナウー近くの村が舞台の映画であり、登場人物が話す訛ったヒンディー語はアワディー語を意識している。村人たちは英語が全く分からず、シシュパール議員が見栄を張ってする英語のスピーチもかなりメチャクチャな英語だ。
「Omprakash Zindabaad」は、強姦被害者補償金制度の悪用を描いた作品であるが、不正の手口を面白おかしく描くあまり、強姦をカジュアルに見せてしまっているという欠点があり、問題作だといえる。映画の公開が遅れていたのもこの筋書きと無関係ではなかろう。だが、名優オーム・プリーとジャグディープの遺作の一本であり、低予算映画ながら歌にも光るものがあって、単純に駄作と切り捨てるには惜しい作品だ。