インド性とグローバル性

 2022年5月に開催されたカンヌ映画祭では、インド映画フォーラムが開催され、インド映画関係者がパネルディスカッションを行った。そのときのやり取りの様子が2022年5月22日付けのデリー・タイムス紙に掲載されていた。題名は「How can Indian cinema embrace its Indianness, while still being a grobal player?(インド映画は、グローバルプレーヤーでありながら、インド性をどのように包含することができるだろうか)」である。

 21世紀に入り、ヒンディー語映画を中心にインド映画は国際市場を意識した映画作りをするようになった。様々な実験が行われたが、ハリウッド映画が得意とするジャンルに挑戦するようになったこともそのひとつだ。ホラー映画、SF映画、スーパーヒーロー映画などが作られるようになった。だが、一方で、あまりに国際市場を意識しすぎたことで、特にヒンディー語映画では、従来インド映画が持っていたインド映画らしさがかなり失われてしまったことも確かである。その是非を問う議論が行われた。

 パネラーは、情報放送大臣のアヌラーグ・スィン・タークル、同省書記官のアプールヴァ・チャンドラ、作詞家で、中央映画認証局(CBFC)の局長プラスーン・ジョーシー、米映画情報誌「ハリウッドレポーター」のヨーロッパ部門長スコット・ロックスボロー、映画監督でインド映画テレビ学校(FTII)校長シェーカル・カプール、フランス人映画プロデューサー、フィリップ・アヴリル、俳優のRマーダヴァンとヴァーニー・トリパーティー・ティクー、音楽家のリッキー・ケージである。

 なぜフランスまで行ってインド映画の話をしているのか理解できない部分もあるのだが、インド人だけが話し合うのではなく、外部の視点や指摘も入れながらの包括的な議論になっており、話し合われている内容も、インド映画の未来を占う上で重要なものであるため、全文を翻訳して掲載する。

 カンヌ映画祭3日目、インドフォーラムのパネルディスカッション「インド:世界のコンテンツハブ」では、世界の観客の間でインドのコンテンツがより受け入れられるようになっていることについての議論が交わされ、インドの物語をどのように世界の観客のために位置づければいいのかが話し合われた。

 アヌラーグ・スィン・タークル情報放送大臣は、基調講演の中で、「インドのコンテンツは、チェータン・アーナンドの『Neecha Nagar』(1946年)がパルム・ドール(当時は「国際映画祭グランプリ」と呼ばれていた)を受賞した1946年から、世界の観客から評価されている。10年後の1956年、サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)の『Pather Panchali』(1955年/邦題:大地のうた)が最優秀ヒューマンドキュメント賞を受賞した」と述べ、どのように世界のコンテンツハブを目指せばいいかという議論の中で、「インドは世界の観客に、インドの映画体験の味わい、技術的卓越性、豊かな文化、ストーリーテーリングの輝かしい遺産を提供しようとしている」と述べた。

 インドはどのように世界の市場や観客にアプローチすればいいのかという議論の中で、プラスーン・ジョーシーCBFC局長は、「インドは、コンテンツに地元文化との接点を残すという意味で、韓国映画のストーリーテーリングから学ぶことができる。どうすればインドを、そしてインドで生産できる映画を、世界市場に受け入れられるようにし、世界市場に働きかけることができるのか。それこそ、韓国がKポップやKドラマでしたことだ。彼らは世界市場に向けて、韓国らしさを打ち出したのだ。世界中のあらゆる文化に見るべき何かがある。標準化された世界は嫌だ。インドは多様性を理解していることも重要だ。我々は多様性に慣れている」と述べた。

 「ハリウッドレポーター」誌のヨーロッパ部門長スコット・ロックスボローは、いくつかの点において同意せず、中国が巨大な国内市場を持ち、今や興行収入の面において世界第二の市場に成長したにもかかわらず、そして、独自の文化や歴史を活用した特徴的な映画を作っているにもかかわらず、世界市場でいまいち受け入れられていないことを指摘した。そして、「中国はまだ世界市場とうまく渡り合えていない。長い映画史とストーリーテーリングの伝統があるインドも中国と似た状態だ。インドのストーリーテーリングの型はインド市場に固執しており、世界市場にうまく対応できていない」と述べた。

 スコットはまた、文化というスペースには、おそらく政府が関わるべきではない領域が存在するとも指摘した。会議の議長を務める、CBFCの一員で女優・プロデューサーのヴァーニー・トリパーティー・ティクーは、情報放送省書記官のアプールヴァ・チャンドラに、「スコットは政府が文化に関与すべきではないと述べたが、あなたはどうすべきだと考えますか。コンテンツ創造という点において政府はどれくらい関与すべきだと思いますか。あなたや政府関係者はどのくらい同意しますか」と質問した。チャンドラは、官僚としてではなく、一映画ファンとしてスコットの発言に答えたいと前置きし、世界の観客の反響を呼んだインド映画の例を挙げながら、「国家映画開発公社(NDFC)は、ムンバイー近郊の非常に典型的な物語である 『The Lunchbox』(2013年/邦題:めぐり逢わせのお弁当)や、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融和のテーマにした『Mr. and Mrs. Iyer』(2002年)を製作した。また、『Lion』(2017年/邦題:ライオン 25年目のただいま)、『Life of Pi』(2012年/邦題:ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日)、『Slumdog Millionaire』(2008年/邦題:スラムドッグ$ミリオネア)のように、外国人映画メーカーが作りながらも、とてもインド的な多くの物語があり、世界が関心を示してきた。さらに、世界の他の地域で注目を集めたインド映画も多い。例えば、『3 Idiots』(2009年/邦題:きっと、うまくいく)や『Dangal』(2016年/邦題:ダンガル きっと、つよくなる)は中国で大ヒットした。私は、『RRR』(2022年)のプロデューサー、アハマド・ボールチンにドバイで会った。彼は、『RRR』をイランで配給するためにペルシア語に訳していると言っていた。ドバイではインドのTVドラマが人気で、それらをアラビア語に翻訳しようとしている。このようにインドの物語は中東、アメリカ、世界の他の地域にまで広がっている」と述べた。

 ベテラン映画監督のシェーカル・カプール、プラスーン、そしてRマーダヴァンは声を揃えて、インドで、あるいはインド人によって作られたコンテンツの華やかさ、メロドラマ、文化的なルーツは、罪悪感と共に扱われるものであってはならないと述べた。

 カプールは、インドに根ざしたコンテンツの社会的・感情的なセールスポイントを強調しながら、「人間は元来メロドラマ的だ。我々インド人は度を過ぎているかもしれないが、それについて後ろめたく感じる必要はない。我々にとって、インド人は特にだが、一般的なアジア人にとって、全ては神話だ。西洋では、神話が出て来ると恥ずかしがる傾向にある。私は『エリザベス』(1998年)という映画を撮った。私にとって海外で作る初めての映画で、どうやって作ろうか思案に暮れていた。エリザベス女王は世界でもっとも有名な女王で、私はインド人映画監督なのだ!私には神秘的なアイデアがあり、私にとってエリザベス女王に関するあらゆることが神秘的だ。そして私が撮影しているとき、皆が『シェーカル、これはメロドラマすぎる』と言った。私は、『いや、これは神秘的だ』と答えた。評論でも、これは非常にメロドラマな映画だと言われた。私は『そうだとも!』と答えた。彼らは、これはボリウッド映画だと言った。私は、『そうだとも!』と答えた。そして我々はオスカー9部門にノミネートされ、ケイト・ウィンスレットは世界最大のスターの一人になった」と述べた。

 カプールはさらに、西洋と東洋の間に対立があり、中国映画がまだ世界で認められていない理由はおそらく、接続性を欠いているからではなく、西洋の映画評論家が神話的に生活するアイデアを賞賛していないからだと指摘した。

 スコットはそれに対し、国際市場での成功は翻訳から来ると指摘し、その好例として、カプールが西洋の物語をインド的な手法で提示した『エリザベス』を挙げた。彼は、「あなたが『エリザベス』でしたことは、インド映画の特徴であるエモーション、メロドラマ、神秘的な映画作りの絶妙な翻訳を西洋の物語でしたことだ。あなたはそれらを融合させ、世界の観客が理解できるものに言語を翻訳することができた」と述べた。

 彼は、「中国映画がとても特徴的な映画を送り出せていないわけではないが、世界の観客は中国の言語と文化を理解できていない。韓国はそれをうまく行った。彼らは、非常に韓国的な物語を提示するが、とても容易に翻訳でき、容易に理解できるような、西洋の影響を受けたストーリーテーリングを持ち込んだ。『パラサイト 半地下の家族』(2019年)は私にとってスピルバーグ映画だ。この作品は、非常に韓国的な設定が非常に韓国的な方法で語られているが、彼らは何とか翻訳をすることができている。そして、インドは、もしストーリーテーリングと共に世界に打って出るならば、同じことをすべきだと考える。それは、コアにある価値観や神秘的な要素に背くことを意味しない。観客に、特定の文化の理解を期待することはできない」と述べた。

 マーダヴァンも改めて、国際的に通用するようなコンテンツを意図的に作り出すことには強い反対を表明し、「コンテンツが国際的に消費されるようになる方法のひとつに、コンテンツが熱望されるようになることがある。韓国人が成功したのは、世界の歓心を買う気はないということを臆面もなく言っているからだ。彼らは非常に韓国らしい性質を持っている。だから、私の息子は韓国映画を観たがるのだ。物語が熱望されることができれば、インドにはその可能性がたくさんあり、我々はハリウッドに比肩するグローバルプレーヤーになれるだろう」と述べた。

 プロデューサーのフィリップ・アヴリルは、インドの物語が翻訳で失われることなく、世界の観客に効果的に届くようにするために、国家間の共同制作を促進することを助言した。

 インド人音楽家リッキー・ケージは2022年と2015年にグラミー賞の最優秀ニューエイジアルバム賞を受賞したが、どちらも国際的なアーティストとのコラボレーションだった。リッキーは、「インドの物語を語る傑作映画の多くは、海外在住のインド人映画メーカーか、インドの物語を語る外国人映画メーカーによって作られてきた。よって、コラボレーションこそが進むべき道だ。私の最初の大きなコラボレーションである『Winds of Samsara』は、南アフリカ人音楽家でフルート奏者のウーター・ケラーマンが相手だったが、これが2015年にグラミー賞を受賞した。今年、私は2度目のコラボレーションをしたが、相手は米国のポリスの元ドラマー、スチュワート・コープランドだった。そして私は2つ目のグラミー賞を受賞した。これらのアルバムは両方ともとてもインド的だ。ただ、曲の飾り方について新たな視点を得た。文化的な壁を壊すために、コラボレーションは非常に重要になったと思う」と述べた。

 インド映画は決して世界から完全に無視されているわけではないと思うが、国際的な映画シーンの中で別カテゴリーに位置づけられ、その枠の中から出ることを許されていないような印象は受ける。中国映画も同様の扱いを受けているという指摘は面白かった。そして、そのような枠組みを超えることに成功したのが韓国映画だともされており、インド映画は多くのことを韓国映画から学ぶべきだという流れになっていたのも興味深い。日本映画にとっては尚更であろう。

 確かにヒンディー語映画は、国際市場をターゲットにしすぎてインド映画らしさを失い、結局、国内市場からの支持も失いつつある。その点、南インド映画は頑なにインド映画らしさを堅持し、臆面なく発展させてきたため、ここにきて大ヒット作を連発できるようになっており、いくつかは世界の観客からも受け入れられている。ヒンディー語映画が進むべき道のひとつは原点回帰であろう。

 だが、国際市場に目を向けながらもインド映画らしさを失わず、優れた調和を実現した映画も中にはある。「3 Idiots」はその典型例で、国内のみならず世界中で大ヒットした。このような映画を送り出すことに成功しているのならば、ヒンディー語映画は敢えて原点回帰せず、このまま国内と国外の両方を視野に入れたハイブリッド映画を目指すべきだと感じる。

 過去20年間ヒンディー語映画を観てきたが、不調の時期は何度かあった。今回もヒンディー語映画はスランプを克服し、さらにパワーアップすることを期待している。