Jigarthanda DoubleX (Tamil)

4.0
Jigarthanda DoubleX
「Jigarthanda DoubleX」

 2023年11月10日公開のタミル語映画「Jigarthanda DoubleX」は、カールティク・スッバラージ監督のヒット作「Jigarthanda」(2014年)の前日譚となる作品である。「Jigarthanda」は、ギャングスターが映画俳優を志すという突拍子もないプロットが受けた作品だったが、「Jigarthanda DoubleX」も似たプロットになっている。しかし、単なる焼き直しではない。日本では「ジガルタンダ・ダブルX」の邦題と共に2024年9月13日に劇場一般公開された。

 監督は引き続きカールティク・スッバラージである。脚本を書いたのも監督自身だ。音楽監督もサントーシュ・ナーラーヤナンが続投している。ただ、前作の主人公セートゥの父親が本作の主人公になるため、キャストの連続性はない。主演は「Chandramukhi 2」(2023年)のラーガヴァ・ローレンスと「Mersal」(2017年)のSJスーリヤー。他に、ナヴィーン・チャンドラ、ニミシャー・サンジャヤン、イラヴァラス、サティヤン、サンチャナー・ナタラージャン、シャイン・トム・チャッコーなどが出演している。

 1975年、タミル・ナードゥ州のチンターマニ州首相が中央政府の首相に就任することになり、次期州首相を巡って権力闘争が起こっていた。有力候補者はカールメーガム大臣(イラヴァラス)だったが、そのライバルで俳優でもあったジャヤコーディ(シャイン・トム・チャッコー)はカールメーガム大臣を追い落とそうと画策した。カールメーガム大臣の後ろ盾には4人の人物がいた。ジャヤコーディは弟のラトナ・クマール警部(ナヴィーン・チャンドラ)にその4人の暗殺を命じる。ラトナ警部は、元警官の虜囚4人にその任務を負わせた。その内の一人が、マドゥライのアンダーワールドを支配していたアリヤン、通称アリアス・シーザー(ラーガヴァ・ローレンス)だった。

 シーザーは、コンバイ・カーナイ森に住む部族の出身であったが、幼少時に象に兄を殺されたことがきっかけでマドゥライに出て来てギャングスターになった。シーザーはクリント・イーストウッドの大ファンで、イーストウッド映画専門の映画館を所有しているほどだった。シーザー暗殺の命令を受けたのは、元警官で、濡れ衣を着せられて服役していたキルバン(SJスーリヤー)だった。シーザー暗殺に成功すれば無罪放免となり、警察官にも復帰できるという条件付きだった。

 ちょうどシーザーは自身の映画を撮ってくれる監督を募集していた。キルバンは映画業界で働いていた甥のドゥライ(サティヤン)を巻き込んで応募する。キルバンは、サティヤジート・ラーイ(サタジット・レイ)の弟子ラーイ・ダーサンを名乗ってシーザーと会い、気に入られる。

 キルバンはだましだまし撮影を行いながらシーザー暗殺の機会をうかがうが、なかなか成功しない。そこでキルバンは名案を思い付いた。シーザーを、コンバイ・カーナイ森で象の密猟を行うシェッターニと戦わせて死なせてしまうというものだった。シーザーも乗り気になり、意気揚々と故郷の村に戻る。そこには妊娠中の妻マラヤラシ(ニミシャー・サジャヤン)もいた。

 シーザーはシェッターニと戦い、毒矢を受けて負傷する。このときまでにシーザーに肩入れするようになっていたキルバンはシーザーを村に連れ帰り治療を受けさせる。回復したシーザーは再びシェッターニと戦い、生け捕りにする。チンターマニ州首相はシーザーの功績を讃え、シェッターニを引き取る。だが、実は州首相自身がシェッターニの黒幕で、森から象や村人を一掃して開発業者に売り渡そうとしていたのだった。チンターマニ州首相はシェッターニの正体はシーザーだと主張し、ラトナ警部に彼の抹殺を命じる。

 シェッターニがいなくなり、村人たちは村の守り神セートゥカーリー女神の祭礼を行って祝った。この祭礼中にマラヤラシは出産し、男児が生まれる。だが、警察から解放され、象の攻撃を受けて瀕死の重傷を負ったシェッターニからシーザーとキルバンは裏事情を知ることになった。警察の一団が村に押し寄せようとしていた。シーザーは武器を持って戦っても無理だと言い、村人たちと共に踊って死を受け入れることにする。そしてキルバンにはその様子を撮影させ、それを武器にして不正を暴こうとした。シーザーと村人たちはラトナ警部の射撃命令に逆らわずに踊りながら死を迎えた。その場から離れようとしたキルバンもラトナ警部に撃たれてしまう。

 州首相の怒りを買ったカールメーガム大臣は次期州首相候補から外れ、ジャヤコーディが次期州首相に指名される。だが、ジャヤコーディの主演作が公開されると、そこでキルバンが撮った映像が流された。民衆は州首相やラトナ警部の不正やシーザーの英雄振りを知り、抗議を行う。チンターマニ州首相とジャヤコーディの政治生命は絶たれた。また、キルバンは生きており、ラトナ警部を殺してシーザーの仇討ちをする。キルバンはシーザーの息子を無事に連れ出しており、彼を「セートゥ」と名付けた。

 カールティク・スッバラージ監督は優れた脚本家としても知られており、毎回凝った筋書きの映画を送り出している。「Jigarthanda DoubleX」の冒頭は、一見無関係に思われる複数のエピソードが続けざまに語られ多少混乱するが、すぐに全てが有機的につながり、物語が加速する。無駄は一切ない。

 前作に引き続き「Jigarthanda DoubleX」で主張されているのは、映画が持つ魔力だといえる。映画は関わる人の人生を変え、社会の改善に絶大な威力を持つことが声高らかに宣言されている。全体から映画愛がほとばしっており、映画好きによる映画好きのための映画だと強く感じる。

 「Jigarthanda DoubleX」では、映画を撮る方も映画で演技をする方も、どちらも本物ではなかった。ギャングスターのシーザーは、当時ハリウッドの西部劇映画に出演し人気を博していた俳優クリント・イーストウッドに陶酔していた。特に一対一の撃ち合いで決着を付けることに憧れており、実際にそのスタイルで敵を倒すのをモットーとしていた。シーザーは、現実世界でのイーストウッドごっこに飽き足らず、映画の中でイーストウッドと一体化するため、映画出演を決意する。そして、「タミル語映画界初の色黒俳優」になるために映画監督を探す。ちなみに、1975年というとちょうどラジニーカーントのデビュー年であった。また、警官を志しながら冤罪により殺人の容疑を掛けられ有罪となり服役していたキルバンは、汚名返上のためにシーザー暗殺の任務を引き受け、映画監督を装って彼に近づく。だが、いざ映画撮影に入ると、二人は映画の魔力に取り憑かれ、彼らの心には大きな変化が訪れる。

 より大きな変化はある程度時間が経った後に現れるのだが、既に最初のショットを撮ったときから、映画の魔力は彼らの身体の中を電撃のように駆け巡っていた。シーザーは監督の「アクション」という掛け声と共に体内から高揚するエネルギーが湧き上がるのを感じ、キルバンは撮影現場でギャングをも従える絶対的な権力を持つ映画監督という仕事の魅力を知る。

 映画の中で主演俳優はヒーローになるが、シーザーはリールの世界でヒーローであるためにリアルの世界でも英雄的行動に出ようとする。ギャングスターとしてマドゥライを支配していたシーザーは、故郷の村に戻り、象を守って密猟者シェッターニと対峙したことで、村の指導者に脱皮した。映画監督は映像でもって問題を提起し、社会をより良くしようとする。実はキルバンに濡れ衣を着せたのはシーザーだったことが発覚し、彼にとっては私怨の相手でもあったのだが、カメラ越しにシーザーの行動や成長を映し続ける内に、彼はより大きな使命に目覚め、彼を応援するようになる。

 1970年代が舞台の映画であり、映画中でキルバンの撮る映画の撮影に使われていたのもキャノン製の古風な8mmフィルムカメラだった。その形が拳銃に似ており、シーザーはそれを玩具の銃と勘違いしていたという小ネタもあった。映画が進行する中で、拳銃に似たそのカメラに深い意味が持たされていたことが分かる。政治ゲームに巻き込まれたシーザーは最後に警察の一団に襲われるのだが、ギャングスターであったはずの彼は敢えて暴力による抵抗を放棄し、映画という「武器」でもって戦うことを決意する。「ペンは剣よりも強し」という名言は有名だが、カールティク・スッバラージ監督は真実を映し出す映画を「武器」と呼んだ。むしろ映画は架空の世界を映し出す媒体だと思うのだが、まだ映像処理が発達していなかったこの時代、カメラが録画した動画はそのまま真実となり得たと解釈してもいいかもしれない。

 南インド映画では暴力的な結末が好まれる傾向にあるが、シーザーが非暴力による抵抗の道を選んだことで、インド独立の父マハートマー・ガーンディーの掲げた非暴力主義に沿った映画と見なすことが可能になっていた。もちろん、シーザーの遺志を継いだキルバンがラトナ警部を早撃ち対決の末に撃ち殺すシーンで締められており、暴力性は完全に排除されていないのだが、ギャング映画らしからぬメッセージ性のある映画になっていた。

 インド映画にクリント・イーストウッドが登場するというのは珍しい。シーザーによれば、彼は子供の頃に村でイーストウッド主演の「Caesar」という映画の撮影現場に出くわし、彼からカウボーイハットと8mmフィルムカメラをもらったとのことだったが、イーストウッドがインドでロケを行ったという記録も、「Caesar」という映画に出演した事実もない。

 主演ラーガヴァ・ローレンスは決して大柄な俳優ではないが、恐ろしいギャングのドンを迫力で演じ切っていた。イーストウッド・ファンだったり、俳優になろうとしたりするお茶目さも持ち合わせるキャラで、それを同居させるのが難しかったのではないかと思うが、それも難なくクリアしていた。キルバン役を演じたSJスーリヤーもメリハリのある演技をしていた。キルバンは「Pather Panchali」(1955年/邦題:大地のうた)ベンガル人監督サティヤジート・ラーイの弟子を名乗っていたが、確かにベンガル人顔をしている。

 「Jigarthanda DoubleX」は、前作「Jigarthanda」の主題を受け継ぎながら、その前日譚となる作品を上手に創り上げた作品だ。カールティク・スッバラージ監督は脚本の良さで定評があるが、それ以外の映画としての構成要素、たとえば俳優の演技やアクションシーンなども、高い完成度を誇っている。必見の映画である。既に第3作「Jigarthanda XXX」の製作も発表されているが、こちらはセートゥの成長物語になるのではなかろうか。