Ankahee

2.5
Ankahee
「Ankahee」

 今日はガルダ・モールのINOXで、2006年5月19日から公開のヒンディー語映画「Ankahee」を観た。「Ankahee」とは「語られていない」という意味。監督はヴィクラム・バット、音楽はプリータム。キャストは、アーフターブ・シヴダーサーニー、アミーシャー・パテール、イーシャー・デーオール、リシター・バットなど。

 幸せな家庭を築いていたムンバイー在住の医者のシェーカル・サクセーナー(アーフターブ・シヴダーサーニー)はある日、リストカットして病院に運び込まれてきた元ミス・ワールドで女優のカーヴィヤー・クリシュナ(イーシャー・デーオール)の治療を受け持つことになり、人生が変わってしまう。カーヴィヤーの孤独に同情したシェーカルは、友人の忠告を聞かずにどんどんカーヴィヤーにのめり込んでしまい、遂にはカーヴィヤーの熱烈な求愛に負ける形で不倫関係となってしまう。

 常にメディアの注目を集めるカーヴィヤーの新しい恋人が世に知れ渡るまで時間はかからなかった。すぐにシェーカルがカーヴィヤーと不倫していることは、シェーカルの妻ナンディター(アミーシャー・パテール)や一人娘のシーナーにも知れてしまう。ナンディターはシェーカルと問い詰めたり懇願したり、カーヴィヤーに会いに行ったりして何とか家庭を守ろうとするが、結局シェーカルは家を出てカーヴィヤーと同棲するようになってしまう。

 だが、カーヴィヤーは決して幸せになれるタイプの人間ではなかった。彼女の精神はシェーカルを手に入れる前も手に入れた後も大して変わらなかった。カーヴィヤーは常に強引な形で幸せを追い求めるあまり、現在の幸せを楽しめない人間だった。シェーカルはカーヴィヤーに言われてナンディターと離婚までしたが、それでもカーヴィヤーの疑心暗鬼と嫉妬は収まらなかった。とうとう切れたシェーカルは、カーヴィヤーに対して「お前は狂っている!」と言い渡す。それを聞いたカーヴィヤーはシェーカルの目の前で拳銃自殺してしまう。

 全てを失ったシェーカルは、ナンディーターのもとに戻る。だが、ナンディターは既に結婚前にしていた仕事を再び始めることに決めており、シーナーを連れてプネーに引っ越すところであった。シェーカルはシーナーが出て行った後の家に残り孤独のまま暮らす。

 16年後・・・。シェーカルは死の床に就いていた。シェーカルは、プネーから娘のシーナー(リシター・バット)を呼び、人生の中で起こったことを書き記した本を渡す。シーナーがそれを読み終わり、父親と抱擁し合った翌朝、シェーカルは死んでいた。 

 社会的成功を手にしながら自己中心的な性格のせいで私生活での幸せを手に入れることができない女優と、彼女に関わったために人生が狂ってしまった医者の話。プロット自体に目新しい部分はないが、ある事実を知ると、この映画は断然面白くなる。

 この映画は、ヴィクラム・バット監督と、ミス・インディア&ミス・ユニバース女優スシュミター・セーンの不倫という実際にあったスキャンダルをベースにしている。バット監督は、妻子持ちでありながらスシュミター・セーンと関係を持ち、遂には離婚まで行ってしまった。つまり、この「Ankahee」はバット監督の自伝的映画なのだ。よって、題名には、「今まで語られなかったスシュミター・セーンとの不倫を巡る物語」という意味が込められている。また、冒頭には、「私の娘、クリシュナーに捧げる」との一文が載っている。バット監督が不倫をしたとき、一人娘のクリシュナーは2歳であった。離婚によってもっと影響を受けたのがクリシュナーであるとの認識から、バット監督はこの映画を娘に捧げたようだ。

 もうひとつ面白い事実がある。シェーカルの妻ナンディターを演じているアミーシャー・パテールは、バット監督の現在のガールフレンドだということだ。過去の不倫をテーマにした映画を撮るのに、現在のガールフレンドを妻役に起用するとは、かなり複雑なことをしたものだ。

 不倫を描いた映画はもはやヒンディー語映画界では新しくなく、また社会的には成功を収めていても私生活では恵まれていない人の実態を描いた映画も古今東西枚挙に暇がないので、この映画にはそれほど目新しい部分はない。だが、シェーカルとカーヴィヤーの不倫が発覚してから起こる一連の出来事はとてもリアルであった。シェーカルとナンディターが娘のシーナーの通う幼稚園の園長先生に呼び出されて「両親の離婚は子供に悪影響を与える」と説得されたり、ナンディターがカーヴィヤーの家を突然訪ねてシェーカルを返すよう懇願したり、またナンディターがシェーカルのオフィスを突然訪ねて「自分はカーヴィヤーのようにきれいじゃないけど、努力することはできます。一度だけチャンスを下さい」と泣きついたり、カーヴィヤーがシェーカルを愛するあまり、いろんな人を邪推して墓穴を掘って行ったり、それらのリアルな描写は観客の感情に訴えかけるものがあった。

 しかしリアルでなかったのはシェーカルの心情描写である。シェーカルは、医者としてカーヴィヤーを助けようとしているんだと自分で自分を言い聞かせながら、カーヴィヤーの魅力に引き込まれていってしまう。その点はとても説得力があるのだが、シェーカルがカーヴィヤーを愛してしまう理由がちょっと掴めなかった。カーヴィヤーがミス・ワールドになるくらいの美人だから、というだけではちょっと弱い。また、心情の変化も丁寧に描写されていなかった。シェーカルがゴアに出張に行ったときにカーヴィヤーも追いかけてきて、そこから不倫が始まってしまうわけだが、その直前、またその後の展開からシェーカルに感情移入することができなかった。

 この映画のメインは何と言ってもイーシャー・デーオールであろう。ミス・ワールドを獲得できるほどの美貌を持った女優とはとても思えないが、美貌を鼻に掛けて周囲からどんどん孤立していく様は真に迫っていた。冒頭、リストカットして病院に運び込まれ、シェーカルと初めて顔を合わすシーン、また終盤、拳銃を頭に突きつけるシーン、どちらも涙を流しながらも相手を圧倒するパワーが目にこもっており、迫力があった。

 アーフターブ・シヴダーサーニーも落ち着いた演技のできる俳優として定着してきたようだ。だが、16年後のシーンのおじいさんメイクはあまりうまくなかった。僕はアミーシャー・パテールのことをヒンディー語映画界随一の大根女優だと思っているのだが、この映画の演技はまあまあだと言える。まだおかしな演技が抜けていないが、この前見た「Tathastu」(2006年)に比べたらだいぶマシだ。リシター・バットは特別出演扱い。ほとんど出番はなかった。

 音楽はプリータム。「Ankahee」のCDは買っていないし、映画中印象に残った曲もなかったが、映画の雰囲気を壊すような挿入歌はなかった。

 「Ankahee」は、映画としては中の下ぐらいであろうが、ヒンディー語映画界の裏事情に詳しい人やゴシップ好きな人ならけっこう楽しめる映画と言えるのではなかろうか?