1232 KMS

3.5
1232 KMS
「1232 KMS」

 2019年末から中国を中心に蔓延が始まった新型コロナウイルスは、2020年初めには世界中に拡散し、インドでも2020年1月30日に初の陽性者を検出した後、患者数が急増していった。インド政府は3月20日以降、段階的にロックダウンを開始し、24日にはインド全土が完全にロックダウン下に置かれた。このロックダウンは数度の延長を経て5月31日まで続いた。

 コロナ禍により影響を受けなかった人は皆無といっていいだろうが、特に大打撃を被ったのが都市部に出稼ぎに出ていた日雇い労働者たちだった。ロックダウンになって外出が禁止されたことで彼らは収入源を絶たれ、家賃と食費だけが積み重なっていくことになった。多くの労働者たちはロックダウンをかいくぐって故郷に戻ろうとした。ただ、公共交通機関はストップしてしまっている。だから彼らは徒歩や自転車で故郷を目指し始めたのである。

 2021年3月24日からDisney+ Hotstarで配信開始された「1232 KMS」は、ロックダウン中に故郷を目指して陸路を移動し始めた労働者たちを追ったドキュメンタリー映画である。監督は「Miss Tanakpur Haazir Ho」(2015年)のヴィノード・カープリー。2020年4月末から5月にかけてウッタル・プラデーシュ州最西部ガーズィヤーバードを飛び出してビハール州東部サハルサーに向かって自転車で走る若い労働者の一団が主な被写体になっており、監督自身は自動車に乗りながら道中の彼らの様子を映し出している。

 ドキュメンタリー映画なので、彼らが途中で出会う人々やアクシデントなどが生々しく映っている。ガーズィヤーバードを出るときは、外出禁止を守らずに移動する労働者たちを警察が厳しく取り締まっており、彼らもビクビクしながら自転車を走らせていた。大通りだと目立つため、村の中を通り抜けるような裏道を使って移動をしていた。ガンガー河の渡河地点であるブラジガートでは、橋の上で警察の検問があり、故郷を目指して陸路を移動する人々を警棒で叩いて追い払っていた。そこで彼らは自転車を舟に乗せて河を渡ったという。

 ただ、ウッタル・プラデーシュ州の内部に入っていくと、親切な警察も現われる。警察から食料を渡されることもあった。それを見て安心した労働者たちは久々に公共水道で水浴びをし、垢を落とす。その内、トラック運転手の助けも得られるようになる。親切なトラック運転手がたくさんいて、自転車で移動中の彼らを荷台に載せてくれたのである。そのおかげでかなり時間の短縮および休養になっていた。

 ロックダウン中のインドの街の風景が時々見えて興味深いが、意外に往来があることに驚く。また、基本的に店は閉まっているのだが、困っている人がいればシャッターを開けて対応していた。村では普通に漁などをしていたし、厳格なロックダウンが行われたのは都市部だけなのかもしれない。

 ウッタル・プラデーシュ州を横断して州境を越えビハール州に入ると、労働者たちは小躍りして喜ぶ。ところがビハール州に入ってからが大変だった。州境では帰還する労働者たちの受け入れをするブースが出ていたが、決して彼らを歓迎しているわけではなかった。新型コロナウイルスが外部から持ち込まれるのを防ぐため、労働者たちは隔離される。しかもアレンジが悪くて、長時間食事や水を与えられなかったり、汚い場所を寝床として提供されたりする。

 何度も健康チェックを受けた後、ようやく故郷の村に戻るが、彼らは学校の校舎に閉じ込められ、そこからさらに14日間の隔離生活を送らされる。

 1232kmの距離を自転車で走破するというだけでもドラマ性があるが、だんだん彼らと一緒に旅をしている気分になっていき、村が近付くにつれて笑みが止まらなくなる様子にも共感できた。そして最後に村で家族と再会できたときにはホロリと来るものがあった。

 それにしても、インド人の若者たちにとって母親の存在はあまりに巨大だ。道中で彼らは口を揃えて「早くお母さんに会いたい」と言っていたし、頻繁に母親とビデオチャットをして近況を報告していた。妻や子どもがいる人でも、まず口に出るのは母親であり、インド人男性のマザコンぶりが改めて浮き彫りになっている。インドにおいて「愛情」とは、男女の愛よりもまずは母子の愛だ。インド人女性にとって息子が生まれるかどうかは人生の分かれ目だが、それはなにも家系の存続という理由だけではなく、本当に女性の味方になってくれるのは息子だけというインド社会の実情もあるのだろう。

 ヴィノード・カープリー監督は第三者的な視点でビハーリー労働者たちの苦難を記録していたが、よくよく考えてみるとコロナ禍において彼はどういう扱いになっていたのか気になる。例えば労働者たちは故郷の村で14日間の隔離になったが、カープリー監督は一緒に隔離されなくてよかったのだろうか。ロックダウンはたとえ映画監督であっても適用されるだろうが、彼が自由に移動して撮影できていたのはなぜだろうか。細かい部分を見ていくと疑問が尽きない。

 ほとんど監督自身が一人で作ったような低予算映画だが、音楽には意外なビッグネームが参加している。作曲はヴィシャール・バールドワージ、作詞はグルザール、歌手はスクヴィンダル・スィンとレーカー・バールドワージである。

 「1232 KMS」は、コロナ禍初年にインドでおよそ2ヶ月にわたるロックダウンが行われ、食い扶持を失った出稼ぎ労働者が一斉に故郷に向けて移動し始め、それが全国的な大移動に発展した頃の記録映像で、デリー近辺からビハール州まで自転車で戻ろうとする労働者たちの果てしない移動を追っている。一説によるとロックダウン中には3千万人が移動し、印パ分離独立以降最大の人口移動だったとされているが、このドキュメンタリー映画で被写体になった人々は基本的に自転車で移動していることもあって、それほど苦難に満ちた旅路でもない。彼らは時折明るい表情も見せる。道中にはいくつかのドラマがあり、それがいい山場になっている。最後、ようやく家族と再会できた場面では思わず感動してしまうことだろう。ちなみにカープリー監督は撮影時の体験を元に「1232 KMS」という本も著している。