2012年6月15日の週は「Ferrari Ki Sawaari」が意外なヒットとなっているのだが、その裏で非常に気になる映画が公開されていた。最高級映画館PVRディレクターズカットで1日1回のみ上映の「Kshay」という映画である。白黒映画というのもユニークながら、ロサンゼルス・インド映画祭やニューヨーク南アジア国際映画祭などで受賞しており、出来も良さそうだった。カラン・ガウル監督は元々サウンドエンジニアを勉強し、作曲などをしていたようなのだが、今回脚本を書き上げ、ほとんど一人で、4年掛けて映画を作り上げた。90分ほどの映画で、知名度の高い俳優は全く出演していない。監督のインタビューによれば、強迫観念を映像化した作品だと言う。何かとても惹かれるものがあり、平日でもチケット代が850ルピーもする高級映画館に足を運んだ。
監督:カラン・ガウル
制作:カラン・ガウル、シャーン・ヴャース
音楽:カラン・ガウル
出演:ラスィカー・ドゥッガル、アーレーク・サンガル、スディール・ペードネーカル、アーディティヤワルダン・グプター、ニティカー・アーナンド、アスィト・レーディジ、アシュヴィン・バールージャー、スィッダールト・バーティヤー
備考:PVRディレクターズカットで鑑賞。
下位中産階級の女性チャーヤー(ラスィカー・ドゥッガル)は、夫のアルヴィンド(アーレーク・サンガル)と共にムンバイーの古びたアパートに住んでいた。アルヴィンドはバープー(スディール・ペードネーカル)の下で建築業に携わっていたが、思うような給料はもらえず、二人は貧しい生活を送っていた。チャーヤーは第一子を流産しており、医者によればもう子供はできないとのことであった。
ある日チャーヤーは道端で、飛んで来た三角形の石によって右頬に切り傷を負う。そのときチャーヤーは偶然若い彫刻家(アーディティヤワルダン・グプター)の作業場に入り、そこに置かれていた未完成のラクシュミー像に魅了されてしまう。値段は1万5千ルピーだと言う。チャーヤーはとりあえず自分の頬を傷付けた三角形の石を持って帰る。
チャーヤーは、同じアパートに住むシュルティー(ニティカー・アーナンド)から、チャーヤーと似た境遇だったガーヤトリーという女性がラクシュミー女神の礼拝を毎日欠かさずにしていたら子供を授かったという話を聞き、何としてでもラクシュミー像を買おうと考え始める。しかし、1万5千ルピーものお金は手元にはなかった。しかもアルヴィンドは建築業の仕事を辞め、友人と衣料品ビジネスを始めてしまう。しばらくまとまったお金は入って来そうになかった。
アルヴィンドはビジネスの関係で1週間ほど家を空け、チャーヤーが留守番することになる。一人になったチャーヤーはますますラクシュミー像への欲求を募らせ、家具や調理器具を売り払ってしまう。それでも全く足りなかった。そこでシュルティーが付けていた金のラクシュミー・ネックレスを騙し取り、売り払ってしまう。8千ルピーほどにはなかったが、まだ足りなかった。チャーヤーの精神は次第に蝕まれて行き、治りかけていた頬の傷を三角形の石で傷付けて傷口を広げてしまう。
帰宅したアルヴィンドは家に何もないのを見て驚く。チャーヤーが未だにラクシュミー像を諦めていないのを知って憤るが、チャーヤーの精神状態がおかしいことに気付き、何としてでもお金を手に入れようと奔走し始める。アルヴィンドはアースィフ(アスィト・レーディジ)から拳銃を借り、バープーから未払いの給料を脅し取ろうとする。ところがバープーに不意を突かれ、アルヴィンドは殺されてしまう。
夫が死んだことでチャーヤーの手元にはアルヴィンドの定期預金が入って来た。そのおかげで1万5千ルピーが揃い、チャーヤーはやっと念願のラクシュミー像を購入する。家具もなく、夫もいないガランドウの部屋の中でチャーヤーはラクシュミー像の前で微笑んでいた。
子供がおらず、子供を産めない身体になってしまった主婦の女性が、「子供が欲しい」という欲求を募らせる中で、子供を授かるための手段のはずだった未完成のラクシュミー像をいつの間にか目的にしてしまい、強迫観念の中で精神的な腐敗に陥って行く様子を、現実と夢と妄想の入り交じる白黒の映像で追った実験的な作品であった。主人公チャーヤーの執念を特殊効果を交えた様々な方法で映像化しており、精神をえぐられるような映像体験が続く。最後にはチャーヤーはラクシュミー像を手に入れるのだが、そのときには子供を作るのに必要な夫は既に亡かった。それでもチャーヤーはラクシュミー像を手に入れた喜びに不気味な笑みを浮かべているのだった。
夢や妄想の映像も多いのだが、現実世界に存在する「物」にも、チャーヤーの精神状態が象徴されたり反映されたりしていた。例えばチャーヤーは未完成・不完全なものに異常な執着を示す。未完成のラクシュミー像や黒ずんでしまったラクシュミー像ペンダントなどである。これは、子供を産めないという、女性として不完全な自己の状態の投影だと考えていいだろう。頬の傷もこの不完全さの象徴だと言える。しかしながら、もっともインパクトが強いのは道端で拾った三角形の石である。この石は彼女の頬に大きな傷を付けるのだが、チャーヤーはそれを家に持って帰り、大事に扱う。この石が何を象徴しているのか、それを判断するのは難しい。おそらく見る人によってそれぞれ感じるものがあるだろう。映画の中に出て来る映像や台詞をヒントにするならば、それは完全なものの破片であり、そしてその不安定さが暴力性をもたらしている武器である。チャーヤーが何度も見入るテレビCMの中で、ガラスが割れてその三角形の破片が飛び散るものがある。LGのCMである。また、インド神話によると、ドゥルガー女神は悪魔マヒシャーを退治する際に10の武器を使ったのだが、チャーヤーは三角形の石を11番目の武器だと表現していた。それらを考え合わせると、三角形の石もやはり不完全さの象徴である。チャーヤーは、子供を授かることで「完全体」になることを目指していたのだが、それは無理であることも心の中で自覚しており、無意識の内に自分と同じ「不完全性」に執着するようになったと言える。苦悩するチャーヤーの手の中には必ずこの三角形の石があった。
一人の女性の強迫観念を映像化したこの映画は、はっきり言ってどんなホラー映画よりも怖い。日本のホラー映画が世界に誇る、精神を蝕むような怖さが「Kshay」の中にはあった。おそらくここまで「恐怖」という感情を掘り下げることに成功したインド映画は他にあまりないだろう。そういう意味で非常に重要な映画である。ひとつ批判をするならば、夫アルヴィンドにまでその精神的腐敗が伝染する姿を描写した終盤のシーンは蛇足だと感じた。チャーヤーの心理のみに焦点を当てた方がより引き締まった映画になっただろう。
主演のラスィカー・ドゥッガルはインド映画テレビ学校の卒業生で、今まで「Anwar」(2007年)、「No Smoking」(2007年)、「Tahaan」(2008年)などに出演しているが、それほど名の知られた女優ではない。しかし非常に芯のある演技をしていた。アーレーク・サンガルは舞台俳優としてのキャリアが長いが、「Summer 2007」(2008年)などの映画にも出演している。醸し出す雰囲気がこの映画の雰囲気と完全に一致していなかったように感じたが、悪くない演技であった。
カラン・ガウル監督は元々サウンドエンジニアだっただけあり、音にも非常に凝った映画だった。この種の低予算映画では音声がおろそかになることが多いと思うのだが、むしろこの映画は視覚情報が白黒のみであることもあってか、音が異常に脳を刺激する。
「Kshay」は白黒、90分、スターキャストなし、限定公開と、突然変異的な作品であるが、「インド映画」というカテゴリーがもはやカテゴリーとして通用しない時代が来ようとしていることを予見させるだけのインパクトを持った映画だ。斬新な試みが随所に見られるが、「もっとも恐ろしいインド映画」と手っ取り早いレッテルを貼っても宣伝しても差し支えないだろう。こういう方向性の映画も今後伸ばして行ってもらいたいものだ。