2024年8月19日に一般公開されたヘーマー委員会の報告書がインド全土の映画業界を揺さぶっている。
事の発端は2017年に発生した、マラヤーラム語映画女優バーヴァナー・メーナンの誘拐強姦事件であった。
バーヴァナーは2002年からマラヤーラム語映画を中心に南インド映画界で活躍してきた女優である。2017年2月17日、バーヴァナーは仕事に帰りに10名の男性たちに誘拐され、走る自動車の中で性的暴行を受けた後、解放された。バーヴァナーは被害届を出し、犯人たちは逮捕された。当初は単なる偶発的な事件扱いされ、犯人逮捕をもって早々に捜査は終了した。ところが、その後にマラヤーラム語映画俳優ディリープがこの事件に関与していた可能性が浮上した。ディリープは多くの映画でバーヴァナーと共演していた。ディリープは容疑を否認したものの、逮捕された。その公判は現在でも続いている。
この事件をきっかけに、マラヤーラム語映画で働く女性たちが映画女性共同体(WCC)を結成し、業界内にはびこる男女不平等やセクハラ問題を糾弾し始めた。ディリープの関与が明らかになったのも、WCCが事件の再捜査を要求したためであった。
ヘーマー委員会はWCCの要求によりケーララ州政府によって設立された委員会である。ケーララ州高等裁判所の元裁判官Kヘーマーが委員長を務めたため、このように呼ばれる。ヘーマー委員会はマラヤーラム語映画界で働く女性が直面する問題や職場を取り巻く環境を調査し、その解決法を提案することを使命としている。その報告書は2019年12月に提出されたが一般公開されなかった。この度、情報公開法(RTI法)に従って一般公開された内容が物議を醸しているのである。
ヘーマー委員会報告書に目を通すと、調査の前提として興味深いことが書かれているのを見つけた。マラヤーラム語映画界で働く女性たちは少なくとも以下の30カテゴリーに分類できるという。
- Actress 女優
- Producer プロデューサー
- Junior Artist サポート俳優
- Director 監督
- Cinematographer / Camera Woman 撮影監督
- Associate Director / Assistant Director 助監督
- Costume Designer 衣装デザイナー
- Graphic Designer グラフィックデザイナー
- Make-up Artist メイクアップ・アーティスト
- Cine Distributor 配給業者
- Hair Stylist ヘアスタイリスト
- Cine Exhibitor 興行業者
- Production Executive プロダクション幹部
- Still Photographer 写真家
- Dubbing Artist 声優
- Playback Singer プレイバックシンガー
- Editor 編集者
- Lyricist 作詞者
- Technician 技術者
- Music Director 音楽監督
- Script Writer 脚本家
- P.R.O. 広報担当
- Dancer ダンサー
- Art Director 美術監督
- Dance Choreographer ダンス・コレオグラファー
- Sound Engineer 音響
- Choreographer コレオグラファー
- Studio Staff スタジオスタッフ
- Production Department Staff プロダクション・デパートメント・スタッフ
- Academician 学者
25番の「ダンス・コレオグラファー」と27番の「コレオグラファー」にどんな違いがあるのかだけが分からなかったが、その他は確かにインド映画のエンドロールでよく見る用語である。女性に限らず男性も概ね同様の分類ができるのではなかろうか。1番の「Actress」が「Actor」、5番の「Camera Woman」が「Camera Man」になるだけだ。
もし追加すべきものがあるとしたら「Background」だ。これは日本でいう「エキストラ」で、観客席の群衆や通りすがりの通行人などを指す。エンドロールに名前が載らないことも多い。ちなみに筆者がヒンディー語映画「Paan Singh Tomar」(2012年)に出演したときは、監督から3番の「ジュニア・アーティスト」の呼称で呼ばれていた。日本では使われない用語だろうが、「Actor/Actress」と「Background」の中間に位置づけられる。
さて、ヘーマー委員会は映画業界のあらゆるカテゴリーの女性から事情を聞く努力をした。中には一様に回答を拒否したカテゴリーの女性もいるようだが、概ね十分な情報が得られたようだ。その過程で、後で述べるように、業界に根強く残る男性中心主義が認められたのだが、意外にも、一部の男性有力者によって男性も抑圧されている状況も見出されたという。また、全ての男性が一律に女性差別的な言動を行っているわけではないことも強調されていた。業界内には、気持ちよく仕事をすることができる尊敬すべき男性も複数おり、それは調査に協力した全ての女性が口を揃えて述べた事実だったという。
それでも、調査の過程で明らかになったのは、業界内で放置される男女不平等と、セクシャルハラスメントが当たり前になっている酷い現状である。報告書は、「映画界ではセクハラなどが衝撃的に横行し、野放しのままになっていてコントロールされていない」と躊躇なく結論づけ、厳しく糾弾している。報告書で報告されたのは以下の17点である。
- 映画界に入るため、また映画界で働くチャンスを得るために、女性に対してなされる性的要求。
- 職場、交通機関、宿泊施設などでの女性に対するセクハラ、虐待、暴言。
- 性的要求に対して抵抗や不本意を表明した女性に対する拷問。
- 映画撮影現場においてトイレや更衣室などの基本的な設備を提供しないことによる女性の人権侵害。
- 映画撮影現場、宿泊施設、交通機関等における安全とセキュリティの欠如。
- 映画業界の各分野で働く個人を、理由なく違法にのけ者にすること。
- 映画業界での雇い止めという脅迫のもとでの女性を黙らせること。
- 業界における男性の支配、ジェンダー・バイアス、ジェンダー差別。
- 飲酒、薬物の使用、職場での乱暴な行為、不品行など、著しい不規律。
- 職場や電話などで下品で卑猥な発言をすること。
- 雇用者と被雇用者の間で、個人の要求に合うような契約を書面で交わさないこと。
- 同意した報酬さえ支払わないこと。
- 男女間の報酬格差、報酬における男女差別。
- 女性を映画業界の特に技術的な職種に入れることへの抵抗や難色、及び機会の欠如。
- オンライン・ハラスメント(サイバー攻撃)。
- 女性自身に人権に関する法的意識が欠如していること。
- 苦情を処理するために法的に設立された機関が存在しないこと。
そもそもマラヤーラム語映画界では、撮影現場などで働く女性のためにトイレや更衣室が用意されていない。もちろん、主演女優には「ヴァニティー・ヴァン」と呼ばれるトイレ付きの専用ロケ車が用意されるが、そのトイレを一般女性が使うことはできない。そのため、女性たちは草むらで用を足したり、長時間我慢したりすることを強要される。
そのような問題の解決は急務であるが、その中でも調査に協力した女性たちがもっとも強く訴えたのは、やはりセクシャルハラスメントの問題であった。
インド社会において映画業界の吸引力は非常に高く、スターを夢見ていなくても、映画業界で何らかの形で働くことを望む人はたくさんいる。そういう女性に対して、男性有力者が性的な要求をする行為がまかり通っている。業界ではその性的奉仕を「コンプロマイズ(compromise/妥協)」や「アジャストメント(adjustment/調整)」と呼んでいる。女性が映画業界で成功するためには「コンプロマイズ」や「アジャストメント」は必須であり、逆にいえば、成功している女性は皆、何らかの男性に対して「コンプロマイズ」や「アジャストメント」をした経験があるとまで述べられていた。性的要求は業界のあらゆる方面から来る。俳優、プロデューサー、監督などである。
さらに調査では、そのようなセクハラ被害に遭った女性はその経験を家族にも明かそうとしない強い傾向が見出された。その理由は「女性らしい恥じらい」というよりもむしろ、それを暴露したり漏洩したりすることで業界の有力者から受けるだろう報復を恐れてのことである。仕事を干され、もう映画業界では働けなくなるのは確実であるし、殺害予告などの脅迫を受けたりして命が危険にさらされることもある。実際にWCCに加わった女性たちは村八分状態になっているという。マラヤーラム語映画界の女性たちは、性的な搾取をされた上、声を上げられないように恐怖でもって非常にシステマティックに沈黙を強要されているのである。
酒やドラッグについても触れられていた。マラヤーラム語映画界では酒とドラッグが蔓延している。多くのスタッフが酔っ払って職場に現れる上に、ドラッグは「創造性を高める」としてむしろ奨励されているくらいである。また、上層部が映画に関する重要事項について議論をする際、夜中に酒の席で行われることが多い。それは参加者が全員男性であることを前提にした「ボーイズクラブ」であり、酒が進むと話題がいつの間にか猥談に移ることも多々ある。よって、もし主要メンバーの中に女性がいたとしても、この議論には加わりにくい。そして女性スタッフが議論の輪にいない中で物事が決定されていき、結局女性の意見が通らない職場になってしまっている。
報告書にはセクシャルハラスメント以外にも各分野で働く人々から出た様々な不平不満が事細かに記されており、その解決法として、「適切な法令を制定し、その法令に基づいて審判所を設置すること」や「女性の参加を増やすこと」、そして、「ジェンダー・ステレオタイプから脱却し、社会の様々な場面で活躍する、少女たちのロールモデルとなるような女性を描くこと」などが提案されている。
ちなみに、報告書では被害者も加害者も個人名は全く公表されていない。よって、「業界の有力者」「マフィア・サンガム」などとして度々言及される監督、俳優、プロデューサーなどが誰なのかは分からない。しかしながら、マラヤーラム語映画俳優協会(AMMA)の名前は出て来た。その会長はマラヤーラム語映画界のスーパースター、モーハンラールである。これを受けてモーハンラール会長以下AMMAのメンバー17名が辞表を提出した。
今回はマラヤーラム語映画界で横行するセクハラが表沙汰になったわけだが、他の映画界が清廉潔白というわけではない。少し前にはヒンディー語映画界でも#MeToo運動が吹き荒れ、複数の俳優や監督がセクハラで訴えられた。当時はセックスと引き換えに女優が映画に役を得る、いわゆる「キャスティング・カウチ(Casting Couch)」が話題の中心だった。日本でいう「枕営業」である。だが、今回の出来事で、性的搾取の対象になっているのは女優だけではなく、映画業界で働く全ての女性であることが明らかになった。その状況はヒンディー語映画界でもそう変わらないだろうことが予想される。
2024年の下院総選挙で下院議員になった女優カンガナー・ラーナーウトは以前から映画業界に横行する女性差別について歯に衣着せぬ批判をしてきたが、ヘーマー委員会報告書を受けてさらに舌尖を鋭くしている。彼女は、女性への暴力を正当化し、女性の商品化を止めない業界の古い体質を批判するのみならず、進んでアイテムガールになりたがる女優も共犯者としてあげつらっている。