ヒンディー語映画界には、過去に起こったテロ事件を実行犯の立場から描いた作品群が存在する。1993年に起きたボンベイ連続爆弾テロ事件を題材にした「Black Friday」(2007年)や2008年のムンバイー同時多発テロ事件を題材にした「The Attacks of 26/11」(2013年)が代表例だ。
2022年10月15日にBFIロンドン映画祭でプレミア上映され、インドでは2023年2月3日から劇場一般公開された「Faraaz」も、テロ事件の実行犯に焦点を当てた作品のひとつだ。ただ、変わっているのは、インドではなくバングラデシュで起きたテロ事件を取り上げている点である。2016年7月1日に首都ダッカで起きたレストラン襲撃人質テロ事件が題材になっている。この事件では7人の日本人も犠牲になっており、同国に進出する日本企業にも大きな衝撃を与えた。バングラデシュ人ジャーナリストのヌールッザマーン・ラーブーが著した「Holey Artisan: A Journalistic Investigation」 (2017年)に基づいた映画だ。
監督は「Shahid」(2013年)や「Aligarh」(2015年)で有名なハンサル・メヘター。プロデューサー陣にはTシリーズのブーシャン・クマール社長の他に「Ra.One」(2011年/邦題:ラ・ワン)などを撮ったアヌバヴ・スィナーの名前が見える。
ただ、キャストに有名な俳優はいない。主演はシャシ・カプールの孫ザハーン・カプールで、本作がデビュー作だ。他に目立つのはラージ・バッバルの娘ジューヒー・バッバルぐらいだが、映画界で有名な女優ではない。ほとんどが新人俳優で、アーディティヤ・ラーワル、ジャティン・サリーン、アーミル・アリー、サチン・ラールワーニー、ニナド・バット、ハルシャル・パワール、パラク・ラールワーニー、レーシャム・サハーニーなどが出演している。
ちなみに、題名の「Faraaz」は主人公の名前である。映画中、その名前の意味も述べられる。それによると、この名前は「高くそびえ立つ者」を意味するとのことである。
2016年7月1日、バングラデシュの首都ダッカにある高級レストラン「ホーリー・アーティザン」を武装した5人のテロリストが襲撃した。テロリストたちはバングラデシュ人イスラーム教徒以外を次々に殺害し、残った人々を人質に取った。 まずはバングラデシュ都市警察(BMP)が現場に近づいたが、テロリストから銃撃を受け、何人かが命を落とす。BMPの警視総監が部隊を率いて突入するが、やはり反撃に遭って隊員を失う。即応部隊(RAB)とSWATが到着し対応するが、首相からは突入を制止され、交渉を指示された。 一方、レストラン内ではテロリストのリーダー、ニブラース(アーディティヤ・ラーワル)が人質の中にファラーズ・ホサイン(ザハーン・カプール)を見つけていた。彼らは大学時代に面識があった。ファラーズの母親スィミーン(ジューヒー・バッバル)は実業家ラティーフル・レヘマーンの娘で、政治的な影響力もあった。 夜が明けるとニブラースは人質を解放する。だが、ファラーズが連れていた2人の女性、アーイシャー(レーシャム・サハーニー)とターリカー(パラク・ラールワーニー)は解放しようとしなかった。ファラーズは彼女たちを守るためにテロリストに抵抗する。ニブラースは3人を撃ち殺す。 スィミーンは解放された人質の中にファラーズの姿を見つけられなかった。スィミーンは、ファラーズが正義のために自身を犠牲にしたことを察知する。
映画の原作になっている本は、ジャーナリストが独自の捜査をした上で書いたものである。よって、映画にはかなりの事実が含まれていると期待される。しかしながら、どうも事件の忠実な映画化というわけではなさそうだ。例えば、この事件では7人の日本人が殺されたが、映画の中では日本人は一人しか出て来ず、しかも最終的にはテロリストによって解放されていたため、生き残っている。
また、もしこの映画で描写されているような展開だったとすれば、バングラデシュ政府にとって非常に都合の悪い情報になる。テロリストが人質を取って立て籠もるレストランを治安部隊が取り囲んだはいいが、ほとんど何もせず、手をこまねいているだけだった。また、ほとんどの人質は無事に解放されたが、映画で語られているところでは、それは治安部隊による救出作戦が成功したからではなく、テロリストが「目的は達成した」として自ら人質を解放したに過ぎなかった。つまり、バングラデシュ政府は完全なる無能扱いである。
ただし、実際には軍隊や治安部隊が事件発生翌朝に「サンダーボルト作戦」を実行し、テロリストと銃撃戦を繰り広げた末に人質を救出したとされている。作戦の様子を撮影したビデオも出回っており、こちらの方が事実だと考えられる。よって、この映画は事実を忠実に再現することを目的としていないことが分かる。
ではこの映画が何を訴えたかったかといえば、この事件でテロリストに殺されたファラーズ・ホサインの存在である。バングラデシュでは「7/16事件」と称される、同国最悪のこのテロ事件では、イスラーム教の原理主義的な過激思想に染まった若者たちが実行犯になり、20人を殺害した。このような事件が起きると、イスラーム教はますますテロと結びつけて考えられるようになる。だが、犠牲者の一人ファラーズもイスラーム教徒であった。テロリストはイスラーム教徒は殺そうとしなかったが、彼はテロリストに立ち向かっため殺されたのだった。過激思想に洗脳されテロ行為に走るイスラーム教徒もいれば、ファラーズのように、イスラーム教の真の精神である平和と寛容を信じ、人のために生きようとするイスラーム教徒もいる。
近年、インドではヒンドゥー教至上主義を掲げるインド人民党(BJP)が支配的になっており、イスラーム教徒に対する迫害が進んでいる。「Faraaz」はイスラーム教徒のテロリストを取り上げた映画ではあるが、決してイスラーム教徒を糾弾するような内容ではなく、むしろ一般の良心派イスラーム教徒を擁護する内容になっている。バングラデシュを舞台にしているものの、十分にインドにも文脈が通じる映画だ。
言語の面では写実性を無視しており、全ての登場人物はヒンディー語を話す。バングラデシュの国語がベンガル語であることは言わずもがなだ。その点でも、バングラデシュ人に向けて作られた映画ではなく、インド人向けの映画であることが分かる。
そのメッセージはともかくとして、映画としてはスローペースすぎて退屈であった。特に人質を取ってからのテロリストの行動は牧歌的すぎるし、治安部隊側もほぼ動きを止めており、何も動かないじれったい時間帯が長く続く。事実の忠実な映画化という目標も当初から捨てていると思われるので、どうせならもっと緊迫感のある脚本にすべきだったのではなかろうか。
この映画でデビューしたザハーン・カプールは、特に容姿や体格が優れているわけでもなく、スターとして定着するとは思えない。この「Faraaz」のようなシリアスな映画で演技派男優を目指すことになるのかもしれない。
「Faraaz」は、2016年にダッカで起きたテロ事件を題材にしたヒンディー語映画である。バングラデシュ人がヒンディー語を話しているのには違和感を感じるが、イスラーム教を巡る内容であり、現代のインド人に向けて作られた映画だ。ただし、人質テロ事件にもかかわらず、スローペースすぎて緊迫感に欠け、退屈さは否めない。