2019年2月1日に公開されたタミル語映画「Sarvam Thaala Mayam」は、インド古典音楽の打楽器ムリダンガムの職人家系に生まれたムリダンガム奏者の青年の物語である。2018年の東京国際映画祭で「世界はリズムで満ちている」の邦題と共に上映され、2022年10月1日から「響け!情熱のムリダンガム」の邦題と共に劇場一般公開された。なんと、東京都にある南インド料理店「なんどり」のオーナーが、インド映画好きが高じて日本配給権を獲得し、劇場一般公開が実現したという。ちなみに、原題の意味は「世界はリズムで満ちている」の方が近い。公開前に日本語字幕付きのオンライン試写で鑑賞し、このレビューを書いている。
「Sarvam Thaala Mayam」の監督はラージーヴ・メーナン。彼が最後に撮った映画は「Kandukondain Kandukondain」(2000年)であり、実に19年振りの監督作になる。彼はタミル語映画「Bombay」(1995年/邦題:ボンベイ)、ヒングリッシュ映画「Morning Raga」(2004年)、ヒンディー語映画「Guru」(2007年)などで撮影監督も務めている。
音楽監督は巨匠ARレヘマーンである。音楽がテーマの映画に彼の起用ができたのは心強い。ただ、劇中で主人公ピーターが師匠に寄せる想いを歌った非常に印象的な「Varalaama」だけはメーナン監督自身が作曲している。また、ピーターと恋人サラとの間のロマンスの主題歌となっていた「Maya Maya」は、ARレヘマーン自身が作曲したヒンディー語映画「Raanjhanaa」(2013年)の「Ay Sakhi」と同じメロディーである。ARレヘマーンは時々違う映画で同じメロディーを使い回している。
主演はGVプラカーシュ・クマール。ARレヘマーンの甥に当たる人物で、音楽家でもあり、俳優でもある。ムリダンガムの演奏が必要なこの映画の主演には打って付けだが、それでも彼はこの映画のためにムリダンガムの猛特訓をしたようだ。他に、ネドゥムディ・ヴェーヌ、アパルナー・バーラムラリ、ディヴィヤダルシニ、ヴィニート、クマラヴェール、スメーシュ・S・ナーラーヤナンなどが出演している。
舞台はタミル・ナードゥ州チェンナイ。ムリダンガム職人ジョンソン(クマラヴェール)の一人息子ピーター(GVプラカーシュ・クマール)は、タミル語映画界のスーパースター、ヴィジャイの大ファンで、ファンクラブの熱心な会員であった。ピーターの関心事は映画のみだったが、ムリダンガムの巨匠ヴェンブ・アイヤル(ネドゥムディ・ヴェーヌ)の演奏を聴いたことで一気にムリダンガムに惚れ込む。だが、ピーターの家系は不可触民であり、ヴェンブ・アイヤルはブラーフマン(バラモン)であった。ピーターはヴェンブの弟子になりたいと申し出るが、ヴェンブは彼を家の中に入れようともしなかった。また、ヴェンブの一番弟子マニ(ヴィニート)はピーターを執拗に追い払おうとしていた。また、ピーターには看護師をする恋人サラ(アパルナー・バーラムラリ)がいた。 ピーターはムリダンガムへの情熱を捨てきれず、ヴェンブを追い回して懇願し続ける。その熱意に負けたヴェンブはピーターを弟子にし、ムリダンガムを教えることにする。だが、ピーターが弟子入りしてからマニは虫の居所が悪くなり、とうとうヴェンブと対立して出て行ってしまう。マニは、TV局に勤める妹アンジャナー(ディヴィヤダルシニ)が立ち上げた音楽タレント発掘番組「サンギータ・サムラート(音楽の王)」のスコアラーに起用され、TV界で名の知られた音楽家になっていく。ピーターの兄弟弟子ナンドゥ(スメーシュ・S・ナーラーヤナン)はアンジャナーにスカウトされ、ヴェンブに内緒で「サンギータ・サムラート」に出演しようとするが、直前で辞める。その代わりにピーターが出演することになってしまい、そこでマニと一悶着を起こす。これがニュースで報道されたことでヴェンブの怒りを買い、ピーターは破門されてしまう。 師を失ったことでピーターは落ち込むが、サラから世界そのものがリズムの師匠だと啓蒙され、修行の旅に出る。ピーターはインド中を旅して行く先々のリズムを吸収する。一方、マニとピーターがいなくなった後、一番弟子扱いになっていたナンドゥであったが、既に昔の人となりつつあったヴェンブに将来性を感じなくなり、「サンギータ・サムラート」に出演して名声を獲得するため、ヴェンブの元を去る。ヴェンブは、妻にたしなめられたこともあり、ピーターを探す。ヴェンブに呼び戻されたピーターは感激し、よりいっそう練習に励むようになる。そして、師の許しを得て、「サンギータ・サムラート」に出場する。 マニは同番組の審査員になっており、ピーターに低い得点を付ける。だが、ピーターの演奏は他の審査員や観客から評判が良く、決勝戦まで勝ち残る。対戦相手は、今やマニの弟子になっていたナンドゥであった。そこでピーターは、インド中を旅して身に付けた独創的なリズムを披露し、ナンドゥを圧倒する。その演奏を見ていたヴェンブは、新しい時代が来たことを予感し、ピーターを正式な後継者と認める。
表向きは音楽映画であった。だが、実態はカースト問題を取り上げた映画であった。タミル語映画界はインドでもっとも積極的にカースト問題をストーリーに組み込んでいると聞くが、ヒンディー語映画ほど網羅的に観ていないので、自分の言葉でそれを主張することはできない。だが、「Sarvam Thaala Mayam」を観たことで、何となくそれを感じることができた。
日本語字幕では直球の表現がなかったが、主人公のピーターは明らかに不可触民の出自であった。名前や教会に参拝するシーンから彼の家系がキリスト教を信仰していることが分かるが、高位のキリスト教徒ではなく、差別から逃れるためにヒンドゥー教から改宗した人々だということが分かる。ただ、いくらキリスト教に改宗したといっても、差別にそう変化はなかった。一度、父親と共に故郷に帰ったシーンがあったが、そこでチャーイ屋の店主から差別的な扱いを受けていた。都会で生まれ育ったピーターは不可触民差別に無頓着なところがあり、もしかしたら都市部ではだんだんそれは過去の遺物になりつつあるのかもしれない。だが、農村部ではまだ強烈な差別が残っている様子が示唆されていた。ちなみに、劇中では、ムリダンガムの制作には牛や水牛の皮が使われると語られる。動物の皮革を扱うのは一般的に不可触民の仕事であり、それ故に彼らは不可触民として扱われているのだと思われる。
一方、ムリダンガムの巨匠ヴェンブ・アイヤルはブラーフマン(バラモン)である。額のティラクや服装、それにタミル・ブラーフマン特有の「アイヤル」姓からもそれが分かる。ヴェンブは自分の家を「寺院」と表現し、その寺院に不可触民であるピーターは足を踏み入れることはできないと語る。ヴェンブの弟子入りを望むピーターは、カーストを理由に断られてしまったのである。
ただ、厳格なカースト主義者かと思われたヴェンブは、意外にあっさりとピーターの弟子入りを認める。なぜそんな心変わりがあったのか、映画の中でははっきりとは描写されていない。ピーターの熱心さに負けたという解釈はできるが、インドにおけるカースト制度の根の深さを考えると、熱意で乗り越えられるようなものでもないのでは、と感じてしまう。この辺りは唐突なように感じたが、とりあえず、ヴェンブはピーターの才能を直感したと捉えておこう。ヴェンブにとってはブラーフマンとして不可触民との接触を避けることも重要だったが、ムリダンガム奏者として、天賦の才能を無視できなかったのであろう。
だが、ヴェンブの一番弟子マニはピーターと同門になったことに我慢ならなかった。しかも、彼もピーターの才能を薄々感じていた。マニはピーターに何かと冷たく当たったが、師匠から「嫉妬している」と喝破されたことで激怒し、出奔してしまう。以降、彼は悪役に転向していく。
ただ、マニも最後の最後にはピーターを認めていた。インド中を旅行し、一回りも二回りも成長したピーターは、TV番組で独創的なリズムを披露する。今まで審査員としてピーターに低い得点を付けていたマニも、彼に10点満点を付け、絶賛する。そして、ヴェンブはピーターを自身の後継者として認める。「ムリダンガムは井戸ではなく川である」という真理をヴェンブはピーターから学んだのである。
この「井戸」は2つのことを暗喩していると考えられる。ひとつは伝統に固執する態度である。ヴェンブにも独創的な時代はあったが、一度巨匠として名声が確立してしまうと、守りに入って、同じリズムの繰り返ししかしなくなっていた。彼はそれを伝統と呼んでいたが、それは実のところ狭い世界に自らを閉じ込める「井戸」であった。インド中の音楽からリズムを学んだピーターは、その殻を打ち破り、ムリダンガムの無限の可能性を示したのだった。
もうひとつの「井戸」は、ブラーフマンしか後継者にはなれないという限定である。序盤のヴェンブはピーターを家に入れることすら拒んだが、相次いで弟子が去って行ったことで、これでは彼の音楽の系譜は彼で終わってしまうという危機感が募った。そして、一連の出来事を通して、出自にこだわらず、才能ある若者に惜しげなく知識と経験を注ぎ込むことで、インド古典音楽は無限の発展をしていく可能性を秘めていることが訴えられていた。
ブラーフマンから不可触民へ、という形の系譜の継承は、インド社会が不可触民差別を克服しようとした際に必ず通らなければならない道である。これが音楽のみならず、あらゆる分野について言える。14億人の人口を14億人のパワーに変えるためには、インド人全体が「井戸」から抜け出なければならないという力強いメッセージが発信されている映画であった。
ただ、ロマンス部分はこの映画の弱点だ。ピーターとサラの恋愛はほとんどすれ違いで終わってしまっており、映画のラストでもほとんど無視されてしまう。ピーターはとにかくムリダンガムを追い求め、サラは二の次だ。サラもピーターのその探究を応援する。ただそれだけであり、この後二人はどうなるのかは、ヒントすら出されない。
ピーターがインド中を旅する様子は、タイトルソング「Sarvam Thaala Mayam」で一気に描写される。個人的にはもっと発展させて欲しかったシーンでもあった。見たところ、ジャンムー&カシュミール州、メーガーラヤ州、ナガランド州、パンジャーブ州、ラージャスターン州あたりを旅行しているように見えた。ロケ地として特定できたのは、ジャンムー&カシュミール州シュリーナガルのダル湖に浮かぶウーント・カダル橋、メーガーラヤ州の「生きている根の橋」、ラージャスターン州のキーンウサル(Khimsar)であった。
「世界はリズムで満ちている」という意味の原題、そして自然をリズムの師匠とする下りからは、2022年に亡くなったカッタクの巨匠パンディト・ビルジュー・マハーラージの言葉をふと思い出した。彼もダンスの原点を自然としており、カッタクは自然の模倣から始まったと語っていた。
また、インドの芸術論では「गायन वादन नृत्यन」、つまり「歌唱、演奏、舞踊」という言葉があり、この順番で尊いとされている。つまり、インド古典音楽の世界では、声楽が最高の地位を与えられており、演奏や舞踊はその下に置かれる。さらに、どうも打楽器であるムリダンガムは楽器の中でも下位に位置づけられているようであった。ヴェンブはムリダンガム奏者としてムリダンガムの地位向上に一生を捧げ、巨匠と呼ばれるまでになったのである。「ムリダンガムのトリニティー」と呼ばれている3人の有名な奏者(パラニ・スブラマニア・ピッライ、パールガート・マニ・アイヤル、ラーマナータプラム・ムルガブーパティ)がおり、ヴェンブは彼らがモデルになっていると思われる。ちなみに、インド古典音楽の世界では、かつて低俗とされた楽器の地位向上に貢献した音楽家たちが何人もいる。シェヘナーイーのビスミッラー・カーン、サントゥールのシヴクマール・シャルマー、ガタムのTHヴィナーヤクラームなどが例として挙げられるだろう。
「Sarvam Thaala Mayam」は、普段あまりスポットライトを浴びることが少ない楽器であるムリダンガムを前面に押し出した音楽映画という一面もある。ARレヘマーンが音楽監督を務めており、音楽の良さは筋金入りだ。だが、それよりも重要なのは、この楽器を通してカースト問題に切り込んでいる点である。終わり方はあまりに理想主義的であり、娯楽映画の域は出ていないし、ロマンス要素も生焼け気味ではあったが、素晴らしい音楽と相まって、とても後味のいい映画に仕上がっている。必見の映画である。