今日は、2005年11月18日から公開の新作ヒンディー語映画「Ek Khiladi Ek Haseena」をチャーナキャー・シネマで観た。「Ek Khiladi Ek Haseena」とは、「1人の詐欺師、1人の美人」という意味。監督はスパルン・ヴァルマー、音楽はプリータム。キャストは、ファルディーン・カーン、コーイナー・ミトラー、ケー・ケー・メーナン、フィーローズ・カーン、グルシャン・グローヴァー、ローヒト・ロイ、アミーン・ハジーなど。
アルジュン(ファルディーン・カーン)とローヒト(ローヒト・ロイ)はプロの詐欺師コンビだった。ある日、最後の仕事と決めて銀行に来ていた客を騙し、30万ルピーをせしめる。ところがその金はムンバイーを支配するマフィア、スィカンダル(グルシャン・グローヴァー)のものだった。アルジュンが留守にしている間にローヒトはスィカンダルの部下カイフ(ケー・ケー・メーナン)に殺される。アルジュンは詐欺仲間のジャック(アミーン・ハジー)やバーティヤー(ムクル・デーヴ)たちとプネーへ逃げるが、スィカンダルの追っ手から逃げることはできなかった。スィカンダルはアルジュンに対し、10日以内に40万ルピーを返すように命令する。もちろん返却できなかったら死あるのみだ。ちなみに10万ルピーは利子とのことだった。また、スィカンダルはカイフをアルジュンの見張りにつける。 アルジュンは、ジャック、バーティヤー、カイフと共に、心理学者のナターシャ(コーイナー・ミトラ)を罠にかけ、40万ルピーを手にする。しかし、騙されたことを知ったナターシャはスィカンダルのところへ行き、金を返すように言う。それが無理だと分かると、「アルジュンは25日間で2億5千万ルピーを用意できる男だ」と主張し始める。スィカンダルはその話に興味を持ち、アルジュンたちに対し、スタンダード銀行の総裁で、ムンバイーを表裏で20年間牛耳るドン、ジャハーンギール・カーン(フィーローズ・カーン)をターゲットにすることを命じる。アルジュンはスィカンダルから、その資金として250万ルピーを借りる。 アルジュンはまずスタンダード銀行の副総裁を懐柔し、偽の会社にローンのために2億5千万ルピーを振り込ませることに成功する。バーティヤーがバンコクでその金を現金化し、インドに持ち帰ることになっていた。ところが、アルジュンが中央情報局(CBI)のデーサーイーに追われていることが発覚したことをきっかけに仲間割れが発生する。まずアルジュンはナターシャを仲間から外す。怒ったナターシャはアルジュンの詐欺のことをジャハーンギールに暴露する。また、アルジュンはカイフに2億5千万ルピーを持ち逃げすることをもちかけるが、カイフはそれに乗らなかった。カイフはスィカンダルに、空港に2億5千万ルピーが入ったバッグがやって来ることを知らせる。スィカンダルは自ら空港へバッグを取りに出掛ける。空港ではデーサーイーが待ち伏せしており、バーティヤーが持って帰ったバッグを税関ですりかえる。スィカンダルはバーティヤーからそのバッグを奪うが、その中には大量のコカインが入っていた。スィカンダルは警察に囲まれ逮捕となる。一方、アルジュンとカイフが乱闘しているときにナターシャがジャハーンギールの部下と共に現れ、彼女はカイフを射殺する。ナターシャはアルジュンに金はどこにあるか聞くが、アルジュンは「警察の手に渡ってしまった」と言って口を割らなかったため、アルジュンをも射殺する。 ジャハーンギールの部下が去り、ナターシャが去った後、アルジュンの遺体のそばに現れたのはデーサーイーであった。実はデーサーイーもアルジュンの一味であった。デーサーイーはアルジュンに「おい、そろそろ起きろ」と呼びかける。するとアルジュンはひょっこりと起き上がる。実はローヒトが殺されてからの全ての出来事はアルジュンが仕組んだことであった。ナターシャはローヒトの妹で、アルジュンの婚約者だった。アルジュンは、スィカンダルに復讐し、ジャハーンギールから大金をせしめ、それでいてジャハーンギールから追われない綿密な計画を立てたのだった。2億5千万ルピーを手に入れたアルジュンは仲間たちと外国へ高飛びしようとする。ところがその飛行機にはジャハーンギールが仕掛けた爆弾があった・・・。
アルジュンが何者かに射殺されるシーンから始まり、回想シーンが本編となっており、最後に大どんでん返しが待っている、というハリウッドテイストの映画だった。スパルン・ヴァルマー監督は「Janasheen」(2003年)や「Karam」(2005年)の脚本家で、今回が監督デビュー。最近新進気鋭の監督によるハリウッドテイストのヒンディー語映画が増えてきたが、これは間違いなく、インド映画よりもハリウッド映画を観て育って来た世代が次々に監督デビューしているからだと思う。だが問題は、こういう映画は都市部の観客にしか受けないことが多いことだ。田舎の観客はこういう複雑な筋の映画を理解することができないだろう。僕が個人的に問題にしたいのは、ハリウッドテイストの映画には、インド映画の核とも言える「良心」が入りにくいことだ。「インド映画の良心」とは簡単に言ってしまえば勧善懲悪性である。「勧善懲悪」という言葉は、現代では否定的な視点と共に使われることが多いが、僕はインド映画の勧善懲悪性を悪いものとは思っていない。むしろ、それこそがインド映画の核だと思っている。映画の中でくらい、正義が勝ち、悪い者が罰せられなければ世の中やって行けないだろう。「Ek Khiladi Ek Haseena」には正義と悪がなく、感情移入もしにくい。だから、ヒンディー語映画の衣をまとったハリウッド映画だと言える。ただ、僕が見たときは、映画館はなぜかやたら盛り上がっていて、コーイナー・ミトラーの際どいシーンがスクリーンに映し出されるたびに歓声が上がっていた。こっちの方面で大衆に受ける可能性はある。
この映画で一番の見せ所は何と言っても最後の大どんでん返しにある。ナターシャに殺されたと思われたアルジュンが実は生きていて、ナターシャも元々の仲間で、2億5千万ルピーもちゃっかり手に入れる。だが、その前にも何度かどんでん返しが繰り返されるので、だんだん次の展開が読めてくる。しかも、今までの流れを全てアルジュンが計画したと考えるのはあまりに非現実的だ。手法はハリウッドだが、まだまだインド映画的強引さは拭えていない。さらに綿密な脚本が必要だ。ただ、宝くじを使っておばさんを騙すシーンは秀逸だった。
全体的に退廃的なオシャレさが漂う映画だった。映画の始まり方などはなかなかかっこ良かった。冒頭のナレーション、「エーク・ター・キラーリー、トーラー・アナーリー、エーク・ティー・ハスィーナー、ウスキ・ディーワーニー、イェ・ハェ・ウンキ・カハーニー(一人のちょっと頭のおかしい詐欺師がいた、その男に惚れた一人の美人がいた、これはその二人の話)」も詩的にいい感じだった。
フィーローズ・カーンとファルディーン・カーンは、「Janasheen」以来の親子共演。二人がエレベーターで会話を交わすシーンは、ファンにはニンマリのシーンである。ファルディーン・カーンはここのところ脇役出演が多かったが、この映画でやっと主役らしい主役に返り咲いたような気がする。落ち着いた演技をしていてよかった。フィーローズ・カーンも持ち前の強面を活かした適役でよかった。ジャハーンギールのセリフ、「カファン・メン・ジェーブ・ナヒーン・ハェ(死に装束にポケットはない=あの世に金を持っていくことはできない)」という言葉が面白かった。カイフを演じたケー・ケーは相変わらず絶妙の演技。間違いなく現在ヒンディー語映画界で最も演技のうまい男優だ。
ヒロインはコーイナー・ミトラー。「Musafir」(2004年)のアイテム・ナンバー、「Saaki」でベリーダンスを踊っていたアイテムガールだったが、いつの間にか女優デビューしていた。アイテムガールから女優に出世するパターンは最近ちらほら見かけられる。イーシャー・コッピカルなど。だが、あくまでコーイナー・ミトラーはアイテムガール止まりの器であるように思える。取り立てて美人でもないし、演技も下手過ぎた。だが、キスOK、露出OKの女優のようで、それを活かせば将来はないことはないかもしれない。この映画ではファルディーン・カーンと、「Murder」(2004年)のマッリカー・シェーラーワト並みに濃厚な濡れ場を演じていた。
「Ek Khiladi Ek Haseena」は音楽とミュージカルシーンがいい映画だ。ファルディーン・カーンとコーイナー・ミトラーがボクシングで戦うという斬新なミュージカルシーン「Ishq Hai Jhootha」と、「マッドマックス」シリーズのような雰囲気のミュージカルシーン(最後のスタッフロールで流れる)「Nasha」が特によかった。「Ek Khiladi Ek Haseena」のサントラCDは買う価値がある。
結論として、「Ek Khiladi Ek Haseena」は、正統派ヒンディー語映画を観たい人向けの映画ではない。ただ、ミュージカルシーンを楽しむ目的だったらけっこういいだろう。