
皆さんは、突然向こうから親しげに話しかけてきた人の名前を思い出せずにばつの悪い思いをしたことがないだろうか。2024年9月27日公開のタミル語映画「Meiyazhagan(メイヤラガン)」は、そんな気まずさがずっと続きながらも感動できる美しいドラマ映画である。
監督は「’96」(2018年)のCプレーム・クマール。プロデューサーは「Soorarai Pottru」(2020年/邦題:ただ空高く舞え)のスーリヤーとその妻ジョーティカー。音楽はゴーヴィンド・ヴァサンタ。主演は「Kaithi」(2019年/邦題:囚人ディリ)のカールティと「Bombay」(1995年/邦題:ボンベイ)のアルヴィンド・スワーミー。
他に、ラージキラン、シュリー・ディヴィヤー、デーヴァダルシニー、カルナカランなどが出演している。
鑑賞したのはNetflixで配信されているバージョンである。劇場公開時には冗長だとの批判があったようで、Netflix版は劇場公開版よりも20分短縮されているという。
1996年、タミル・ナードゥ州の古都タンジャーヴール。一族の中で相続争いがあり、まだ10代の少年だったアルルモリ(アルヴィンド・スワーミー)は住み慣れた屋敷を離れ、チェンナイに引っ越す。
それから22年の月日が流れた。この22年間、アルルモリは一度もタンジャーヴールに帰ろうとしなかった。だが、従妹ブヴァナーの結婚式があり、彼は渋々帰郷することになる。タンジャーヴールを経由し、式が行われるニーダーマンガラムへ向かう。
式場でアルルモリは見知らぬ青年(カールティ)になれなれしく話しかけられる。アルルモリは彼の名前を思い出せなかった。また、彼はピッタリとアルルモリに付き添うため、他の人に彼の名前を聞くこともできなかった。アルルモリはブヴァナーと会い、アルルモリに連れられて式場を後にする。彼は夜行のチェンナイ行きバスに乗るつもりだったが乗り遅れ、その青年の家に泊めてもらうことになる。アルルモリは青年の妻ナンディニー(シュリー・ディヴィヤー)に恭しく迎えられる。
アルルモリは青年とビールを飲んでいる間に、彼との接点を見つける。22年前、アルルモリがタンジャーヴールを去るとき、愛用していた自転車を置いていった。その自転車はその青年の手に渡り、家宝のように珍重された。その自転車のおかげで父親は行商ができるようになり収入が増え、そのおかげで青年と弟はいい学校に通えるようになり、そして彼は父親から一人前として認められるようになった。その青年は今でもその自転車を大事にしていた。
だが、とうとう彼を名前で呼ばなくてはならなくなり、アルルモリは青年が酔っ払って寝ている間に逃げ出す。だが、チェンナイの自宅に帰ったアルルモリは罪悪感にさいなまれるようになった。娘に促され、彼はその青年に電話をかけ、彼のことを覚えていないことを打ち明ける。その青年は1994年の思い出を語り、アルルモリの記憶を呼び起こす。
彼の名前を思い出したアルルモリは翌日ニーダーマンガラムへ直行し、彼に向かって「メイヤラガン」と呼びかける。
「Meiyazhagan」はまず名前にとてもこだわった映画である。どこの国でもどこの文化でも、自分の名前や大切な人の名前は大事だ。だが、インド文化では名前は他国に比べてさらに重要視されていると感じる。たとえば、既婚女性は夫の名前を口にしてはならない。「Laapataa Ladies」(2023年/邦題:花嫁はどこへ?)でも新婚の女性が夫の名前を警察に告げられずに困るシーンがあった。これは男尊女卑の一環であるが、一種の言霊思想のようなもので、名前がその人の名誉や尊厳に関わるものだということも示している。街角で出会って一目惚れした女性の名前を知るために何ヶ月も何年も努力する男性の姿も、古風な恋愛映画ではよく見られる。最近の映画でも、「Love Aaj Kal」(2009年)や「Raanjhanaa」(2013年/邦題:ラーンジャナー)にそんなシーンがあった。
「Meiyazhagan」の主人公アルルモリは、従妹の結婚式でなれなれしく話しかけてきた青年の名前をどうしても思い出せない。以降、この歯がゆさが、インド古典音楽でいうドローン音(持続音)のように、映画の根底にずっと続いている。アルルモリはその青年にとても親切にしてもらい、家にも泊めてもらうが、彼の名前を思い出すことができなかったばかりに、彼が酔っ払って寝てしまった後、いたたまれなくなって逃げ出してしまう。
また、その青年はこれから生まれてくる子供を「アルルモリ」と名付けることを心に決めていた。その青年にとって、アルルモリの存在はそれほどまでに大きかったのである。その愛情や尊敬の深さにもアルルモリは怖くなってしまって逃げ出したのだった。
もちろん、映画の最後で彼の正体は明かされる。アルルモリは彼に電話をし、彼のことを思い出せないと正直に明かして謝る。その青年は多少ショックを受けていたが、元から楽天的な性格であり、すぐに気持ちを取り直して、彼に昔話を語り出す。それによってアルルモリは彼が誰であるのかを思い出す。
その過去のエピソードにも名前が関連している。その青年はアルルモリの遠い親戚の一人であり、1994年の夏休みに彼の家に遊びに来てしばらく滞在したメイヤラガンという少年だった。そう、映画の大部分で彼の名前は明かされないが、実は題名になっていたのである。アルルモリの家族は地元の名士であったが、メイヤラガンの家族は貧しい生活を送っていた。彼にとって、アルルモリの家で過ごした夏休みは、初めてニーダーマンガラムの外に出た思い出として胸に刻まれていた。さらに、アルルモリが彼をとてもかわいがってくれたため、メイヤラガンはアルルモリのことが大好きになってしまっていたのである。特に彼の心に強く残っていたのは、アルルモリが親戚の子供たちを連れて市場に買い物に出掛けたときの出来事である。アルルモリは、買うものを忘れないように、子供たち一人一人に野菜や果物の名前を付ける工夫をした。そのとき、メイヤラガンは「ジャガイモ」と名付けられた。彼はそのことをまるで昨日のことのように覚えていた。
もうひとつ、この映画が語ろうとしていたのは、人生において、自分にとっては大したことのない行為であっても、それが他人にとって非常に大きな恩恵になることがありえるということだ。アルルモリはタンジャーヴールを去るときに自転車を置いていった。そして、誰でもいいから必要としている人にあげるように言付けた。チェンナイに移住したアルルモリはすっかりその自転車のことなど忘れていた。だが、その自転車を受け取ることになったメイヤラガンは大喜びだった。前述の通り、彼は貧しい生活を送っており、自転車はただでさえ贅沢品だった。しかも、彼にとってそれは単なる移動手段でもステータスを高める道具でもなかった。その自転車のおかげで父親の商売が繁盛し、学校に通えるようになり、そして父親から一人前として認められた。男性の人生にとって、父親から一人前として認められる瞬間がどんなに大きな出来事であることか。アルルモリからもらったその自転車がメイヤラガンの人生を変え、少年から大人への階段を上る大切な一歩をもたらしたのである。ホロリとする場面の多いこの映画の中でも、この自転車を巡るエピソードは飛び抜けて秀逸である。
また、アルルモリはメイヤラガンのことを誰とでも打ち解けることのできる朗らかな青年だと評していた。チェンナイという大都会に住むアルルモリにとって、メイヤラガンは田舎に住む純朴な若者そのものであった。だが、メイヤラガンの口から、その性格は幼少時にアルルモリから学んだものだと聞いて驚く。ここでも、本人の知らないところで他人に影響を与えていたのだった。しかも、自分が与えたものを自分で受け取っていた。映画の中で、「他人を通して自分を知る」というセリフが何回が出て来たが、この映画の隠れテーマはまさにこの言葉であろう。
インド映画は伝統的に都会と農村の対比を好んで行ってきたが、アルルモリとメイヤラガンにもその対比が見られる。だが、アルルモリも地方出身者である。都会での生活が、心優しい少年だったアルルモリを暗くしてしまったことでもって、都会生活を批判的に捉える眼差しが感じられる。
さらに、「Meiyazhagan」は、人間が持つ、住居への執着のようなものもよく表現していた。アルルモリは少年時代にタンジャーヴールの住み慣れた家を離れるが、それ以来20年以上、そのことをトラウマのように引きずっていた。人間はそれほど生まれ育った家に深い愛着を抱くものだ。また、チェンナイでアルルモリは家族と共に賃貸物件に住んでいたが、タンジャーヴール旅行をきっかけに、その物件を大家から買い取って自分の家にする計画を妻と共有する。妻はそれを聞いて大喜びする。アルルモリのその決断の裏には当然のことながら少年時代に住み慣れた家を追われた苦い思い出があったことだろう。ここからも、住み慣れた家というのが人間にとってどれほど重要なのかを感じ取ることができる。
主演はアルルモリ役を演じたアルヴィンド・スワーミーの方だと感じたのだが、クレジットではメイヤラガン役を演じたカールティの方が先に来ていた。題名になっているのはメイヤラガンの方であり、近年のスターとしての格もカールティの方が上だが、どちらも甲乙付けがたい演技をしていた。
映画の舞台の一部タンジャーヴールは、世界遺産ブリハディーシュワラ寺院を擁するタミル・ナードゥ州の古都である。映像の中でもアルルモリがタンジャーヴールに列車で到着するシーンでブリハディーシュワラ寺院の空撮映像が使われている。ブリハディーシュワラ寺院を建立したのはチョーラ朝のラージャラージャ1世だが、そのラージャラージャ1世こそが、カールティも出演した大河ドラマ映画「Ponniyin Selvan」シリーズ(2022年・2023年/邦題:PS1 黄金の河・PS2 大いなる船出)に登場するアルルモリである。アルヴィンド・スワーミー演じるキャラクターの名前がアルルモリなのは、彼がタンジャーヴール出身ということと関係があると考えていいだろう。もうひとつの舞台になったニーダーマンガラムはタンジャーヴールから東に30kmほど行った場所にある町である。
タンジャーヴールの辺りはタミル・ナードゥ州の中でも南部に位置づけられる場所であり、この地域では1月のポンガル祭のあたりに「ジャッリカットゥ」という闘牛のような行事が行われる。マラヤーラム語映画「Jallikattu」(2019年/邦題:ジャッリカットゥ 牛の怒り)はジャッリカットゥそのものの映画ではなかったが、題名になっていた。「Meiyazhagan」は基本的に動きの少ない映画であるが、途中でメイヤラガンがジャッリカットゥに参加したことを語る場面があり、迫力のあるリアルなジャッリカットゥの映像が差し挟まれるため、いいアクセントになっていた。
「Meiyazhagan」は、22年ぶりの帰郷という人生の一場面を題材にして、少年時代の思い出とトラウマ、都市と農村の対比、住居への執着、そしてあらゆる行為が巡り巡って自分に返ってくる因果応報の法則など、さまざまなことが語られている感動作である。自転車の描写が特に感動的で、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作イタリア映画「自転車泥棒」(1948年)を想起させるほどだ。タミル語映画の底力を見た。必見の映画である。