
「All That Breathes」は、デリー北部のワズィーラーバードでトビを中心とした鳥の病院を運営するイスラーム教徒兄弟を取り上げたドキュメンタリー映画である。2022年1月22日にサンダンス映画祭でプレミア上映され審査員大賞を受賞した他、カンヌ映画祭でゴールデン・アイ賞を受賞、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートなど、世界中で高く評価された。
監督はシャウナク・セーン。カルカッタ(現コルカタ)出身、デリーのジャーミヤー・ミッリヤー・イスラーミヤー(JMI)やジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)で教育を受けた映画監督である。日本では2023年3月2日からU-Nextにて「オール・ザット・ブリーズ」の邦題と共に独占配信された。
デリーで鳥専門の病院といえば、オールドデリーのラールキラー前にある慈善鳥類病院(Charity Birds Hospital)が有名だ。1929年創立の歴史ある病院である。だが、この病院はジャイナ教徒によって運営されていることもあって、草食の鳥だけの治療を扱っているようである。一方、「All That Breathes」で取り上げられているのはワズィーラーバードのもので、比較的新しい。イスラーム教徒の兄弟が運営しており、トビを含む肉食の鳥の治療をしている。
「All That Breathes」はドキュメンタリー映画であるが、撮影者の存在感は極力消されており、あたかもフィクション映画のように物語が進む。ナディーム、サウード、サーリクの3兄弟が映像の中心であり、彼らが独白する場面もあるのだが、それが風景映像など、インタビュー映像とは一線を画した映像と重ねられるため、ドキュメンタリー映画らしさが抑えられている。
ヤムナー河沿いに位置するワズィーラーバードは、デリーの中でも決して住みやすい地域ではなく、どちらかといえば低所得者層が集住し、家屋と店舗が混在する、雑多な街である。近くにはゴミの集積地があり、環境汚染もひどい。兄弟の家系はその一角でソープディスペンサー(液体石鹸容器)の工場を営んでいたが、趣味の延長線上でトビなどの鳥の病院を始めた。彼らが資金難などに苦しみながら、外国からの資金援助を受け取るなどして、病院としての体裁を整えていく様子が断片的に描かれているのが「All That Breathes」になる。
イスラーム教では、鳥に餌を与えることで鳥が困難を食べてくれるという信仰があるようで、イスラーム教徒は基本的に鳥に対して愛情を持って接している。兄弟が運営する鳥の病院も、信仰心から始まったところもあるのかもしれない。だが、映像を見ていると、鳥に対するそれ以上の愛情を感じる。おそらく、本当に鳥が好きで始めた事業なのだろう。もちろん、金銭的な利益はなく、事業は寄付によって成り立っている。
病院に持ち込まれるのは主に空から落下した鳥たちである。近年、その数は急増している。なぜ落下する鳥が増えているのか。その出来事から、デリーの深刻な環境汚染に話が及ぶ。トビはゴミ山を漁って食べているという。そのおかげでゴミの量が減っているというようなセリフもあったのだが、当然ゴミの中には有害物質もあるわけで、それがトビの健康をむしばんでいるのだと思われる。ただ、驚くべきことにトビも環境の変化に敏感に適応しているという。たとえば、トビの巣にはよくタバコの吸い殻が入っている。それは、どうも虫除けのために拾ってきているようなのである。
環境汚染の他に映画で触れられていたのは2020年のデリー暴動だ。2019年に市民権法改正を巡りインドで宗教対立が起こったことがあった。この改正のポイントは、2014年12月31日までにパーキスターン、バングラデシュ、アフガーニスターンからインドに入国したヒンドゥー教徒、スィク教徒、キリスト教徒、仏教徒、ジャイナ教徒、拝火教徒にインド市民権を与えるということで、イスラーム教徒のみが外されていた。これに対しインド各地で大規模な抗議活動が起きたのだが、それが2020年2月にデリー北東部で発生した暴動につながった。主にイスラーム教徒が標的となり、多くの人命や資産が失われた。ワズィーラーバードでは暴動の直接の震源地ではないが、それほど遠くなく、イスラーム教徒の兄弟にとっては決して他人事ではなかった。
「All That Breathes」は直訳すれば「息をする者全て」、もっとこなれた訳をするならば「生きとし生けるもの全て」になる。物語の中心になるのは、本業そっちのけで鳥の救済に当たる兄弟たちの奮闘であり、それは鳥の命をも人間と等しく扱おうとする博愛主義に根ざしているといえる。だが、それと同時にこの題名は、人間による環境汚染のせいで生き物が息をすることすら困難になっていることを暗示している。実際、「All That Breathes」では、鳥以外にも犬、猿、豚、亀、ネズミ、クモ、ボウフラなど、さまざまな生き物が大都会デリーの片隅でうごめき生きている様子がカメラで捉えられている。また、市民権法改正やそれに対するデモ活動、その結果として起こった暴動を通じて、人間社会の中でも不寛容主義が拡大することで特定のコミュニティーが生きづらさを感じるようになっている様子が浮き彫りにされる。
ドキュメンタリー映画とフィクション映画の中間にあるような作風であり、物語を楽しむように鑑賞することができる。環境問題や排外主義に対しても、一歩引いた視点から言及し、婉曲的に問題提起しているだけで、あからさまな説教臭さはない。映像も美しく、特に生き物と人間の対比にハッとするような映像美があった。
「All That Breathes」は、近年勢いのあるインド製ドキュメンタリー映画の中でも白眉と呼べる優れた作品である。ドキュメンタリー映画なのにドキュメンタリー映画らしさを極力消し去り、あたかもフィクション映画のように物語を紡ぎ出すことに成功している。必見の映画である。