シャバーナー・アーズミーといえば、1970年代から80年代のヒンディー語映画界で隆盛したパラレルシネマを代表する女優の一人である。大女優といっていい。シャーム・ベーネーガル監督の「Ankur」(1974年)でデビューして高い評価を受け、その後もマヘーシュ・バット監督の「Arth」(1982年)、シャーム・ベーネーガル監督の「Mandi」(1983年)、ムリナール・セーン監督の「Khandhar」(1984年)など、商業娯楽映画とは対極にあるリアリズムを追求した芸術映画での演技が印象的だ。
ただ、彼女は自身の出演作に関してそれほど選択的でもなく、基本的にあらゆるジャンルの映画に出演している。ヴィシャール・バールドワージ監督の子供向け映画「Makdee」(2002年)ではコミカルな魔女の役を演じていたし、カラン・ジョーハル監督の王道的娯楽映画「Rocky Aur Rani Kii Prem Kahaani」(2023年)にもしっかり出演していた。彼女の功績を芸術映画のみに押し込めるのは間違っている。半世紀にわたる役者人生の中で非常に幅広い役柄を演じてきた女優と評価した方が正しい。
2024年10月23日付けのDelhi Times紙(Times of Indiaデリー版の折込紙)に、シャバーナー・アーズミーの対談記事が掲載されていた。ムンバイー動画アカデミー(MAMI)主催のムンバイー映画祭において、「Kahaani」(2012年/邦題:女神は二度微笑む)などの女優ヴィディヤー・バーランと対談し、映画や演技に関する多くの話題について自分の意見を語った。それは非常に興味深いものだったので、ここに書き留めておきたい。
まず彼女は、自分のことを「映画女優」だと考えているようだ。これは、「舞台女優」との対比においてである。シャバーナーの父親は著名な詩人カイフィー・アーズミーで、彼は作詞家や作家として映画作りにも関わった。母親のシャウカト・アーズミーも偉大な女優であった。両親はインド共産党系の演劇組織であるインド人民演劇協会(IPTA)を通して舞台劇にも関わっていたが、映画界での足跡も大きかった。よって、シャバーナーは成長過程において映画と舞台劇の両方を目の当たりにしてきたと思われるし、彼女自身も舞台劇での演技を経験しているが、それでも映画の方を自分の本業として考えている。舞台劇において生の観客を前に行うライブパフォーマンスはとてもスリリングではあるものの、演劇は基本的にそのとき限りのものであり、永遠に残る映画での演技に比べたら満足感は低いという。
次に、芸術映画と娯楽映画の対比において、シャバーナーは興味深い発言をしている。彼女にとって、芸術映画での演技の方が娯楽映画での演技よりも容易だという。芸術映画がリアル志向であるのに対し、娯楽映画は「代替現実(Alternative Reality)」であることがその理由のようだ。
ヒンディー語娯楽映画で主流な「代替現実」の実態を説明するために、登場人物の家の内装が例に出されていた。娯楽映画では、登場人物の職業が警察官であれ実業家であれ、その家の内装に細部までこだわることはない。どの家も同じような内装になる。これが芸術映画とは対照的である。芸術映画の監督は、画面に映る細部にこだわり、現実味を出そうとする。
もうひとつ、カラン・ジョーハル監督の「Rocky Aur Rani Kii Prem Kahaani」に出演したときの関連エピソードにも触れていた。この映画の中で彼女はベンガル人女性を演じたが、その役が、髪を下ろし、シルクのサーリーを着て魚カレーを料理するシーンがあった。シャバーナーは「それは現実的でない」と指摘したが、ジョーハル監督の答えはこうだった。「カラン・ジョーハルの映画ではそれでいいんだ。」
一見するとこれは娯楽映画の手抜きを指摘しているように感じられるが、シャバーナーの真意はそうではなさそうだ。彼女はヒンディー語娯楽映画が重視する代替現実の効果も認めている。あまりに細部にこだわりすぎると、広範な観客へのアピールを失うのである。ヒンディー語映画は全インドの観客に向けて映画作りをしており、なるべく地域性を出さないようにしている。どうやったらインド全土のマス(大衆)に受け入れられるかを考えながら映画作りをしており、俳優たちもインド全土で通じる共通項を見つけて演技をしなければならない。その成功はしばしば現実の模倣にはなく、現実を超越したところに見出される。芸術映画ならば現実通りに演技をすればいいが、娯楽映画ではしばしば代替現実としての演技を求められる。それが芸術映画よりも難しいと述べていた。
代替現実の最たる例は、インド映画の最大の特徴である歌と踊りだ。これを現実と捉えていてはインド映画の理解はいつまでも得られない。どうしても芸術映画のイメージが強いシャバーナーだが、彼女はリップシンクのダンスシーンの大いなる支持者だ。リップシンクとは、俳優たちが歌を歌いながら踊ることをいう。近年のヒンディー語映画では、歌曲はBGMとして使われることが多くなった。そのような場面では、歌が流れている間、俳優は口を動かして歌っていない。昔ながらのリップシンク型ダンスシーンはめっぽう減ってしまった。彼女の発言をそのまま引用しよう。
「私はリップシンクで歌われる歌が失われたことを悲しんでいる。なぜなら、ヒンディー語映画では、私たちは歌を通して物語を語るからだ。これらの歌は人生の瞬間を捉えた小さな哲学のようなものだった。私たちはあらゆる状況に合致し、ノスタルジックなつながりをもたらす歌を持っていた。しかしながら、モダンであろうとするばかりに、我々は歌を誰も注意を払わない何かで置き換えつつある。」
ヴィディヤーもそれに同意し、「私も非常にリップシンクの歌を恋しがっています。それらは今やBGMに追いやられてしまっています。私も、ユニバーサルであろうとする衝動がヒンディー語映画産業からユニークなエッセンスを奪いつつあると感じます」と答えている。