ヒンディー語映画を観ていると、現代を舞台にした若者の映画では特に、登場人物が英語を交ぜながら話しているのに気付くだろう。ヒンディー語を話していたと思ったら英語になり、英語を話していたと思ったらヒンディー語になる。その繰り返しにより会話が進んで行く。
これは、都市に住み、一定以上の教養を持つ、現代インド人の一般的なしゃべり方である。どの場面で英語を使い、どの場面でヒンディー語を使うかは、状況によって、個人によって、そしてそのときの気分によって様々だが、概して、あらたまった公式の場では英語、打ち解けた心理状態の場合ではヒンディー語が使われることが多い。
英語は、インド共和国の準公用語に規定されている。インドにおいて英語は英領時代に公用語となり、独立後もその地位を保持し続けている。憲法や法律では第一公用語であるヒンディー語の方が英語よりも上の地位を与えられているが、実際の現場では英語の方がステータスは上のままであり、しかも国際語としての有用性もあって、英語の地位はちっとも揺らいでいないばかりか、ますます強化されている。
実はこの多重言語構造は英領時代に始まったことではない。インド亜大陸では、言語によって人を区別し、優劣を付ける習慣が古代から続いてきた。言語が人の教養レベルを振り分ける指標として働き、特定の言語が政治と教養の言語として洗練され、それを使いこなせる人が社会の支配者層に君臨してきたのである。かつてはサンスクリット語がその地位にあり、中世にはペルシア語が取って代わった。それが今、英語になっているだけである。
単刀直入にいってしまえば、現代インドでは英語を話す人が偉い人なのである。逆に、英語を話せない人は三等市民扱いされる。英語が話せるインド人は、なるべく自分を大きく見せたい場面では、好んで英語を使おうとする。それだけでなく、英語が話せないインド人も、無理に英語を使って話そうとする。教育においても英語を教授言語とする学校が圧倒的に人気である(ミディアム参照)。
ヒンディー語映画にはよく、こんなシーンがある。ヒーローがヒロインに一目惚れし、何とか勇気を振り絞って、その女の子に話しかける。そのときまずヒーローは英語で話しかけるのである。「Ah, hello, my name is… Nice to meet you. Well, what’s your name?」といった具合である。それは、英語を話すことで女の子に好印象を与えたいからだ。女の子の方としても、英語を話せない人よりは話せる人を恋人に選ぶ可能性が高い。それもこれも、インド社会において英語が一段上の地位を保持しているからである。女の子を口説くときの第一のエチケットは、英語で話すことなのである。
ただ、二人の仲が親しくなると、会話は自然とヒンディー語になる。心のバリアが取り払われたときに自然に発せられるのが、母語たるヒンディー語なのである。そして、心情を表現しようとした際に、インド人にとって自然にかつ適切に表現できる言語も、英語ではなくヒンディー語なのである。
ところで、インド人の英語は訛っているといわれる。例えば、「r」をはっきり発音したり、「t」「d」の音がそり舌の音になったり、強弱アクセントがなかったりする。年配になればなるほど、地方に行けば行くほど、この訛りは強くなる傾向にある。逆に、米国在住インド人は流暢な米語を話す。台詞の中にどれだけ英語を交ぜ、その英語をどれだけ訛らせるか、どんな訛らせ方をするかで、そのキャラを効果的に形作ることができるため、ヒンディー語映画において英語の扱い方は、監督、脚本家、台詞作家、そして俳優の腕の見せ所となっている。
それと関連して、「ヒングリッシュ(Hinglish)」という言葉がある。「Hindi+English」から成る造語である。複数の意味があるが、単独で使われる場合、主に、インド訛りの英語もしくはヒンディー語混じりの英語のことを指す。もし「ヒングリッシュ映画」といった場合、それは、インドで作られた英語映画または海外在住インド系映画監督が作ったインド的な英語映画のことを指す。全ての台詞が英語の完全ヒングリッシュ映画もあれば、ヒンディー語が混じった準ヒングリッシュ映画もある。これらを明確に線引きできるような基準はない。ただ、21世紀に入り、一般のヒンディー語映画にも英語の台詞が混じることが多くなったため、ヒングリッシュ映画というジャンルを別に立てる必要性は少なくなってきている。
会話の写実性を重視するならば、もっとも重要なのは、現代インド人が実際にしゃべっているしゃべり方をなるべくそのまま反映させることだ。そして、現代のヒンディー語映画の多くは、その努力をしている。そのために、登場人物の台詞には英語が混じるのである。