
2024年8月29日公開のテルグ語映画「Saripodhaa Sanivaaram(土曜日は不満?)」は、土曜日しか怒りを暴力で発散できない男性が主人公のアクション映画である。
監督はヴィヴェーク・アトレヤ。音楽監督はジェークス・ビジョイ。主演は「Makkhi」(2012年/邦題:マッキー)に出演していたナーニ。ヒロインはプリヤンカー・モーハン。悪役は「Mark Antony」(2023年)などに出演のSJスーリヤー。他に、アビラーミー・ゴーピークマール、アディティ・バーラン、Pサーイー・クマール、ムラリー・シャルマー、アジャイ、ジャーンスィー、スプリート、アジャイ・ゴーシュ、スバーレーカー・スダーカル、ハルシャ・ヴァルダンなどが出演している。
テルグ語オリジナル版に加え、ヒンディー語、タミル語、マラヤーラム語、カンナダ語の吹替版が公開された。鑑賞したのはヒンディー語吹替版である。2025年2月14日から「土曜日の男」の邦題と共に日本でも劇場一般公開された。
スーリヤ(ナーニー)は子供の頃から怒りを制御できず、父親シャンカラム(Pサーイー・クマール)や母親チャーヤーデーヴィー(アビラーミー・ゴーピークマール)は悩んでいた。その怒りっぽい性格のせいで、従兄妹であり片思いの相手だったカリヤーニーからは避けられていた。チャーヤーデーヴィーは、カリヤーニーの母親プラバーヴァティーを飲んだくれの夫から救うため、彼らを誰も知らない土地へ密かに引っ越させる。チャーヤーデーヴィーは病気で亡くなってしまうが、スーリヤは死んだ母親との約束で、土曜日しか怒りを暴力で発散しなくなる。
成長したスーリヤは国営生命保険会社に勤務しながら、土曜日に怒りを発散する生活を送っていた。スーリヤの姉バドラー(アディティ・バーラン)は結婚するが、結婚式にスーリヤが暴れたため、彼とは縁を切っていた。スーリヤは、新米警官チャールーラター巡査(プリヤンカー・モーハン)と仲良くなる。チャールーラター巡査は暴力警官ダヤーナンド警部補(SJスーリヤー)の下で我慢しながら働いていた。チャールーラター巡査は暴力嫌いであり、スーリヤは彼女の前で暴力的にならないように気を付けていた。ただ、土曜日には彼女に迷惑を掛けた人間を密かにぶちのめしていた。
ダヤーナンド警部補は兄で政治家のクールマーナンド(ムラリー・シャルマー)を目の敵にしていた。亡き父親からより多くの愛情を受けて育ったのは兄だと考え嫉妬しており、土地を巡っていざこざもあった。ダヤーナンド警部補が憤怒すると、下層民の住むソークラパーレムへ行って住民たちに暴行を加えていた。ダヤーナンド警部補はクールマーナンドを暗殺して彼の遺産を全てかっさらおうと画策していた。
スーリヤは、チャールーラター巡査からソークラパーレムのことを聞き、彼らと時間を過ごすようになった。ソークラパーレムの人々は臆病で、ダヤーナンド警部補の横暴に誰一人立ち向かおうとしなかった。そこでスーリヤは、彼らの中の誰がが立ち上がってダヤーナンド警部補に反撃するという茶番劇を演じることを思い立つ。もちろんそれは土曜日だった。ちょうどその日、ダヤーナンド警部補はクールマーナンドを暗殺しようとしていた。スーリヤは覆面をしてダヤーナンド警部補に襲い掛かるが、それはダヤーナンド警部補のクールマーナンド暗殺を止めることになった。
スーリヤとチャールーラター巡査の計画は、クールマーナンドにダヤーナンド警部補の殺意を知らせ、クールマーナンドにダヤーナンド警部補を殺させるというものだった。だが、天然ボケのクールマーナンドは、ダヤーナンド警部補が彼の命を救ったと勘違いしていた。ダヤーナンド警部補もそれに乗り、二人で覆面の男を探し出す。覆面の男は土曜日にしか暴行をしないということが分かり、いつしか「土曜日の男」と呼ばれるようになった。
スーリヤは、土曜日の男に暴行を受けたとダヤーナンド警部補に嘘の訴えをし、証人になる。ダヤーナンド警部補はソークラパーレム住民の中に「土曜日の男」がいると考え、彼らに暴行を加える。だが、「土曜日の男」は見つからなかった。ダヤーナンド警部補はチャールーラター巡査が「土曜日の男」と内通しているのではないかと気付き、そこからスーリヤこそが「土曜日の男」だと特定する。だが、ちょうどそのときクールマーナンドが自分を暗殺しようとしたのは弟だったことに気付く。そこでダヤーナンド警部補は兄を殺してしまう。
ダヤーナンド警部補はチャールーラター巡査を拉致し、暴行を加え、スーリヤをソークラパーレムにおびき出す。スーリヤはダヤーナンド警部補による攻撃を受け続けるだけだった。だが、ソークラパーレムの住民たちが勇気を出して立ち上がったため、彼も反撃を開始する。ダヤーナンド警部補はクールマーナンドの部下たちに引き渡され、殺される。
スーリヤはチャールーラター巡査こそが少年時代の片思いの相手カリヤーニーであることに気付く。全てが一件落着した後、二人は結婚する。
怒りの制御と発散を繰り返す主人公と、四六時中怒りを発散してばかりの悪徳警官ダヤーナンド警部補を中心に、物事を解決するときに暴力は肯定されるべきか否定されるべきかという命題が議論された映画であった。ヒンディー語映画をはじめとした多くのインド映画はマハートマー・ガーンディーの非暴力主義に影響を受けており、暴力を否定する方向で結末を迎える例が多い。だが、テルグ語映画はその真逆であり、暴力を肯定する方向に向かいがちだ。この「Saripodhaa Sanivaaram」も、暴力によって悪を成敗するパターンの映画であった。
ただ、ユニークなのは、主人公スーリヤに変わった枷が掛けられていたことである。彼は元々怒りっぽい性格だったが、土曜日限定で怒りを暴力で発散することで、それ以外の日は怒りを制御し平静を保っていた。スーリヤはインド映画のヒーローにありがちな一騎当千の戦闘力を持っていたが、その本領を発揮できるのは土曜日だけということである。これは、死んだ母親との約束に起因する。こういうところで母親を出してくるのもいかにもインド映画であるし、いかにも母親好きなインド人の発想だ。よって、スーリヤには暴力主義と非暴力主義が同居していた。土曜日以外のスーリヤは、どんな侮辱を受けても暴力的にならない自制心のある人間に見えた。それゆえに暴力嫌いなチャールーラター巡査にも好かれたのである。
「Saripodhaa Sanivaaram」は、非暴力主義と臆病を混同することをよしとしていなかった。映画中にはハイダラーバードにあるという架空のソークラパーレム地区が登場する。ここに住む住民は周囲の人々から泥棒だと考えられ、貧困の中で暮らしていた。これは、英領時代に英国人によって指定された「犯罪部族」のことをいっているのだろう。英国の支配を受ける前に既に特定のコミュニティーを生まれながらの犯罪者として見る考え方はあったと思われるが、英国人はそれを法制化し、差別構造を明確化してしまった。そのレッテルのおかげで「犯罪部族」とされた人々は社会の最底辺で生きることを余儀なくされる。ソークラパーレム地区の人々も虐げられており、特にダヤーナンド警部補による暴力を甘んじて受け入れている状態だった。彼らは非暴力主義者ではなく、単なる臆病者であった。
スーリヤは、ソークラパーレムの人々を自分の家族だと考え、彼らのために何かをしようと思い立つ。だが、彼が取った行動は、彼らを虐げるダヤーナンド警部補を直接打ちのめすことではなかった。彼は、ソークラパーレム住民の心に勇気を植え付けようとした。神話時代ならば困った人々を救いに神様が化身となってやって来てくれるかもしれない。だが、現代においては一人一人が勇気を持って不正に立ち向かわなければならない。彼のその行動は、インド映画の典型的なヒーローが取るものではなかったが、より社会を根底から改善しようとするイニシアチブであった。
マハートマー・ガーンディーも、決して非暴力主義を臆病と混同していなかった。彼は「恐怖こそが最大の病である」と述べ、抵抗なき非暴力は否定した。そして、暴力を使わずに抵抗することがもっとも勇気の要る行為だと断言した。そういう意味では、「Saripodhaa Sanivaaram」の提示した解決法は決して最上の策ではなかったかもしれないが、不正に対する抵抗は実現しており、ガーンディーが想定する最悪の事態は脱することができたと考えられる。
興味深いのは、暴力の是非の議論がロマンスや家族愛にも拡大されていたことである。そもそもスーリヤが暴力を土曜日に限定していたのは母親との約束があったからであり、母親亡き後は父親が彼に残された土曜日の暴力をも制御しようと努力していた。暴力のおかげで妹との関係も断絶したが、その妹が最終的にはスーリヤに暴力による解決を許す。また、スーリヤの恋人チャールーラター巡査も暴力嫌いであり、彼女との関係を維持するためにスーリヤは彼女の前で決して暴力的な一面を見せようとしなかった。それでもチャールーラター巡査は、思い入れを持つソークラパーレムの問題を解決するために、暴力に訴えるスーリヤを許すことになる。
3時間近くある映画だったが、あまりに多くのことを詰め込み過ぎており、これでもまだ語り切れていなかったように感じた。序盤はやたら展開が早いし、終盤でも話が飛んだように感じた部分が見受けられた。盛りだくさんだった割には分かりやすいストーリーではあったが、もう少しシンプルにしても十分に成立した映画だった。
主演ナーニはそつなくこなしていた。ヒロインのプリヤンカー・モーハンも無難な演技であった。彼らを完全に食っていたのが悪役のSJスーリヤーだ。元々曲者俳優だが、ここのところ彼の奇才がさらに増幅しているように感じる。
「Saripodhaa Sanivaaram」は、曜日限定で暴れ回る新たなヒーロー像を確立したアクション映画である。テルグ語映画らしく、最終的には暴力で物事を解決しているが、臆病のあまり抵抗を忘れた人々に勇気を植え付けるという文脈では、ガーンディーの教えに部分的に従っているともいえる。単なるアクション映画としても楽しめるが、考察する余地のある作品でもある。