ヒンディー語の筆記に使われるデーヴァナーガリー文字は、基本的に書いてある通りに読めばいいので楽だ。世界には、文字を覚えただけでは単語や文が読めないという言語がたくさんある。漢字の特殊な用法が異常に発展している日本語はその代表だ。それらの言語に比べるとヒンディー語は初学者にとって取っつきやすい言語だといえる。
ただ、文字と音がかなり一対一対応しているように見えるデーヴァナーガリー文字にもいくつか例外があり、その内のひとつが「ख़्व」の発音である。これはいわゆる結合文字というもので、構造上は「ख़(Kha)」の子音と「व(va/wa)」がくっ付いた形になっている。
「ख़」はペルシア語からもたらされた外来の発音であり、音声学上は軟口蓋摩擦音と呼ばれている。喉の奥の方から出す「カ」の音であり、いびきを真似た「カ」の音に近い。「ख़」の音はカタカナで正確に表記できないので、ここでは便宜的に「カ」としている。アルファベットでは有声軟口蓋破裂音「ख(kha)」と区別するために、頭文字を大文字にして「Kha」にしている。
「ख़्व」は、「ख़」の半子音字「ख़्」に「ワ」または「ヴァ」と発音する「व」が続いている。アルファベットで表記される際は「Khwa」と表記されることが多い。
文字の上では、「ख़्व」は「Khwa(クワ)」などと発音すべきように見える。だが、実際には「व」の子音「v/w」は無視され、単独の「ख़」と同じ発音になる。つまり、「Kha(カ)」である。
「ख़्व」の文字はペルシア語からの借用語にしか現れず、単語数も少ないのだが、ヒンディー語映画音楽の歌詞で好んで使われるいくつかの単語にこの文字が入っており、日常生活の場面よりもむしろ、ヒンディー語映画を観る際によく遭遇する特殊な結合文字だといえる。
例えば、「夢」という意味の「ख़्वाब」は、アルファベットでは「Khwaab」などになるだろうが、発音は「カーブ」である。「願望」という意味の「ख़्वाहिश」は、アルファベットでは「Khwaahish」などになるだろうが、発音は「カーヒシュ」である。
「ख़्वाहिश」は、「Khwahish」(2003年)や「Hazaaron Khwaishein Aisi」(2005年)などの映画の題名にもなっている。
「Koi… Mil Gaya」(2003年)のタイトルソングの最初のラインでは、「ख़्वाब」と「ख़्वाहिश」が並べて使われている。聴き取ってみると、「クワ」などとは発音していないことが分かるだろう。
ख़्वाबों, ख़यालों, ख़्वाहिशों को चेहेरा मिला
मेरे होने का मतलब मिला
कोई मिल गया
हाँ कौन मिल गया?
कोई मिल गया
夢と思考と願望が顔を持った
私の存在する意味が分かった
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誰が見つかった?
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「否応なしに」や「きっと」を意味する副詞「ख़्वाहमख़्वाह」もインド人がよく使う単語であり、映画の台詞でも頻出する。アルファベットにすれば「Khwaaha-m-Khwaah」などになるだろうが、簡略化されて「Khamakha」などと表記されていることも多い。発音も既に「ख़ामख़ा」になっている。「Kaun Pravin Tambe?」(2022年)に「Khamakha」という曲があった。サビの部分を聞いてみると、「ख़ामख़ा」と歌っている。
ख़ामख़ा ख़ामख़ा
ग़म न कर ख़ामख़ा
ख़ुद को यू
नम न कर ख़ामख़ा
否応なしに
悲しむな、否応なしに
自分をそんなに
涙で濡れさせるな、否応なしに
ただし、大半のインド人は、外来の音である「ख़(Kha)」を正確に発音できないため、有声軟口蓋破裂音である「ख(kha)」、つまり、日本語の「カ」を多量の息と共に発声する発音で代用している。
映画音楽ではないが、インド人ラッパー、ラフタールとブローダーVの「Naachne Ka Shaunq」では、「ख़ामख़ा」が「かめはめ波」と韻を踏まれていて面白い。
मैं हूँ गोकू, किसी से बिड़ाएगा
बेटा ख़ामख़ा में तू कामेहामेहा खाएगा
俺は悟空、誰もかなわない
おい、お前、無闇にかめはめ波を喰らうぜ
余談だが、デーヴァナーガリー文字が読めない人が「ख़्व」も文字を見たら、ピカソの肖像画を連想するかもしれない。絵文字として使えそうだ。