大ヒットの予感がする「Bhool Bhulaiyaa」(2007年)に続けて、2007年10月12日公開、ヤシュラージ・フィルムス制作の「Laaga Chunari Mein Daag」も鑑賞した。ジャンルは全く異なる映画だったが、同時公開された両作品は偶然にも、どちらもヴァーラーナスィーが舞台の映画であった。
監督:プラディープ・サルカール
制作:アーディティヤ・チョープラー、プラディープ・サルカール
音楽:シャンタヌ・モイトラ
作詞:スワーナンド・キルキレー
振付:ハワード・ローゼンマイヤー
衣裳:サビヤサーチー・ムカルジー、マニーシュ・マロートラー、スバルナー・ラーイチャウドリー、シラーズ・スィッディーキー
出演:ジャヤー・バッチャン、ラーニー・ムカルジー、コーンコナー・セーンシャルマー、アヌパム・ケール、クナール・カプール、アビシェーク・バッチャン、ヘーマー・マーリニー(特別出演)、ムラリー・シャルマー(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。
ヴァーラーナスィーのガンジス河畔の古い邸宅に住む退職教師シヴシャンカル・サハーイ(アヌパム・ケール)は、大学から年金を止められ経済的に困窮しながらも、宝くじに望みを託して生きる毎日を送っていた。妻のサービトリー(ジャヤー・バッチャン)が内職をして家計を支えていた。二人には2人の娘がいた。長女はバルキー(ラーニー・ムカルジー)、次女はチュトキー(コーンコナー・セーンシャルマー)。経済的理由のため、バルキーは10学年までしか教育を受けられなかった。年長のバルキーは家計が苦しいのを知っていたが、何も知らないチュトキーは天真爛漫な性格であった。サービトリーもバルキーも、何とかチュトキーの勉学が滞らないようにと努力していた。
シヴシャンカルには勘当された兄弟がいたが、父親の死後、邸宅の権利を巡って兄弟の間で裁判が続いていた。シヴシャンカルには金もなく、また息子もできなかったため、立場は不利であった。それを知ったバルキーは、ムンバイーに出て仕事を探すことを決意する。
バルキーは、映画業界で働くソフィーの家に居候しながら仕事を探すが、学位も経験もない彼女はなかなかいい職に就くことはできなかった。ソフィーの隣人カランが勤める会社の社長と出会い、仕事が見つかりそうになる。だが、それには身体を売ることが条件だった。ヴァーラーナスィーの家に立ち退き命令が出され、シヴシャンカルが病気で倒れたこともあり、バルキーはその交換条件を呑むことにする。だが、身体を捧げた後も社長は仕事をくれなかった。裏切られたバルキーは決意し、ナターシャと名を変えて高級エスコートガールの道を歩む。
高額の収入を得ることになったバルキーは、家に多額のお金を送金する。そのお金のおかげでチュトキーは大学を卒業でき、シヴシャンカルも回復し、崩れかけの家も修理でき、立ち退き命令も撤回された。だが、バルキーの悲壮な決意を家族の中で唯一知っていたサービトリーの顔からは笑顔が消えてしまう。
また、シヴシャンカルの甥のラタンは、急にシヴシャンカルが羽振りがよくなったのを不審に思い、調査に乗り出す。そして彼はバルキーの秘密を突き止める。バルキーは口止め料として彼らに毎月2万5千ルピーを支払うことを契約させられる。
チュトキーはムンバイーの広告代理店に就職が決まり、突然バルキーの家に転がり込んで来る。バルキーは妹に自分の本当の職業を隠していた。チュトキーの新しい人生はうまくスタートし、ヴィヴァーン(クナール・カプール)というボーイフレンドもできる。やがてヴィヴァーンとチュトキーの結婚が決まる。ヴァーラーナスィーで結婚式が行われることになった。当然バルキーも出席しようとしていたが、サービトリーは近所が不審がっていることを伝え、彼女に帰って来ないように言う。バルキーは急用ができたと言ってチュトキーを1人ヴァーラーナスィーに送ろうとするが、不審に思ったチュトキーは、飛行機の出発時間が遅れたこともあり、ムンバイーの家に戻って来てしまう。そしてバルキーがエスコートガールであることを知ってしまう。
チュトキーはショックを受けるが、家族のために姉が自身を犠牲にしていることに今まで気付かなかったことを悔い、彼女に許しを乞う。そして、もうエスコートガールをやめるように説得し、そして姉が来なければ結婚式はしないと主張する。バルキーは仕方なくチュトキーと一緒にヴァーラーナスィーに帰る。サービトリーはバルキーが帰って来たことに驚くが、こうなってはもう遅いので、後は神様に任せて結婚式の準備を始める。だが、ラタンはバルキーと接触し、邸宅からの立ち退きを要求する。バルキーは一応シヴシャンカルにそのことを切り出すが、彼は受け入れようとしなかった。
ヴィヴァーンと祖母がヴァーラーナスィーにやって来た。だが、驚くべきことに、ローハン(アビシェーク・バッチャン)も同伴していた。バルキーはチューリッヒに行ったとき、ローハンと出会っていた。そのとき2人はお互いに一目惚れしたが、それっきり会うことはなかった。なんとローハンはヴィヴァーンの兄だった。ローハンはバルキーにプロポーズする。
どうしたらいいか分からないバルキーは、母と妹に相談する。断ったら最悪チュトキーの縁談までキャンセルされる恐れがあるし、承諾したら一生そのことを隠し通さなければならなくなる。サービトリーはバルキーを結婚式に出席させたことを後悔するが、チュトキーは、姉が今まで家族のためにしてきた献身を強調し、受け入れるべきだと言う。バルキーはローハンのプロポーズを受け入れる。
そのとき結婚式に叔父とその息子ラタンが殴り込んで来た。だが、ヴィヴァーンとローハンの前に2人は成す術がなかった。シヴシャンカルは一度に強力な息子を2人得たのだった。こうしてローハンとバルキー、ヴィヴァーンとチュトキーの結婚式が行われた。
爆弾が不発に終わった・・・。映画を見終わった直後の感想はこれであった。
インド映画には、特にファミリードラマ映画には爆弾が不可欠である。幸せな一家を一瞬でバラバラにしてしまうほど強力な爆弾・・・。それは禁断の不倫であったり、誰かの陰謀であったり、突然の死であったり、隠されていた生い立ちであったり、何でもいい。伏線が巧妙に仕組まれていれば仕組まれているほど、爆発が映画中の家族やスクリーンの前の観客に及ぼす威力が強くなる。そして壊された家族の絆や尊厳を取り戻す過程が映画の見せ所となり、観客の涙となるのである。「Laaga Chunari Mein Daag」にも、絶好の時限爆弾が仕掛けられていた。それは、バルキーの職業である。経済的に困窮した家族を救うためヴァーラーナスィーからムンバイーに職探しに来たバルキーは、都会の荒波に揉まれ、弱みに付け込む卑怯な男に騙され、とうとうエスコートガールに身を落としてしまう。そのおかげで家計は立ち直ったが、ヴァーラーナスィーという保守的な土地柄、もし彼女がエスコートガールをしていることが知れ渡ったら、もはや家族は故郷に留まっていられないほどの醜聞となる。当然、これがいつか爆発するものだと思っていた。
導線に火は灯されていた。父の邸宅の所有権横取りを狙う叔父は、息子のラタンをムンバイーに送り込み、バルキーの秘密を嗅ぎつける。一応は口止め料を徴収することで保留状態としたが、欲望には限りがなく、チュトキーの結婚式を台無しにしてやると脅して、邸宅を何が何でも奪おうとする。また、妹のチュトキーにもばれてしまうが、彼女は姉を軽蔑するどころか、今まで姉の苦しみを気付かなかったことを謝罪する。この火は火薬まで届かず、逆に観客の涙腺を直撃した。それでも、チュトキーの結婚相手ヴィヴァーンとその祖母という誘爆物が転がり込んで来た。大爆発は必至であった。
ところが、爆弾は爆発しなかった。爆発は未然に防がれた。爆弾を爆発させようと叔父とラタンはチュトキーの結婚式に乱入したが、ヴィヴァーンとローハンがやって来たのを見て、何もできずにあっけなく引き下がってしまう。ヴィヴァーンを演じたクナール・カプールと、ローハンを演じたアビシェーク・バッチャンは、どちらも長身の男優であり、この二人が並ぶと迫力がある。その効果を狙ったキャスティングだったのだろう。二人の活躍によってバルキーの正体は結婚式の参列者にばれずに済んだ。また、バルキーはローハンに自ら自分の職業を打ち明けるが、ローハンはさらにバルキーを尊敬するようになる。こうして2組の結婚式は無事終わり、めでたしめでたしとなった。ハッピーエンディングは良かったのだが、爆発を期待していた観客には拍子抜けであった。もう少し絶体絶命の危機を演出した方が映画は盛り上がったのだが・・・。
思い返してみると、プラディープ・サルカール監督の前作「Parineeta」の最後も同じような展開だったような気がする。サイフ・アリー・カーン演じるシェーカルが結婚式当日にラリター(ヴィディヤー・バーラン)の行動の真実を知り、狂ったように壁を壊して向こう側に立つラリターのところへ進み寄るシーンは感動的なのだが、シェーカルとラリターの仲を認めなかった父ナヴィーン・ロイは、ただベランダから「やめろ!」と叫ぶだけでシェーカルの行動を積極的に止めようとせず、抱き合う二人を見て苦々しい顔をしながら家の中へ入ってしまうと言うちょっと謎の展開だった。それで映画は終了してしまい、その後ナヴィーン・ロイが二人にどのように接したのかは語られていない。よって、「Parineeta」の最大の爆弾であったナヴィーン・ロイに最後の最後で謎の妥協をさせて、半ば強引にストーリーをハッピーエンディングに持って行った感があった。シェーカルのお見合い結婚相手ガーヤトリーがどう反応したかも描写されなかった。やはり爆弾がクライマックスで爆発しなかったのである。ただ、「Parineeta」では、結婚式の参列者たちがシェーカルの味方をしたため、ナヴィーン・ロイが妥協せざるをえない雰囲気が十分説明されていた。だが、「Laaga Chunari Mein Daag」では、叔父とラタンがおめおめと引き下がる理由が説明不足で、「アレッ?」と思っている間に終わってしまったため、感動が半減であった。
田舎から出て来た純粋無垢な女性が、都会の罠にはまって汚され、身を売る羽目に陥ってしまう、という筋書きも、説明不足で陳腐であった。いくら騙されたからと言って、いくら家が苦しいからと言って、そう簡単にそういう道に行くものなのだろうか?しかも、主人公のバルキーは、二束三文の売春婦ではなく、突如として高級エスコートガールになる。元々人並み以上の美貌があったからとは言え、オシャレな友人の支援があったからとは言え、いくらなんでも非現実的すぎる展開であった。おそらく監督のメッセージは、バルキーがムンバイーに出て来たチュトキーに対して言う「売春婦も私たちと同じ女性。売春婦にも、売春をするやむを得ない事情があったのだろうから、無条件で軽蔑するのはよくない」というセリフに凝縮されていたのだろうが、あまりに掘り下げ方が足りなかった。
プラディープ・サルカール監督はベンガル人であるためか、ベンガル贔屓、ベンガル人贔屓の映画を作る傾向にあるようだ。よく見ると俳優はベンガル人かその家族で固められている。ラーニー・ムカルジー、コーンコナー・セーンシャルマー、ジャヤー・バッチャンは生粋のベンガル人であるし、アヌパム・ケール、アビシェーク・バッチャンなどの家族にはベンガル人がいる。シリアスな演技に定評のあるラーニー・ムカルジーは本作でも好演。コーンコナー・セーンシャルマーの溌剌とした演技も良かった。アヌパム・ケール、ジャヤー・バッチャンなどの脇役陣も適役であった。上昇株のクナール・カプールも輝いており、友情出演的なアビシェーク・バッチャンも花を添えていた。ヘーマー・マーリニーは、ムジュラーを踊るタワーイフ(芸妓)役で出演し、踊りを見せていた。
ヴァーラーナスィーとムンバイーの対比は見事だった。湾曲するガンガーの河流にへばりつくヴァーラーナスィーの町並みと、やはり湾曲するアラビア海に面して建つムンバイーのビル群。ヴァーラーナスィーに住んでいるインド人も典型的なインド人だし、ムンバイーに住んでいるインド人も典型的なインド人だと感じた。それぞれに親切な人間もいれば薄情な人間もいるし、幸せもあれば不幸もある。
音楽はシャンタヌ・モイトラ。ヴァーラーナスィーの地元語であるボージプリー方言を多用した「Hum To Aise Hain」が喜びを象徴するタイトルソングのように使われていたが、実際のタイトルソングはシュバー・ムドガルの歌う「Chunari Mein Daag」で、こちらは打って変わって悲痛な曲だ。チュトキーの結婚式ではアップテンポのダンスナンバー「Kachchi Kaliyaan」が流れるが、これから結婚式シーズンということもあり、この曲が最もヒットしそうだ。
ヤシュラージ・フィルムスとプラディープ・サルカールの名前から傑作を期待していたが、「Laaga Chunari Mein Daag」は残念ながら期待外れの作品であった。途中泣けるシーンがいくつかあるものの、不発の爆弾のおかげで心にしこりの残る終わり方になってしまっており、大きな減点であった。ナヴラートリの開始と同時に封切られた2本の期待作対決は、断然「Bhool Bhulaiyaa」の方に軍配が上がる。