2023年5月12日公開の「IB71」は、第三次印パ戦争前夜における印パ間の政治的駆け引きを題材にしたスパイ映画である。「IB」とは「Intelligence Bureau」の略で、実在するインドの国内諜報機関のことだ。対外諜報機関のRAW(研究分析局)が首相直下であるのに対し、IB(諜報部)は内務省下にある。「71」とは1971年のことだ。この年の12月3日には第三次印パ戦争が勃発したが、それよりもむしろ、同年1月30日に起こったインディアン航空ハイジャック事件を中心に描いている。
1971年1月30日、シュリーナガル空港を飛び立ちジャンムーに向かっていたインディアン航空の飛行機が全国解放戦線(NLF)に所属する2名の分離派テロリストによってハイジャックされた。飛行機には32名の乗客と乗員が搭乗していた。飛行機はラホール空港に着陸し、ハイジャック犯たちは服役中だったNLFのメンバーの釈放を求めた。インド政府が一旦はハイジャック犯たちの要求を呑んだため、乗客は解放され、インド国境まで陸路で送られた。
この事件は後に起こった第三次印パ戦争の勝敗を大きく左右したとされる。なぜならインドはこの事件をきっかけにパーキスターンの航空機がインド上空を飛行することを禁止したからだ。当時、東パーキスターンと西パーキスターンに分かれていたパーキスターンは、この措置によって空軍の東西間移動が困難になってしまった。パーキスターン側は、このハイジャック事件はインド側の陰謀だったと主張している。
「IB71」は、パーキスターン側のその主張に乗って作られた映画だ。IBのエージェントがハイジャック事件を故意に起こし、インド政府に飛行禁止の口実を与えることに成功したことになっている。それがどこまで真実なのかは不明であるが、元RAWエージェントのRKヤーダヴが著した「Mission RA&W」(2024年)でも同様の主張がされており、あながち完全な作り話とは言い切れない。
監督はサンカルプ・レッディー。彼は前作「The Ghazi Attack」(2017年)でも第三次印パ戦争前夜の映画を作っている。主演はヴィデュト・ジャームワール。他に、アヌパム・ケール、ヴィシャール・ジェートワー、スヴラト・ジョーシー、アシュワト・バット、ダリープ・ターヒル、ホビー・ダーリーワール、シャーナワーズ・プラダーン、ニハーリカー・ラーイザーダーなどが出演している。
東パーキスターンでは独立運動が激化し、パーキスターン軍による自国民の弾圧が行われていた。パーキスターン政府は暴動鎮圧を名目に東パーキスターンの軍備を増強していたが、実は中国と結託してインドに戦争を仕掛け、ノースイーストをインドから切り離そうと計画していた。そのためには、中国から購入した戦闘機40機を西パーキスターンから東パーキスターンに移動させる必要があった。
諜報部(IB)のエージェント、デーヴ(ヴィデュト・ジャームワール)は東パーキスターンに潜入し、パーキスターン軍の動きを察知して、IBのNSアヴァスティー長官(アヌパム・ケール)に報告する。だが、1966年に印パ間で調印されたタシュケント宣言により、インドは戦争時でなければパーキスターンの航空機がインド上空を飛行することを禁止できなかった。タイムリミットは10日だった。
デーヴは、相棒のエージェント、サングラーム(スヴラト・ジョーシー)から、カースィム・クレーシー(ヴィシャール・ジェートワー)という17歳のテロリストのことを聞く。カースィムは警察のインフォーマーになっていたが、実はテロ組織と密通しており、ハイジャックを企てていた。デーヴはサングラームと共にシュリーナガルへ飛び、カースィムのハイジャック計画を後押しする。ハイジャックを飛行禁止の口実にするためだった。
カースィムは従弟のアシュファークと共にシュリーナガル発ジャンムー行きの飛行機をハイジャックする。だが、その飛行機はデーヴが用意したもので、30名の乗客・乗員もIBのエージェントだった。パイロットはデーヴが務めていた。ただし、民間人も一人乗ってしまっていた。
ハイジャックされた飛行機はラホール空港に降り立つ。カースィムは管制塔と交信し、インドの刑務所に服役している36人の分離派テロリストの釈放を求めた。インド政府はあっけなく要求を呑む。その動きを不審に感じたパーキスターン軍のアブドゥル・ハミード・カーン将軍(ホビー・ダーリーワール)は諜報機関ISIのアフサル・アーガー長官(アシュワト・バット)に警戒させる。
ハイジャックされた飛行機に乗っていた30名の乗客・乗員はホテルに移された。アフサル長官は彼らの正体を探ろうと躍起になるが、デーヴはアフサル長官らを縛り上げて閉じこめる。そしてうまく切り抜けてインド国境に辿り着く。カースィムはハイジャックした飛行機を燃やしてしまう。乗客・乗員の無事を確認したアヴァスティー長官は国防省にパーキスターン航空機のインド上空飛行禁止を要請する。
ヴィデュト・ジャームワール主演映画というと十中八九、その高い身体能力を活かしたアクション映画である。当然、大半の観客もそれを期待して「IB71」を観ることになる。アクションシーンがなかったわけではない。だが、アクションが主体の映画ではなかった。敵国に潜入したエージェントの映画で、どちらかといえばなるべく目立たないようにジッと耐え忍ぶ時間帯が長かった。そういう意味では期待外れなのだが、第三次印パ戦争前にこのようなハイジャック事件があり、それが戦局に大きな影響を与えた可能性があることはこの映画を観て初めて知った。この事件が本当にインドの諜報機関によって仕組まれたものなのかは分からない。だが、戦争の勝敗というのは、実際の戦争以外にも多くの要因によって決まるものだという知見が得られる作品であった。
ヴィデュト演じるデーヴが有能なエージェントであることは、冒頭、彼が東パーキスターンに潜入して仲間を助け出すシーンで存分に説明されている。だが、それ以外の彼の情報がほとんどない。エージェントだから素性は明かされない、という言い訳も通用するかもしれないが、やはりもう少しデーヴのキャラクターに人間らしい深みが欲しかった。
分離派テロリストにわざと飛行機をハイジャックさせたということになっていたが、その過程があまりにご都合主義で、説得力を持っていなかった。結局、実行犯であるカースィムが世間知らずすぎてまんまとIBの罠にはまってしまっただけなのだが、こんな稚拙な作戦がトントン拍子に進んでしまうことは半ば信じ難かった。
実際にシュリーナガルでロケが行われている。ダル湖に浮かぶハウスボートの上で逃亡劇が繰り広げられたり、シカーラー(舟)でのチェイスがあったりして、インド随一の風光明媚な観光地として知られるシュリーナガルの美観や特徴がうまく活かされていた。
パーキスターンの諜報機関ISIは、インディラー・ガーンディー首相の息子で、当時はパイロットをしていたラージーヴ・ガーンディーの操縦する飛行機をハイジャックしようと企てたとされる。だが、RAWが事前にそれを察知し、逆にその計画を利用して、パーキスターンの飛行機がインド上空を飛行することの禁止に持って行ったというのが、前述のRKヤーダヴの主張である。
映画の中ではラージーヴの名前も一瞬だけ言及があった。その母親であるインディラー・ガーンディー首相にも触れられていた。だが、実在する人物はパーキスターン側に多く登場していた。ヤヒヤー・カーン大統領、ズルフィカール・アリー・ブットー、アブドゥル・ハミード・カーン将軍などである。
「IB71」は、サンカルプ・レッディー監督が「The Ghazi Attack」に続いて第三次印パ戦争に絡む物語を映画化した作品だ。ハイジャック事件自体は実話であるが、そのハイジャックがインドの諜報機関の仕組んだものだったのかについては不明であり、映画化するにあたって大いにフィクションが混ぜ込まれている。インド映画がパーキスターン側が主張する陰謀論をベースに愛国主義的な映画を作るという現象は興味深い。しかしながら、ヴィデュト・ジャームワールの派手なアクションがあるわけでもなく、いまいち見所に欠ける作品で終わってしまっている。