Love, Sitara

3.5
Love, Sitara
「Love, Sitara」

 2024年9月27日からZee5で配信開始された「Love, Sitara」は、パンジャービーとマラヤーリーの結婚を題材に、愛と信頼をテーマにしたファミリードラマである。

 監督はヴァンダナー・カターリヤー。プロダクションデザイナーとして「Oye Lucky! Lucky Oye!」(2008年)などに携わっており、「Nobleman」(2018年)で監督デビューした。主演は、「Ponniyin Selvan」シリーズ(Part 1:2022年/邦題:PS-1 黄金の河・Part 2:2023年/邦題:PS-2 大いなる船出)などに出演のソービター・ドゥーリパーラー。他に、ラージーヴ・スィッダールタ、Bジャヤシュリー、ソーナーリー・クルカルニー、ヴァージニア・ロドリゲス、サンジャイ・ブーティヤーニー、リジュル・ラーイ、タマラ・デスーザ、スダーンヴァ・デーシュパーンデーなどが出演している。

 「Love, Sitara」の主な舞台になるのは、ケーララ州の田舎にある屋敷だ。主人公スィターラーの母方の祖母がこの屋敷の女主人である。なぜ父方の祖母ではないかというと、彼女の家系はナーヤル・カーストだからだとほぼ断定できる。ナーヤル・カーストはケーララ地方の支配層であり、インドでは珍しく女系である。また、ナーヤル・カーストには歴史的には一夫多妻制や一妻多夫制の習慣があったとされる。「Love, Sitara」ではいくつもの不倫が描かれるが、ナーヤルの家系を主な登場人物としたのは、そういう深い理由があるのかもしれない。

 インテリアデザイナーのスィターラー(ソービター・ドゥーリパーラー)は妊娠していることに気付く。ホテルでシェフとして働く恋人のアルジュン(ラージーヴ・スィッダールタ)に、妊娠していることは隠しながらプロポーズする。アルジュンはそれを了承する。結婚式は、ケーララ州にあるスィターラーの実家において伝統に則って行われることになった。実家には祖母(Bジャヤシュリー)が住んでいた。

 スィターラーの父親ゴーヴィンド(サンジャイ・ブーティヤーニー)はホテルチェーンのオーナーであった。母親のラター(ヴァージニア・ロドリゲス)にはヘーマー(ソーナーリー・クルカルニー)という独身の妹がいた。ヘーマーは客室乗務員として働いていた。スィターラーはゴーヴィンドとヘーマーをとても尊敬していた。また、結婚式にはスィターラーの親友で写真家のアンジャリ(タマラ・デスーザ)も出席する。

 実家に戻ったスィターラーは、ふとした拍子にゴーヴィンドとヘーマーが不倫関係にあるのではないかと疑い出す。スィターラーはアルジュンと共にヘーマーを尾行する。その先で見たのは、ヘーマーがパイロットで妻子持ちのアルヴィンド(スダーンヴァ・デーシュパーンデー)と密会している様子だった。ひとまずスィターラーは胸をなで下ろすが、その夜、ヘーマーの部屋からゴーヴィンドが出て来るのを目撃し、さらに疑惑を深めることになる。

 婚姻の儀式が進んでいった。スィターラーの妊娠が家族にばれるが、彼女はさらに大きな秘密を抱えていた。実はお腹の子がアルジュンの子ではない可能性があったのである。アルジュンと不仲になっていた時期、彼女はロンドンに行き、酔っ払って白人と一夜だけ寝てしまっていた。隠しきれなくなったスィターラーはアルジュンにそれを打ち明ける。アルジュンは怒って出て行ってしまい、そのまま転職先のシンガポールへ渡ってしまう。また、スィターラーは家族の前でゴーヴィンドとヘーマーの不倫を暴露する。それを聞いてラターはショックを受ける。ヘーマーは家を出て行ってしまうが、彼女もアルヴィンドに捨てられてしまう。

 スィターラーはお腹の子を産む決意をし、そのままケーララ州の実家に滞在し続けた。アルヴィンドと共同で購入した家を売り払ったヘーマーは祖母の家に戻ってくる。祖母は、祖父が死んだのではなく、他の女性と浮気して出て行ってしまったことを初めて打ち明ける。

 スィターラーはシンガポールへ飛び、アルジュンと会う。彼女は改めてアルジュンにプロポーズをする。1年後、スィターラーとアルジュンの結婚式が祖母の実家で催される。

 スィターラーは卵巣に異常を抱えており、妊娠しにくい体質だった。彼女は出産を諦めており、恋人のアルジュンにも、結婚はしないこと、そして子供は期待しないことを言い含めてあった。つまり、彼女はかなり正直でオープンな女性であった。職業もインテリアデザイナーであり、賞も受賞するほど才能があった。現代のインドにふさわしい、自立した女性であった。

 だが、そんな彼女が妊娠に気付くところから物語が始まる。その直後に彼女はアルジュンにプロポーズするが、妊娠のことは隠したままだった。その理由は後に明らかになる。彼女には、お腹の子がアルジュンの子である確証を持てなかったのである。数ヶ月前にアルジュンと不仲の時期があり、その間に彼女はロンドンで白人男性と性交渉を持っていたのであった。そんな疑惑を塗りつぶそうとするかのように、彼女はアルジュンとの結婚をどんどん前に進める。だが、結婚の直前になって罪悪感に耐えきれなくなり、アルジュンに全てを打ち明ける。

 基本的にはスィターラーとアルジュンの関係を軸にした物語であったが、それに上の世代の複雑な人間関係が重なる。父親のゴーヴィンドと叔母のヘーマーに不倫疑惑が浮上し、過去のものとはいえ、そこに一定の真実があったことが明らかになるのだ。しかも、ゴーヴィンドは現在進行形で別の女性モニカと不倫をしており、ヘーマーも妻子持ちのアルヴィンドと不適切な関係を持っていた。

 では、ゴーヴィンドの妻でスィターラーの母親であるラターに何もなかったのかといえば、そうとも言い切れない。一瞬だけ、使用人スバドラーの夫で飲んだくれのヴァースがラターを慰めているシーンが見えた。ヴァースが飲んだくれになったのも、もしかしたら過去にラターとの間に何らかの関係があったからなのではないかと推測できる。とはいえ、この部分はこの映画ではほとんど解明されておらず、ひとまず無視していいものだろう。

 そうなると、この映画では、スィターラーの一夜限りの過ちとそれによる妊娠疑惑、そして妊娠自体を隠して行ったアルジュンへのプロポーズ、ゴーヴィンドとヘーマーの過去の不倫、ゴーヴィンドとモニカの不倫、ヘーマーとアルヴィンドの不倫という、複数の不義が同時に描かれていることになる。また、スィターラーは自分の浮気は棚に上げて、父親と叔母の不倫を糾弾するという自己矛盾も抱えていた。そして、それらがある時点で一気に暴露されるのである。

 通常ならば、この一家の人間関係は修復不可能なほど引き裂かれてしまうところだ。焼け野原で終わるタイプの映画かと途中で予想したほどだった。だが、一家をまとめていた祖母の度胸が据わっており、しかも寛大だったため、それは免れた。彼女は誰も責めなかったが、ただ、自分は夫に捨てられたのだということを家族に初めて明かす。夫は別の女性と不倫し、出て行ってしまった。祖母は、20歳の年齢で2児を抱えて一人で生きていかなければならなくなったのだった。そんな祖母の苦労を家族は誰も知らなかった。

 愛はただそれだけでは人をセルフィッシュにしてしまう。その追求は誰かを不幸にする可能性が高い。愛の暴走を防ぐためには信頼が必要であり、その信頼は真実を覆い隠さないことによってのみ得られる。一連の出来事により、家族は真実と信頼に裏打ちされた愛の再構築を始める。

 スィターラーも、ようやくアルジュンと面と向き合って話し合う決心をする。アルジュンはスィターラーが別の男性の子供を宿しているかもしれないことを知って怒って出て行ってしまったが、それはスィターラーの不倫に怒っているのではなかった。元々彼はスィターラーと結婚し、養子をもらって育てるつもりだった。だからスィターラーのお腹の子がたとえ自分の子でなくても構わなかった。彼が怒っていたのは、スィターラーが長らく真実を隠していたからだ。スィターラーの再度のプロポーズをアルジュンは最終的に受け入れる。「雨降って地固まる」タイプの映画であった。

 ただ、終盤の展開が足早すぎた印象は否めない。スィターラーとアルジュンが仲直りする過程が、「1年後」というキャプションによってすっ飛ばされ、いきなり二人の結婚式になっていた。当然、この間にスィターラーは既に出産もしていた。その赤子の外見を見たところ、どうも白人男性との間にできた子供ではなさそうであった。二人の間で、もはやその子の父親が誰なのかはどうでもいい問題になっていたということなのかもしれないが、だからといってそこまで片隅に追いやってもいい問題ではないようにも感じた。女性監督だからこそのデリカシーのなさと捉えられても仕方ない。

 女性監督の作品にありがちな特徴だが、女性キャラの描写が優れている一方で、男性キャラの描写に弱さが見られる。男性の目から見たらアルジュンは非現実的なキャラであり、女性の理想が無理に詰め込まれているという印象を持った。スィターラーの親友マジードについても何だかよく分からないキャラだった。

 主演のソービター・ドゥーリパーラーは、目力の強い美人系女優であり、現代的で知的な女性役がよく似合う。これまで着実にキャリアアップしてきたが、女性中心映画の「Love, Sitara」では、添え物ではなく、作品を背負って立つ主演を任されることになった。そのチャンスを逃さず好演していた。

 映画はヒンディー語、英語、マラヤーラム語のトリリンガルであった。本来ならばケーララ州のシーンでもっとマラヤーラム語のセリフが入ってしかるべきだが、基本的にはヒンディー語映画ということもあり、登場人物の大半が主要なセリフをヒンディー語でしゃべっていた。

 「Love, Sitara」は、ナーヤル・カーストと思われる女系の一家において、主人公スィターラーが罪悪感や自己矛盾的な義憤と葛藤しながら、真実と信頼に裏打ちされた愛情を獲得するまでの物語である。女性同士の人間関係描写に優れた筆致が見出せるが、男性キャラは少女漫画の域を出ない。おそらく女性が観るとより共感できる作品なのではないかと思う。