Rバールキー監督はアミターブ・バッチャンの大ファンのようで、彼のこれまでの作品には必ずアミターブが出演している。「Cheeni Kum」(2007年)と「Paa」(2009年)である。しかも、どちらの作品でも彼は変則的なアミターブの起用をしている。まずは「Cheeni Kum」でアミターブに、30歳年下の女性に恋する64歳のシェフを演じさせて世間を驚かせた。そして「Paa」に至っては、プロジェリア症候群(早老症)の子供を演じさせた。この作品でアミターブは実の息子であるアビシェークと共演しているが、なんとアビシェークが父親役、アミターブが息子役という、仰天の配役であった。
2015年2月6日公開、Rバールキーの第4作となる「Shamitabh」も、やはりアミターブ・バッチャンを起用。しかも、またもや一筋縄では行かない起用だ。今回のアミターブの役割は、ダヌシュ演じる唖者の若者に声を与えること。言わば、自慢のバリトンボイスに焦点を当てた作品となっている。また、カマル・ハーサンの次女アクシャラー・ハーサンのデビュー作である点も特筆すべきだ。これらの配役を見ると、実は北と南の大スターが世代を越えて揃い踏みしている。アミターブ・バッチャンは言わずと知れたヒンディー語映画界の大御所。それに対し、「Raanjhanaa」(2013年)などでヒンディー語映画にも出演しているダヌシュは、元々タミル語映画界のスターであり、同映画界のスーパースター、ラジニーカーントの娘婿でもある。そして上述の通りアクシャラー・ハーサンはラジニーカーントと並び称されるタミル語映画界の大スター、カマル・ハーサンの娘である。インド映画ファンなら興味を引かれないはずがない。
また、これらの俳優の他に、大女優レーカー、ラージクマール・ヒラーニー監督、ローヒト・シェッティー監督、カラン・ジョーハル監督、マヘーシュ・バット監督、ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー監督、ジャーヴェード・アクタル、エークター・カプールなど、ヒンディー語映画界の重鎮たちが大勢カメオ出演しており、「Om Shanti Om」(2007年)などを思わせる豪華さがある。
作曲は南インド映画界を代表する作曲家イライヤラージャによる。作詞はスワーナンド・キルキレー。題名の「Shamitabh」とは主人公の名前であるが、これは主演のダヌシュの「sh」とアミターブを掛け合わせたものであると同時に、劇中の主役ダーニシュの「sh」とアミターブ(アミターブ・バッチャンは劇中でもアミターブという名の人物を演じている)を掛け合わせたものでもある。
マハーラーシュトラ州の地方都市イガトプリーで生まれ育ったダーニシュ(ダヌシュ)は、先天的に口が聞けなかったが、映画が大好きで、映画スターを目指していた。確かに、見よう見まねで身に付けた彼の演技力は並外れたものがあったが、誰も啞者が俳優になれるとは思っていなかった。ダーニシュがムンバイーに行かなかったのは母親を一人置いて行くことができなかったからだった。だが、その母親が急死したことで、ダーニシュは遂にムンバイーへ向かう。 ダーニシュは当初、スターのヴァニティー・ヴァン(メイク車)に忍び込んで、その中で生活するようになる。ロケ地を巡る中で有名監督たちを見掛けるが、なかなかコンタクトできなかった。とうとう彼は警備員に見つかってしまう。だが、それを見ていた女性助監督のアクシャラー・パーンデーイ(アクシャラー・ハーサン)が彼を助ける。アクシャラーも彼の演技力を認めるが、口の聞けない俳優を起用する監督などいなかった。 アクシャラーは医者である父親に相談する。父親はフィンランドの医者を紹介し、ダーニシュはそこで最新の手術を受ける。その手術は、喉にマイクロチップを施し、対応するイヤホンを付けた他人の声を無線で受信して発声するというものであった。ダーニシュは、限定的ではあったが、初めて声を得る。問題は、誰の声を借りるかということであった。 ダーニシュとアクシャラーは最適な声の主を探す。その中で見つけたのが、飲んだくれのアミターブ・スィナー(アミターブ・バッチャン)であった。アミターブは墓地に住む変人であったが、彼も40年前にスターを目指してムンバイーに来た人物で、重低音の威厳ある声をしていた。しかしながら、彼の声は業界に受け容れられず、とうとう芽も出ないまま、こうして飲んだくれていたのだった。アミターブはダーニシュとアクシャラーの話を聞き、自分の声を映画業界に認めさせるという野望を抱く。ダーニシュはアミターブの声を得た。表向き、アミターブはダーニシュのヴァレット(付き人)として働くことになった。 ダーニシュは、「ダーニシュ」の「sh」と「アミターブ」を掛け合わせ、「シャミターブ」という芸名でセンセーショナルなデビューを果たす。たちまちの内にスターダムを駆け上がり、初年に主演男優賞を勝ち取る。しかし、次第にダーニシュとアミターブの間で確執が生まれる。アミターブは、ダーニシュがスターになったのは自分の声のおかげだと考えており、出演作の選択などに口出しするようになる。一方、ダーニシュはアミターブを使用人扱いする。 二人の亀裂が決定的になったのは、講演をするためにダーニシュがロンドンを訪れた際だった。アミターブは酒に酔って警察に暴行を加え逮捕される。ダーニシュの介入によりアミターブは釈放されるが、それがインドで大々的に報道され、スキャンダルとなる。ダーニシュは謝罪しようとしたが、アミターブが故意にそれを邪魔して謝罪を台無しにし、二人は絶交となる。 アミターブの声を失ったダーニシュは、啞者が主人公の映画を自ら提案する。演技のためと称して彼は撮影中も全くしゃべらずに手話だけで通す。一方、アミターブは、別の映画でどもり症の男優の声を吹き替えることにする。奇しくもダーニシュ主演の映画とアミターブが声を貸した映画が同日に公開され、どちらも大失敗に終わる。 見かねたアクシャラーはダーニシュとアミターブを仲直りさせる。ダーニシュは以前のようにアミターブの声を借りて、アクシャラーの初監督作品に主演することになる。ところが、とあるジャーナリストがダーニシュの秘密を探っており、決定的な証拠を掴んでいた。彼は暴露することを仄めかした。そこでダーニシュは、制作発表の日に自分の声の秘密を世間に公表することを決める。 制作発表の日。アクシャラーは一足先に会場に行き、ダーニシュとアミターブは後から自動車で向かっていた。ところが二人の乗った自動車が事故に遭う。ダーニシュは死亡し、アミターブは声を失った。ダーニシュは、アミターブが自分の埋葬地として予定していた場所に葬られる。
Rバールキー監督の映画全般に言えるのだが、アミターブ・バッチャンのユニークな起用法ありきの、アイデア先行型映画であった。「Shamitabh」では、別の俳優がアミターブの声でしゃべったらどうか、という突拍子もないアイデアから構想が練られたと言える。よって、その部分が楽しめるかどうかが、この映画を楽しめるかどうかの分かれ道となるだろう。他にも、インド映画の舞台裏に詳しい人ならクスッと笑えるような要素が散りばめられており、ネガティブに表現するならば、身内受けを狙った作品だと言える。もしアミターブのスター性を理解しない人が観たら、おそらくこの映画を非現実的なファンタジーとして受け止めるだろうし、ストーリーが説得力を欠いていることも指摘するであろう。
この映画の一番弱いところは、アミターブ・スィナーのようなプライドの高い人間が、ダーニシュの声優を務めることにそもそも同意しないだろう、という点である。もちろん、当初アミターブが拒絶する様子を描いていたが、それでも後に同意するだけの強い動機が感じられなかった。ダーニシュとアミターブの仲違いは半ば予想されたことで、ストーリーの意外性は、ダーニシュがアミターブの声でしゃべるという一点のみで力尽きてしまっていた。映画スターなどを目指す主人公の成功と失敗を描いた作品はインド映画にも多く、この声の点さえなければ、大して新鮮さもないプロットである。
そもそも周囲の人々が、ずっとアミターブが声を貸していることに気付かないことを、すんなり納得できるかどうか、そこが問題だ。無名時代ならまだしも、シャミターブがスターになった後も、同じトリックを続けることが果たして可能であろうか。インド映画全般に言えることではあるが、理屈っぽく考えてしまうと、そこが気になるだろう。
エンディングも無意味に悲しくしていたように感じた。ハッピーエンドに持って行くことも可能だったと思うのだが、なぜこういう終わり方にしたのだろうか。嘘を付いて何かを得た主人公が、良心の呵責などから、その嘘を正直に白状する、というプロットはインド映画の常套手段であり、僕はそれを「インド映画の良心」と呼んでいる。「Shamitabh」もその方向に向かっていたが、ダーニシュはその直前に事故死し、白状はウヤムヤになってしまう。ここでも確かに意外性はあったのだが、この部分は伝統を守っても良かったのではないかと思う。
それでも、インド映画好きなら思わず笑ってしまうようなシーンがいくつかあった。例えば成長したダーニシュはイガトプリーでバスの車掌をしていたが、これはタミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーントが元々バスの車掌をしていたエピソードを踏まえたものであろう。40年前に映画スターを夢見てムンバイーにやって来たアミターブ・スィナーは、その声のせいで、ラジオジョッキーの職さえも得られなかったということを述べていたが、これはアミターブ・バッチャンが実際に経験したことだ。アミターブは今でこそその特徴あるバリトンボイスで有名だが、若い頃、オール・インディア・ラジオ(AIR)に就職しようと面談に行ったとき、その声が気に入られずに、ラジオジョッキーとして雇ってもらえなかった。
そんな監督のちょっとした遊び心の中でも、最も火力があるのはアミターブ・バッチャンとレーカーの擬似的共演である。アミターブ・バッチャンとレーカーはかつて不倫関係にあったとされる。アミターブ、アミターブの妻ジャヤー、そしてレーカーの三角関係は長らくヒンディー語映画界の関心の的で、実際にこの三角関係を映画化したとされる「Silsila」(1981年)も撮られた。だが、この作品以降、アミターブとレーカーはスクリーン上で共演しておらず、イベントなどで同じ場所にいても決して挨拶を交わさなかった。この二人がお互いに無視を続ければ続けるほど好奇心をかき立てられるのか、フィルムフェア賞などのTV中継では、アミターブとレーカーをわざとらしく代わる代わるに映したりしていた。「Shamitabh」では、なんとレーカーを、ダヌシュを媒介としながら、アミターブの「声」と共演させることに成功した。これは「Silsila」以来の快挙だと言えるだろう。インド映画に詳しくない人が見たら何も感じないだろうが、詳しい人にとっては歴史的シーンである。もしかしたらRバールキー監督が一番やりたかったのはこれかもしれない。
ヒンディー語専門家の立場から見ると、「घंटा(ghanta)」の使い方が興味深かった。ロンドンでアミターブが警察に逮捕される事件がインドでスキャンダルとなった後、ダーニシュが報道陣の前でこの言葉を使う。ダーニシュは「शर्मिंदा हूँ(sharminda hoon=恥ずかしいです)」と言おうとするが、ダーニシュに強い反感を抱いていたアミターブは、わざと「घंटा शर्मिंदा हूँ(ghanta sharminda hoon=恥ずかしくないです)」と言う。そう、「घंटा(ghanta)」はスラングで否定辞的な使われ方をするのである。
この単語を大修館書店の「ヒンディー語=日本語辞典」で引いてみると、以下の9つの意味が載っている。
①鐘;釣鐘 ②叩き鐘;鉦 ③鐘や鉦の鳴る音 ④時報 ⑤1時間、すなわち60分 ⑥授業時間など時間の区切り;時報;限⑦授業 ⑧にべもなく断ること;その合図としての親指 ⑨[俗]男根
この中では⑧が最もニュアンスとして近い。なぜ本来「鐘」を意味する単語が否定辞的な使われ方をするのか。その理由ははっきりしないが、その説明として過去に友人から聞いたことがあるのは、こんなエピソードである。
インドの寺院には寺院付きの僧侶がおり、参拝客はいろいろな相談事を持ってやって来る。僧侶は基本的に彼らの相談に乗るのだが、もし答えられないようなことを聞かれた場合、鐘をカンカン打ち鳴らしてごまかす。そういったことが続いたため、「鐘」という単語は、「拒絶」や「空虚」を意味するようになった。
この意味での「घंटा(ghanta)」はインドの若者が好んで使うので、覚えておくといいだろう。単独で使うなら、「ありえねぇ~!」「まさか!」みたいな意味になる。「インド代表がFIFAワールドカップで優勝するってよ」「ガンター!」という具合である。
ダヌシュがタミル語映画界でどういう位置づけにいるスターなのか分からないが、少なくともヒンディー語映画界では不細工俳優の部類に入っている。「Raanjhanaa」でもそうだったし、「Shamitabh」でもルックスが貶められていた。ただ、踊りはうまいし、動きも面白いので、惹き付けるものはある。この路線ならばヒンディー語映画界でも活躍の場はあるだろう。
本作でデビューしたアクシャラー・ハーサンは、姉のシュルティ・ハーサンに比べたら、美貌や体型で劣ると言わざるを得ない。台詞のしゃべり方もまだ未熟だった。シュルティの方はヒンディ語映画界でも既によく知られた名前になっているが、果たして彼女も姉に続くことができるだろうか。やはり特殊な起用のされ方をするのではないかと思う。
イライヤラージャが音楽を担当し、ダヌシュが踊っていたこともあって、歌と踊りには南インド映画のエッセンスが強かった。言い換えるならばナンセンスさだ。特に、トイレを我慢する女優をからかうナンセンスソング「Piddly Si Baatein」は最たるものである。この歌はアミターブ・バッチャンが歌っている。ただ、映画界を舞台にしているため、たとえナンセンスな歌であっても、唐突な入り方をしている曲はなく、ヒンディー語映画の特徴であるスムーズなダンスシーンへの移行を守っていた。
「Shamitabh」は、アミターブ・バッチャンのユニークな起用法で知られるRバールキー監督の最新作。今度はアミターブ自慢のバリトンボイスに焦点を当て、タミル語映画のスター、ダヌシュがアミターブの声を借りてしゃべるという突拍子もないストーリー。アイデア勝負の作品で、その部分が楽しめるなら観る価値はある。だが、全体的にファンタジー色が強く、理屈っぽい観客には向かない映画であろう。