インドと中国はアジアのみならず世界の二大国である。人口においては誰の目にも明らかな大国であるし、国際社会の中でもBRICsの構成国であるこの二国のプレゼンスはもはや無視できなくなって久しい。そんなこともあり、インドと中国、もしくはインド人と中国人は、対比されることも多いし、その二国間関係について、日本の外交戦略も含めて、あれこれ議論されることも多い。中国がチベットを占領して以来、両国は「隣国」となり、国境を接しているが、国境線を巡っては不一致がある。1962年には国境紛争から戦火を交えており、2017年には2ヶ月以上にわたって両軍がにらみ合う一触即発の危機があった。中国はインドを取り囲む南アジア諸国に積極的に投資をし懐柔しており、インドに対して包囲網を敷き圧力をかけ続けている。インドの仮想敵国というとまずパキスタンに目が行くが、インドが本当に軍事上脅威を感じているのは中国である。インド人の対中感情も概して良くない。だが、それでも両国の経済関係は年々強化されており、インドにとって中国はあらゆる意味で重要な国だ。
映画という観点から見ても、インドと中国は「映画大国」という点で共通している。インドは制作本数で長年トップであるし、中国はスクリーン数や市場規模で世界一になろうとしている。ただ、貿易の分野に比べると、両国の映画産業界の交流は、歴史はあるものの、まだごく初期段階と言える。かつて、ラージ・カプールの社会主義的映画などが中国で人気を博した時代もあったが、持続しなかった。近年になってやっと、インド映画が再び中国で公開されるようになり、合作も行われ始めた。「合作」という言葉を広い意味で捉えれば、10年以上前から例がある。
21世紀に入って最初に話題となったごく初歩的な印中合作映画といえば「The Myth」(2005年)である。日本でも「THE MYTH/神話」の邦題で2005年に一般公開された香港・中国映画である。主演はジャッキー・チェンで、これにインド人女優マッリカー・シェーラーワトが、ほとんどカメオと言える端役ではあるが、出演した。マッリカーは「セックスシンボル」として売り出していた女優で、ヒンディー語映画界の中では異端扱いされていたが、そういう状況に置かれていたからこそ、外部に果敢にチャンスを求めたのであろう、ジャッキー・チェンとの共演という栄誉を手にした。
次なる印中合作の映画は「Chandni Chowk to China」(2009年)であった。こちらはヒンディー語主体のインド映画である。日本でも「チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ」の邦題で同年に一般公開された。アクシャイ・クマールとディーピカー・パードゥコーンが主演し、中国でのロケも敢行された。インド人料理人が料理の技とカンフーを融合させ、「デーシー・カンフー(インド風カンフー)」を編み出すという、なかなか面白い設定であった。スターパワーは十分あったものの、特別出来のいい映画という訳でもなく、インドでも日本でも興行は期待外れだった。
「Chandni Chowk to China」の返礼という訳でもないだろうが、今度は中国(香港)が中心になって作った印中合作映画が公開された。中国では2017年1月28日、インドでは同年2月3日に公開された「カンフー・ヨガ」である。日本でも同年12月22日に劇場一般公開となったので観に行った。カンフー映画であることは変わらないが、今度はインドのヨーガと組み合わされている。主演はジャッキー・チェン。インド人俳優のソーヌー・スードやディシャー・パータニーが出演し、一部インドでロケが行われた。監督は「The Myth」と同じスタンリー・トンである。
公式ウェブサイトによると、あらすじは以下の通りである。
古代、天竺(インド)と唐(中国)の間に起きた争乱の末、伝説の秘宝が消えた。時は現代。考古学者ジャックは秘宝を探すため、同じく考古学者にしてヨガの達人であるインド人美女・アスミタらとともに旅に出る。まずは秘宝へと導く”シヴァの目”を探さねばならない。手がかりはたった1枚の古い地図。しかし、謎の一味が秘宝を奪おうと迫る。そして、長い歴史のヴェールにつつまれた伝説が、人類の前に再びその姿を現そうとしているのだった…。
映画の出来について率直かつ簡潔に書くと、「こんなレベルの映画を一般公開している余裕があったら、もっとインド映画も公開してくれよ」である。ジャッキー・チェン主演という一点を売りに、後はあらゆる不都合・不具合に目をつむって公開されているとしか思えない。
ここでは映画の批評は置いておいて、むしろ「中国人が作ったインド的映画」という観点から思ったことを書きたい。
まず、この映画のストーリーは、唐代に生きた実在の人物である王玄策のインド行きをベースとしている。当時、北インドは、ハルシャヴァルダナによって創設されたヴァルダナ朝の支配下にあり、唐との国交があった。王玄策は唐の太宗によってインドに遣わされた使者だったが、647年に彼がインドに到着したとき、ハルシャヴァルダナの死により混乱しており、王位簒奪を目論んでクーデターを起こしたアルジュナによって捕らえられてしまった。しかし、王玄策は脱出し、ネパールとチベットの援軍を引き連れて戻って、アルジュナの軍勢を打ち破った。
以上が史実であり、ここからがフィクションとなる。ヴァルダナ朝(劇中ではマガダ国と呼ばれる)から唐に贈られた財宝があったが、インドと中国の国境で一行は雪崩に遭い、財宝もろとも埋もれてしまった。この財宝の地図が発見されたことから、ジャッキー・チェン演じる考古学者ジャックとその仲間たちの、宝探しの冒険が始まるというわけだ。ジャックのところに地図を持参したインド人美女アスミタ(ディシャー・パータニー)は、実はマガダ国の王家の末裔であり、ジャックたちを邪魔し財宝を横取りしようとするランドル(ソーヌー・スード)はアルジュナの子孫という因縁も後から分かる。
ここまでで不気味なのは、チベットとネパールがあたかも中国固有の領土のように考えられ、インドと中国の国境が崑崙山脈ということになっていたことだ。当時のチベットには吐蕃という独立国があり、崑崙山脈がインドと中国の分水嶺となっていた事実はない。ネパールも当然、中国の属国ではなく、むしろインドのグプタ朝などと関係が深かった。中国の使者がチベットとネパールから援軍を得てインドを打ち破った話は、現代に当てはめて考えたくもなり、それはインドにとって決して快いものではない。
また、ジャックとアスミタは共同研究という形で古の財宝探しに取りかかるが、その際に、この「学術」的な印中協力を、中国が掲げる国際経済圏構想「一帯一路」の一環と表現するシーンがあった。しかもインド人であるアスミタの口から、である。一帯一路への参加・協力を表明している国はインドを含め少なくないが、中国の影響力増大を警戒するインドはその中でも最も消極的な国のひとつである。一体、一帯一路は中国国内でどのように受け止められているのであろうか。映画のネタになるほど浸透しているのか、それともジョーク扱いされているのか。一瞬のシーンであったが、非常に気になった。
物語の後半、舞台はインドに移る。インドの中でもラージャスターン州がフィーチャーされる。ジャイプルのアーメール城やジョードプルのメヘラーンガル城などでロケが行われたようだ。ラージャスターン州は、外国人がインドに対して抱く典型的なイメージとよく合致するので、そのロケ地の選定は定石通りと言ったところだ。それらの歴史的遺構が撮影に活用された他、本当はドバイで撮ったのではないかと思われる砂漠のシーンが登場したり、市場で大道芸人たちが縄登り芸やら火吹き芸やらコブラ使い芸などを披露したりする。完全にお上りさん視点のインド描写であり、かくしてインドのイメージがさらに増幅されることになるのかと感じた。
ジャックたちは崑崙山脈で一応財宝を発見するのだが、これは単なる手がかりに過ぎず、本命の財宝探しはインドで継続する。そして最終的にはとある寺院の地下で巨大な黄金のシヴァ神像を発見する。座禅を組み、瞑想するシヴァ神像である。シヴァ神は元々、男根を象ったリンガの形で信仰されてきており、寺院の本尊に据えられるときは間違いなくリンガの形である。ただし、壁面などの彫刻では人間の形を取ることもある。最近では、巨大なシヴァ神像があちこちに立てられているが、これはごくごく最近のトレンドだ。この財宝は7世紀より古いはずで、シヴァ神が人間の形を取っている点に強烈な違和感を感じた。
そして最大の違和感は映画の終わり方である。悪役であるランドルが倒されてもいず、改心したのかも不明な状態で、突然ダンスが始まり、そのままエンドクレジットとなる。「インド映画は突然、歌と踊りが入る」というあの偏見が、とうとう中国香港映画にまで伝染し、形となってしまった。「Slumdog Millionaire」(2008年)はエンディングのダンス前にまだ物語が完結されていたが、この「Kung Fu Yoga」はダンスで無理矢理終わらせてしまっていたので罪はより重い。悪夢を見ているかのようであった。しかも、そのダンスを振り付けしたのは、インド人振付師の第一人者、ファラー・カーンであるというから二重に驚きだ。南インド映画には多少、今でも唐突なダンスシーンへの移行が見られるが、ヒンディー語映画はかなり洗練されてきており、脈絡のないダンスシーンはほとんど見なくなった。そもそもダンスシーンそのものが減り、音楽はBGMとして使われることが多くなった。一度こびりついてしまった偏見や思い込みを払拭するのは難しいのかもしれないが、現代のインド映画をきちんと観て、そのエッセンスを抽出してもらいたいものである。
「Kung Fu Yoga」は、台本なしに撮影して酔っ払って編集したのかと思われるほど、内容を評価するのが憚られる作品だ。観るだけ無駄だが、ソーヌー・スードやディシャー・パータニーといったインド人俳優が出演した中国香港映画であること、また、印中合作の最新例であることは両国の映画交流史に刻まれることになると思うし、中国がインドをどのように捉えているのかを垣間見ることができる点でも興味深い。