
「Sikkim」は、著名なインド人映画監督サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)がヒマーラヤの小国スィッキムで撮影した正味1時間ほどのドキュメンタリー映画である。1971年に撮影され完成したものの、1975年にスィッキム王国がインドに併合されたことによりインド国内での上映が禁止され、フィルムも失われたと考えられていた。よって、ラーイ監督の「幻の映画」であった。しかしながら、2003年に英国映画協会(BFI)で良好なプリントが発見され、レストアされた後に、まず2008年にフランスのナント三大陸映画祭で上映された。その後、インドでも上映禁止が解除され、2010年にコールカーター映画祭で上映が行われた。ただし、この映画の完成後にスィッキム王国の王族向けにコールカーターにてプライベート上映が行われたという記録もあり、この映画の公開年は1971年でいいだろう。
スィッキム王国は、西はネパール、南はインドの西ベンガル州、東はブータン、北はチベットに囲まれた小国である。1950年にインドの保護国となり、1970年代に段階的に併合のプロセスを経て、1975年に完全にインドの一部となった。現在はインドの一州であるが、それ以前は17世紀から続く歴史ある独立王国として存続していた。チベット仏教圏に含まれる。
スィッキム王国の統治者はチョギャルと呼ばれる。映画「Sikkim」が撮影されたのは、第12代チョギャル、パルデン・トンドゥプ・ナムゲルの治世(1963-75年)である。パルデン・トンドゥプはチベット人女性と結婚し3人の子供を作ったが先立たれ、1961年に彼は再婚した。再婚相手が、アジア比較文化学を専攻する学生だった米国人女性ホープ・クックであった。インド旅行中の彼女がたまたまバーでパルデン・トンドゥプと出会い、恋が芽生えたとされる。
ラーイ監督はスィッキム王家の依頼を受けてこのドキュメンタリー映画を撮影したが、それまでスィッキム王国といえばヒマーラヤの秘境であり、ほとんど外国人が入れなかった地域である。そこにカメラが入り、ドキュメンタリー映画が撮影されるというのは、先進的な国王とその米国人妻の意向が大いに反映されていると考えてよい。実際、クック王妃が実質的なプロデューサーの役割を果たし、ラーイ監督の招聘も主導したとされる。
映像に映し出されているのは、もちろんスィッキムの伝統や文化、そして田舎の風景などもあるのだが、それよりもメインになっているのは、スィッキム王国の文明開化である。近代的な学校が建てられ、国民に無償で教育が提供され、村々までジープ道が通ってアクセスが改善され、首都ガントクではロープウェイが稼働し、街中を西洋人が闊歩し、ウイスキーやラムなどが売られる。パルデン・トンドゥプ国王とホープ・クック王妃の姿も映し出されている。特にクック王妃は王国の福祉に尽力し国民に愛される王妃というように見える。よって、現在は失われてしまった古き良きスィッキムの姿を垣間見ようと思ってこの映画を鑑賞すると少しズレを感じるだろう。王家の統治の下、スィッキム王国が着実に発展の道を歩んでいることがアピールされている。
1970年代前半のスィッキム王国では民主化運動がくすぶっていた。スィッキム王国の人口の大半はネパール系の人々が占めていたが、支配者層はレプチャおよびブーティヤーといったチベット系の少数派だった。民主的な選挙が行われれば少数派による支配は簡単に覆る可能性があった。王家としては何としてでも現状維持をしたかった。また、米国人王妃の存在は南アジアに緊張をもたらした。なぜならこの時期、1971年の第三次印パ戦争などを経て印米関係は冷え込んでおり、インド政府はクック王妃をCIAのスパイと疑っていた。クック王妃はスィッキム王国の独立を維持するために活発に活動を行ったが、それがさらにインド政府を刺激していた。この「Sikkim」もその活動の一環だったと思われる。
ナレーターはラーイ監督自身である。言語は格調高い英語だ。ラーイ監督のドキュメンタリー映画の特徴だが、彼はナレーションを映像の補完として考えており、映像を見て分かることはナレーションでは語らないという方針を貫いている。「Sikkim」でもあくまで映像が主役であり、ナレーションは映像を見て感じられない部分の補足に徹している。これは、ラーイ監督がドキュメンタリー映画監督としても高く評価される要因となっている。
ただ、「Sikkim」はあまりに併合前のスィッキムのリアリティーを芸術的に描き出すことに成功していたために、併合後のインド政府にとっては不都合な作品になってしまった。インド政府としては、国家統合のために、スィッキム州がかつて独立王国であったことをなるべく人々に忘れてもらいたい。だが、ラーイ監督の「Sikkim」が傑作として残り続けることで、それが邪魔されてしまう。そういう理由でインド政府はこの映画の上映を禁止し続けたとされている。
「Sikkim」は、サティヤジト・ラーイ監督がインド併合前のスィッキム王国で王家からの依頼を受けて撮影したドキュメンタリー映画である。スィッキムの美しい自然、独特な文化、そして文明開化する様子を捉えている。インド政府によって長年上映禁止措置を取られていたという裏話も興味深い。
